黄色い泉

七沢ゆきの@11月新刊発売

第1話 黄色い泉

「生き腐れていく」


 声に出した言葉はへんに語呂がよくて、わたしは久しぶりにすこし笑った。


 外ではジージーとセミが鳴いている。

 暑いのだろう、きっと。

 この部屋から出たら。


 小学生のころ、屍臭というものが知りたくて、夏休みの自由研究で卵の腐る過程の観察日記をつけて叱られた。


 そのときと同じ臭いが部屋の中には充満している。


 わたしの体が腐る臭い。


 医療機関でもこれと末期のアルコール依存症の患者から出る臭気は忌み嫌われる。

 腐臭はタールのようになった血膿の臭いと同じくらい酷く不快なものだ。


 あなたがいなくなり、わたしは動くのをやめた。


 生きる最低限のことの中でも、本当にしなければいけないこと以外はしなくなった。

 あとはただ、ベッドの上で蟲のように蹲るだけ。


 すると人の体はいとも簡単に生き腐れていく。


 皮が溶け、肉が溶け、そのうち骨も見えるだろう。


 わたしはそれが嬉しい。


 最近、夢で見るあなたは笑いながらわたしに向かって歩を進めてくる。


 遠く朧だった顔も、今でははっきり見えるほどになった。あの日、「うん」とうなずいて手を振ってくれた時の顔だ。


 きっとあなたはこんなことで喜びはしないだろうから、あれはあなたのニセモノだろうけどもうそれでいい。


 死にたい。


 その想いがもうわたしに残った唯一のモノだ。


 けれどこの体は嫌になるほど丈夫で、腐りはじめるまでは何をしてもあなたは近づいてきてくれなかった。屋根から地面に口づけをしても、体内が焼けるほど酒を飲んでも。


 でもこうなってようやく、わたしとあなたは近づいていく。


 ジージーという音がカナカナへと変わりはじめる。


 夏の夕暮れ。あなたと一緒に見るのが好きだった熟れたトマト色の太陽。

 溶け始めた肉はその色とよく似ていていとおしい。


 それに腐った体であの坂をおりていけば、いくら「おまえが死ぬなんてくだらない」と言ったあなたでも帰れとは言わないでしょう。同じように腐った体でしかたなくわたしを迎えてくれるでしょう。


 だからわたしは待つ。


 黄色い泉のある国への船が出るのを。


 たゆとうように、その岸辺に船がつくのを。


 私は蟲の姿のまま、ベッドの上で夢を見る。永遠の夢を見る。


「生き腐れていく」


 繰り返すと、そのかすかなつぶやきに答えるように蝉が窓にぶつかり、そのままバルコニーへと落ちて動かなくなった。


「いってらっしゃい」


 わたしは、一足先にあなたに会える蝉にそう声をかけた。

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