第4話 僕たちは二人だけで打ち上げ花火を見たかった


打ち上げ花火、


  教授と見るか?

  准教授と見るか?




 ――――幾通り、幾千通りの夢を見ていた。



 夢は「どういう選択肢」を選べば「どういう結果」がまっているかというもので、それ一つ一つが仮説と実験結果のようでもあった。

 そして、いつもその結果の中心にいるのは、長い黒髪を後ろで纏めた、どこか儚げな白い顔の女の子で、やっぱりいつもその結果は悲劇と呼ばれるものになっていた。



 短いものでは数日、そして長いものでは二十年もの「実験」。



 一つの実験結果(未来)では、及川さんは研究データのねつ造を思い悩み自殺してしまい、別の未来では、事件発覚後に大学を退学していて、また別の未来ではある日突然行方不明になっていた。



 僕はその幾千通りの"未来"のなかで、必死に及川さんを助けようともがき続けたのだけれど、その結果はやはり「悲劇」でしかなかった。




一、


 僕が何度かの時間遡上を繰り返した後で、変化が現れた。


 時間をさかのぼった僕自身の"生物としての"記憶は、さかのぼった"その時点"での記憶担当細胞の状態に規定され、「前の実験結果」を知らないまま、次の「実験」を進めていく。そうやって途方もない時間――それをそう呼んでいいものかどうかわからないけど――が過ぎたあとで、別の人間がその場にいることに気付いた。


 その姿は及川さんによく似ていて、彼女は自分自身を「選ばれなかった未来」での及川さんが抱いていた後悔や悲しみ――それに憎しみという強い感情から生まれた『存在』だと語った。


「あなたの手助けがしたい」


 その『存在』は僕に向かってそう言った。僕はその時、本当に疲れていて吐き捨てるように答えた。


「たとえ時間を逆行したとしても、『その時の』僕は時間を逆行していること自体を覚えていない。この場所にかえって来たときだけ、僕は『すべてを思い出して』、だ。だから、君が何者であれ、このただ繰り返されるだけの無意味な実験には何もできやしない」


 それでも彼女は嫌な顔ひとつすることなく、座り込む僕に近寄り、手を握る。


「…………これは?」


 手のひらに一つの薄緑色のガラス玉が握らされていた。中には、花びらが一枚封じこめてある。


「覚えて…………ないかな、やっぱり」

 及川さんの姿をしたそれは少しだけ寂しそうな顔をする。

「それは君と"及川なずな"との『絆』。そして、それぞれの未来の"私"が最後に思い出した夢のひと欠片。君がこの場所のことを思い出すきっかけになってくれるはず…………ねえ、覚えていて欲しい。君と"私"は――――」


 何度繰り返しても、その最後の言葉だけが聞き取れない。そうして僕はまた、この場所に還ってきた。また、"最悪な"実験結果を携えて。



「…………また、ダメだったんだ……もうどうしようもないんだろうな」

 僕の言葉に、少女は夜の闇を溶かし込んだような黒い瞳に涙を浮かべ、にっこりと微笑む。

「まだ…………まだ大丈夫だよ、ノリミチ君。"さっきの"世界で、ちゃんと君は"私のこと"を思い出してくれた。救おうとしてくれた」

「…………でも結局ダメだったじゃないか。いくら過程が良くても、結果が――」

 そういう僕の言葉をさえぎって、少女が続ける。


「ねぇ、覚えてる? あのガラス玉。"私"たち、最初に出会ったのは『大学の入学式』じゃ……ない…………」


 また肝心のところで声が遠くなって行く。いつもこうやって、僕は何も知らないまま無意味に繰り返される実験に放り込まれてしまう。僕はそれに抗うように、声を振り絞る。


「何だよ!? 聞こえない!! 僕たちはどこで会ったんだ!! 教えてくれ! どうすれば――」


 そう言うと、及川さんと同じ姿をした彼女は弱々しく笑い、応える。



「大丈夫だよ。君は今度はどこに行けばいいのか――もう知ってる。大丈夫」




最終話 『僕たちは二人だけで打ち上げ花火を見たかった』




 夕方七時になっても、実験室には数人の研究員たちが残っていて、言葉を交わすことなくマイクロピペットの頭をカチカチと押しているか、あるいは仕切りのない事務机に置かれたデスクトップパソコンの前でキーボードを叩いている。これが、節電という名目で大学が強制的に灯りを落とす夜の十一時まで続く。


 灯の消えた研究室で、実験台のうえに設置された小さな蛍光灯をたよりに、黒い影が一つ、実験を続けている。さすがに他には誰も居残ってはいない。



「大丈夫……私は大丈夫…………」


 そう、ぶつぶつと呟きながら、黒い髪を後ろに纏めた女がPCRサンプルをゲルに流す。電圧をかけ、電気泳動槽の端からぶくぶくと泡が立つのを、虚ろな黒い瞳で見つめている。その下には心なしか隈も見えていて、着ている白衣もところどころ汚れている。

 影はもう一度「大丈夫だから」と呟いて、サンプルが入っていて1.5mLチューブをすべて捨てようとする。



 ――――その瞬間、何者かがサンプルチューブを持っていた女の手を掴む。



 驚きのあまり落としそうになったサンプルチューブをもう片方の手で受け止め、こちらの顔をじっと見つめるその男の顔には見覚えがある。


「――――島田君!? な、何を!」


 及川の問いかけに、典道は何も答えずに手元のサンプルと及川の書いた実験ノートを見ている。それを慌てて閉じようとする及川を、掴んだままの手に力を込めて制止する。


 典道は目線を及川に戻して、ゆっくりと顔を左右に振る。


「な……なんなの、島田君…………人を呼ぶよ?」

「…………及川さん……さっき電気泳動に流したサンプル、ようだけど」


 及川は驚いたように痩せこけた目を見開く。


「――――ッ!! そ、それは…………ち、違う。ちょっと間違っただけで」


 典道はもう一度、首を横に振る。それを見た及川が「ひッ」と小さく悲鳴を上げる。


「…………及川さん、もう祐介さんが――安曇先生が気づいて調査を始めてる。この実験のことだけ誤魔化したりしても、何も変わらない」

「ち、ちがッ!! 私は何も! これは教授が――――」


 及川は取り乱して叫び、その場に座り込んでしまう。典道は及川の手を離し、サンプルチューブの名前と実験ノートをスマートフォンで撮影する。及川は両手で顔を覆い、か細い声ですすり泣いている。




「…………教授から奨学金の成績優秀者返済免除の話があったの」


 床に座り込んで下を向いたまま、及川さんは僕に伝える――というよりも、誰かにすべてを話して自分が背負ったものを軽くしたいというようにぽつり、ぽつりと話し始める。



 彼女の話はシンプルだった。本当に、そして悲しいまでに。


 小学校の頃に両親が離婚して、母親に引き取られた彼女は秋田の小さな田舎町でひっそりと暮らしていた。学業の成績の良かった彼女が、高校を卒業して大学に入学する段になって、今度は母親の体調が悪化する。


 それでも娘の将来を思う母親は「娘のために」とわずかに蓄えていた貯金を切り崩して娘に渡し、自分は無理を押して働きに出た。及川さんが学部を卒業して、修士に入る頃には今度は逆に彼女が母親を支えるようになっていた。


 そこに岩井教授が金の話をする。


 もちろん困っている学生を助けるために、様々な制度を紹介するのは指導教員としては適切な行為だろう。ただ、彼はその後で『一つだけ』条件を彼女に付ける。

 

 それが、あの捏造・改ざん事件の本当の原因だった。


 でも、僕がこれまでに見てきた幾千もの悲しい結末を迎える『未来』では知りえなかったことだった。そう、知らなかったんだ僕は――――――




 "なずな"が僕たちと別れたあの後で、ひとりぼっちで、こんなにも辛い、悲しい生活を送っていたなんてことは!




「…………小学校5年生の夏、"賭け"をしただろ? 学期末のテスト、どっちが勝つかって」


「えっ!?」


「負けた方は買った方のいうことを何でも一つだけ聞く。結果は"なずな"が5点差で勝って、夏祭りの花火を見に行った。紺色の紫陽花柄の浴衣――俺の姉ちゃんの浴衣を借りて、一緒に電車に乗って隣街の海浜花火大会。お前の望みは『二人だけで』だったのに、俺は恥ずかしくてみんなを呼んでしまった」


 なずながハッと何かを思い出したようにこちらを見上げる。


「"このままどこか遠くに行きたい"…………あの時、なずなが言ったことの本当の意味、俺にはわからなかった。今の今まで……ごめんな」


 なずなはまたうつむいて、小さすぎる声で「もう遅いよ」とだけ呟いたように聞こえた。

 本当に何もかもが遅かったのかもしれない。

 すでになずなは捏造や改ざんに手を染めて、いくつかの論文を海外誌に発表してしまっている。でも、まだ間に合うことはある。そう、"あの世界"であったあの頃と同じ姿の"なずな"が教えてくれた。



「行こう、なずな。これまでの捏造や改ざんの証拠を集めて、祐介さんのところに。全部、正直に話すんだ」

「……でも、私…………」

 僕はなずなの手をとる。そして、その手にあのガラス玉を握らせる。

「これは……?」

「覚えてないか……俺もつい最近まで忘れてた。あの時、俺がなずなのために買った細工入りのビー玉。でも、みんなに見つかってなずなは俺に突っ返しちゃっただろ?」

 ふらふらと立ち上がったなずなが、「あっ」と声を上げる。


「…………思い出した。私、本当はうれしかったはずなのに」

 なずなはガラス玉をぎゅっと強く握る。


「行こう。もしかしたら、これで大学は退学になるかもしれない。でも、"今度は"俺も一緒に行く。なずなを一人にはさせない」

「でも、"ノリ君"…………」


 僕はなずなにむけて微笑む。"彼女"があの場所で何度も僕に向けてそうしたように。



「祐介さんが言ってた。『科学の世界はバトンをつないでいく永遠に続くリレーみたいなものだ』って。誰かの論文を参考にして始めた俺たちの実験結果は、まだ見たこともない誰かのアイデアにつながっていく。それが延々と続いて一つの答えに近づいていく。


 もちろん、その時点ではわからなかった間違いが紛れ込むことはある。その時は転びながらも、誰かの支えを得ながら、それでも正しい方向に進んでいこうとする。誰か一人だけではなく、みんなで…………だから、悪意や故意をもって『嘘』を混ぜ込むのは世界中を巻き込んでしまう。


 その悪意や故意の『嘘』で、膨大な時間と研究費、それに時には関わった学生やポスドクたちの運命さえも変えてしまう。捏造や改ざん、研究不正は絶対にあってはならないことなんだ」


 なずなはうつむいて「ごめんなさい」と肩を震わせている。


「大丈夫。まだ間に合うよ…………それに、こんなことを言ったら、なずなは信じないかもしれないけど、こことは違う世界で、俺は何度も何度もなずなを助けようとしたんだ。全部失敗したんだけど。でも、どの世界でも、毎回、なずなは方法は全部間違っていたけど、自分のやったことを後悔して、罪を償おうとしていたんだ。だから……根拠はないけど、なずなは『大丈夫』。それに今回は俺も一緒にいる」


 僕はそう言って、もう一度、なずなの手をとる。なずなは涙をこぼしながら、無言で今度は力強くうなずく。




 僕となずなが祐介さんに提出した証拠類は、彼自身が進めていた岩井教授の告発を後押しし、決定的な証拠として、これまでのどの世界でも逃げ切ったはずの岩井教授を捕らえた。まだ処分が決まる前の出勤停止期間であるものの、重い処分は免れないだろうというのが祐介さんの意見だった。


 それはもちろん、実際に不正を行ったなずなに対しても。


 僕は「お前自身がやったことじゃない」と何度も引き留められたものの、それを断って大学院を辞めた。幸い両親の古い知り合いがやっている実家近くの中堅企業で働けることになって、なずなも近くでパート先を見つけることができた。


 母親も姉も十年ぶりにあったなずなに驚いて、そして彼女の境遇を自分の家族のことのように大泣きした。こんな家族だっただから、大学院を辞めたということ自体については、それほど深くは追及されなかった。


 それに――こんな家族だからこそ、僕はもしかしたら、またいつか大学院に行きたいと思うかもしれない。




「……どうしたの?」

 隣に居たなずなが僕の顔を覗き込む。彼女の長い黒髪が潮風で煽られて舞っている。僕たちは実家から車で数十分のあの花火大会があった砂浜に来ていた。夕日が遠くに沈みかけていて、かすかに打ち上げ開始時刻を告げるアナウンスが聞こえる。



「…………もしかして、後悔してる?」

 なずなは心配そうにこちらを見ている。「いや、まさか。それに――」と彼女を自分の方に抱き寄せる。胸元には加工して首飾りにしたあのガラス玉が光っている。




「…………それに、俺も本当はあの時『二人だけで打ち上げ花火を見たかった』って思ってたんだ」



 そう言った瞬間、夜空に鮮やかな花びらが舞う。それを見上げて僕たちは「来年も、再来年も、その次もまた一緒に」と唇を重ねた。





(了)

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打ち上げ花火、教授と見るか? 准教授とみるか? トクロンティヌス @tokurontinus

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