予兆

 そこはお父様とお母様と私しか居ない世界だった。

 お部屋には絵本はいっぱいあったけど、絵本の中に出てくるような動物も人もここには誰も居なかった。

 食べ物は、倉庫にあるもが減るといつの間にかに補充されていたので飢える心配は無かった。

 お父様とお母様からは、むやみにお屋敷から出てはいけないと言われていたけど、家の外に何があるのか、どんな景色が広がっているのか興味はつきなかった。

 ある日、知らない誰かに会いたいという好奇心が抑えられずに、私はお母様やお父様に見つからないよう、こっそりと家を抜けだして外の探検に出かけた。

 探索の終わりはあっという間で、少し歩くと何処へ行っても白い壁に行く手を遮られた。

 白い壁は触れると金属のように固く冷たくて、ずっと触っていると体温が奪われるような錯覚がして近寄るのが怖くなった。


「お母様。お外の白い壁の向こうには何があるの?」


 私の質問に、お母様は首を横に振り「知らなくていい事です」と答えるだけだった。


 何処へ行っても白い壁に阻まれる憂鬱さで、探検にも飽きてきたある日。

 私は白い壁に、見たことのない黒い模様がついている場所を見つけた。

 それはよく見ると模様ではなくて、壁に入ったヒビだと触れて初めて気づいた。

 亀裂の中を覗き込もうと近づくと、突然亀裂の向こうから地の底から聞こえる様な低い声がしたので私は尻餅をついてしまった。


「何……誰かいるの?」


 私は尻餅をついた服の埃を払うと、声のする方向にビクビクしながら尋ねた。


「あぁ、僕の声が聞こえるんだね。良かった……この壁の向こうに生者せいじゃの匂いがするから気になってたんだ」


「あなたは誰?」


 纏わりつくような低い声が気になった私は、恐る恐る壁の方へと話しかけた。


「僕は誰だったかな……そうだ、名無しナナシでいいよ」


 ナナシと名乗った壁の向こうの声は、親しげに私に語りかけてきた。


「ナナシ?ナナシはどうして、そこにいるの?」


「僕かい?確か大きな人鳥カイザーペンギンに雪道でばったり出会って上翼攻撃フリッパーで殴られてね。

気が付いたらここに居たのさ」

 

人鳥ペンギン!!何だかすごい強そう。見てみたい」


人鳥ペンギン以外にも色々知ってるよ。きみはに興味はないかい?」


 ナナシの言葉に誘われて、私は白い壁のヒビに近づいてみた。


には鳥さんやお魚さん、妖精さんもいる?」


「ああ……いるよ。鳥もいるし、妖精もいる。美味しい食べ物だっていっぱいある。楽しい所だよ」


「いいなあ、私のお家にはお父様とお母様しかいない……ナナシの世界のお話をもっと教えて?」


「お父さんとお母さんいるんだね。ああ、いいよ……こっちの事を教えてあげる」


「ほんとうに?嬉しい。私はね、オルタンシアって言うんだよ」


「オルタンシアかあ……いい名前だなあ、きみの姿も見てみたいよ」


 それから私は、ナナシと話をするために家を抜けだしてヒビのある壁の前にやってきた。

 ナナシの住む世界の話は、まるで絵本で読んだような世界と同じく動物や妖精がいて、人もたくさんいると聞いた。

 私は次第に白い壁を隔てた向こうの世界に思いを馳せるようになり、ナナシの住む場所を見てみたくなり、壁を越えられるのであれば向こうの世界に行ってみたくもなっていた。


「ねぇ、ナナシの世界に行ってみたい」


「ああ、もちろん大歓迎さ。でもね……その為にはこの壁が邪魔なんだ。きみが手を貸してくれたら、通れるようになるかもしれない」

 

「私が?どうすればいいの?」


「そんなに難しいことじゃない……毎日この壁に触ってくれるだけでいいんだ。ちょっと疲れちゃうかもしれないけど、疲れたら休んで……次の日に触ってくれたら大丈夫」


 それから私はナナシの言うとおり、毎日家を抜けだして壁のヒビに触れるようになった。

 初めの数日は何の変化もなかったが、暫く続けると壁のヒビが確かに少しずつ大きくなっていくのが分かった。

 壁に触れると体温が奪われてフラフラしてしまうので、それほど長い時間は壁に触れることはできなかったが、繰り返すことで確実に亀裂が広がる事が私の楽しみになった。


「よく頑張ったね、オルタンシア。君の手が通る大きさになれば……こっちの世界に来ることができるよ」


 ナナシの声は相変わらずお腹に響くような低い声だったが、どことなく嬉しそうに聞こえた。

 それから数日通い続けると、壁のヒビは何か入りそうな小さな穴になっていた。


「よく頑張ったね、オルタンシアはいい子だなあ……僕の手は大きくて通らないけど、オルタンシアの手なら入るんじゃないかな。さぁ……こっちに手を伸ばしてごらん?」


「ほんとうに?そっちを覗いてみるね」

 

 私が白い壁の穴を覗いてみると、冷たい風がそこから漏れているのが分かった。

 その風が頬に触れるだけで何だか気怠さを感じたものの、外の世界を見てみたい好奇心のほうがまさった。 


「何も見えないよ?」


 黒い穴の向こうは、私が期待していたようなキラキラしたものではなく、真っ暗な様子だった。


「そうかい?おかしいなあ……でも、手を出してごらん。こっちにあるをオルタンシアあげるよ」


「素敵なもの。何かな?」


 私はナナシの言葉に期待して、白壁にできた黒い穴に手を入れてみた。

 

 もうすぐナナシのいる世界にいけるかと思うと、嬉しさと緊張で胸がいっぱいになった。


「やっと……捕まえた」


 壁の向こうの冷たい大きな手のようなものに掴まれた私は、驚いて手を引っ込めようとしたが手が潰れるぐらいに握り締められて逃れることができなかった。


「ナナシ!痛いよ……離してっ!」


「ふふ、離すものか。ようやく手に入った生身を逃したりしない」


 壁の穴から黒い霧のようなものが噴き出して、私の手に纏わり付くと肌の色がみるみる青褪めて行くのが分かった。


「やめてっ、何かくれるって言ったのに!ナナシの嘘つきっ!」


 私の腕を伝って黒い霧は体の方にまで纏わりついてくると、それがやがて人のような赤い目を持つ顔の形になった。

 黒い霧の顔は私の耳元で楽しそうに囁いた。


「いや、嘘じゃない。きみに素敵なものを今からあげるのさ……素晴らしい死メメントモリをね!」


「いやっ!怖いよ!」


 必死に振り払おうとしても、黒い霧は身体に纏わりついて私の自由を拘束した。


「ははは……君が拒んでも無駄さ。僕は君のお母さんアンネリーゼからって言われたんだよ」


「嘘っ!お母様がそんな事しない!そんな事っ……」


「ははは、どうせ僕のものになるんだから、どっちでもいいじゃないか。そろそろ黙れよ……」


 黒い霧は私の呼吸に合わせて口の中にまで入り込み、私は声を出すことも息をすることもできなくなった。

 助けを求めるように私はもう片方の手で何かを掴もうと必死に手を伸ばすが、その手はただ空を切るだけだった。


 意識が遠のいて視界が真っ暗になり始めたころ、意識を呼び覚ますように温かくて力強い手が私の手を握り返してくれていた。


「オルタンシア!大丈夫か!」


 ヴォルフラムお父様が、黒い霧を振り払うように手を掴んで私の身体を胸元へと抱き寄せた。


「お父様っ……お父様―っ!」


 私は安堵感から、お父様にしがみついて咽び泣いた。


「勝手に外に出ては駄目だといったじゃないか……でも、大丈夫だよ。お父さんに任せて」


 黒い霧はまた人の形をとって私の方へと向かってきたが、お父様は私を抱きしめたまま何かの歌を口ずさんだ。


「返せっ!オルタンシアは僕のものだ!ああ、ぐぁうあああああ!?」


 お父様が旋律の激しい歌のせいか、人の形をした黒い霧はボロボロと崩れ落ちていった。


鎮魂歌ディエスイレ……低俗霊如きには勿体無いが、釣りは要らない。消えてくれ」


「うぁああああ!?消えたくないぃぃいい!?助けて、オルタンシアーッ!」


 人型の霧は絶叫をあげながら溶けるように消えていった。

 私の腕を掴んでいた黒い霧も消え去ったが、ナナシに強く握られた跡は鬱血してくっきりと紫色になっていた。


「痛むかい?時間が経てば元に戻るから、心配しなくていい。さぁ、家に帰ろう」


 それからお父様は、私を背負うと家に向かって歩き始めた。


「オルタンシア。結界……白い壁の向こうは死んだ者の国なんだ。絶対に行ってはいけないよ」


「お父様……ごめんなさい。あのね、お父様……さっきのナナシがね」


「ん、なんだい?」


「お母様から、私をって言われたって……本当かな」


 私の言葉にお父様は立ち止まると、振り返って私に微笑んだ。


「……オリフィエル。嘘つきの言葉を信じてはいけないよ。アンネリーゼがそんな事をする訳がない」


「……はい、ごめんなさい……お父様」


『でもね、ナナシは私が教えていないのに、お母様の名前を知ってたんだよ』


 それは、声に出してしまうと此処に居られなくなるような気がして、私は心の中に最後の言葉をしまい込んだ。

 それから、私は白い壁に近づくことが恐ろしくなり、壁の向こうの世界にも想いを馳せる事が無くなった。


「オルタンシア、無事だったの?良かった」


 お母様はいつもと同じように微笑んでくれたが、私は素直にそれを受け止める事ができなくなっていた。

 いつしかお母様の顔色を窺うようになり、できるだけ機嫌を損ねないように愛想よく振る舞った。

 狭い以外に何の不安もなかったお屋敷での生活が、いつ終わりになってしまうか分からない漠然とした不安に苛まれ、私は息苦しい毎日を過ごすようになっていった。


 


 

 

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ニフルハイムの乙女たち べるえる @beleaile

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