第4話 ~3~『リリィ』

 今日もライブが終わった。熱っぽいスポットライトに照らされ、たった腰丈の低いステージの上で、自分を叫び唄った。

 自分を高らかに称して歌う。俯瞰していた自分が、耳元で本当にそうかと聞き返す。一つ頭を振って、

 「少し高ぶっちゃったよ」そんな言い訳をMCでして。自分の安っぽい言葉が胸に刺さる。

 客の反応はまずまずだったと思う。それがショウの心を棘つかせた。こんなもので、こんなところで終わるつもりはない。自分をもっと着飾って、皆に夢を与えて誰もが憧れるようなそんな存在に。強い人間になりたかった。何者にも屈しない、他の誰とも違うナンバーワンの自分を作りたかった。

 故郷を出た時は、ギター一本でどこまでも行ってやるつもりだった。何だって言ってやるつもりだった。それが今は同じように、ステージの上のスポットライトを求めた仲間と、音を奏でている。傷を舐め合っているんじゃない。それだけは絶対だ。もっといい音のために、もっといい音楽を作るために。1+1をしているんじゃない。各自で持ち点を高め、それを掛け算して丈夫で、強大で、強かなコアを作っているんだ。ずっとそう言い聞かせて、でもライブ当日、身支度を済ませて靴をつっかけ、アパートのドアを閉める時にある、真っ黒い暗闇を見た時、急にそんな何もかもが怖くなる。

 自分の歌った歌に殺される夢も見た。この薄っぺらいドアを蹴破って、嘘つきと罵られ、冷たいナイフを喉に当てられる。冬なのに脂汗をびっしり欠いて、寝苦しさの中で、地獄から脱出するように目を覚ます。

 頭を掻きむしると、束で髪の毛が抜けて行く。それもまた夢。そこまでが夢。夢が夢でないことは自分が一番よくわかる。この夢は正夢になる。そういう確信があると、夢は毎晩のように見た。ライブの後は余計に酷くなった。そんな日はいつも腹ペコのまま寝た時だ。

 シャワーを浴びて、気持ち悪い汗を流すと、腹に何か入れに外へ出る。

 いつものとんこつラーメン屋に入って食券を買う。まずは一玉。バリカタで。五分もかからずにラーメンは運ばれてくる。きくらげの横に半分に割った味玉がトッピングされていた。

「サービス」

 そう言ったのは、ここに通った頃からいる赤髪の女性店員だ。確か名前はサキ。他の店員がそう呼んでいるのを聞いていた。耳にはピアスを幾つも着けて、首には髑髏のネックレス。随分とパンクな格好をしている。

 彼女は礼も聞かずに、そそくさと厨房へと戻ってしまった。呆気に取られていると、厨房の店主と目が合った。不格好なウインク。なんだ。これは店主のサービスか。

 水差しで水をコップに入れ、割り箸を口で割った。持ち上げた麺は盛んに湯気を立て、それを一息に啜る。細麺の小麦粉の風味と、硬く歯切れのいい歯ざわり。ここに越してきて一番良かったことは、この店を見つけられたことだ。ほとんど汁を減らすことなく、一玉目を食べ終えた。具材もまだあらかた残っている。汁が熱いままに、二玉目を頼んだ。今度は別の店員が替え玉を運んできた。

 店を見渡してみても、あの女性店員はいなかった。味玉のお礼も言えずに、二玉目を食べ終え、汁も残さず吸い込むと、水を一気に飲み干した。口元を手で拭って、店主に聞こえるように「ご馳走様です」と言って店を出た。

 毎晩見る悪夢と、ライブ後に入った少しのギャラが、つい財布の紐を緩ませて、久し振りに贅沢をしてしまった。気分転換がてら少し歩いてみるかと、路地に入っていくと、さっきの女性店員が喫煙所でタバコを吸っていた。

「ども」

 目が合ったのでショウは会釈をして挨拶をした。

「あぁ、食べ終わった? いつもありがとね」

 『喫煙所』と書いてある赤いカンカンに灰を落として、彼女は言った。

「味玉、ありがとうございました」

「店長に言いな。あたしからじゃないよ」

 仕草から彼女が長年タバコを吸っているのが分かった。

「そうですね。次、来た時には味玉も頼めるようになります」

「何やってる人なの?」

 短くなったタバコをもみ消して彼女が言った。

「音楽です」

 真っすぐそう言ったが、彼女は笑っているようだった。

「そう。そりゃぁ頑張らないとね」

「また来ます」

「毎度あり」

 そう言って彼女と別れた。

 なんてことのない会話だったが、何か通ずるものがあった気がした。街には人々が黙々と行き交っている。空だって何も干渉してくることもない。ただ平然と世界は回り、誰だって何かしかを抱えている。音楽の話をしてみたいな。そう思って散歩からの帰路を歩いた。

 その日は悪夢を見ずに眠ることが出来た。


 悪夢を見る回数が減った。ジンクスなんて信じているわけではないが、自然とあのラーメン屋に足が伸びた。彼女に話しかけるタイミングばかり計っている自分もいて、これが久し振りの恋なんだと思った。挨拶を交わすようになり、彼女の休憩中に喫煙所で話すことも増えた。彼女の吸っているタバコはセブンスターだった。女の人にしては随分と重い煙を吸っている。音楽の話はまだ出来ずにいた。話すことは当たり障りのないことばかり。踏み込む勇気が持てずにいた。どこか故郷で済ませたはずの初恋が、心の端に引っ掛かる。人前に立って夢だの恋だのを唄っているのに、あれだけ強くなりたがっていた自分の臆病さが、ズキズキと胸に刺さる。背中を押されるのを待っていたって、いつだって踏み出すのは自分の足の一歩目なんだ。

「サキさん。音楽は好き?」

 ショウの強張った声を聞いたサキは、どこかショウの声に、淡く甘酸っぱい緊張を感じた。

「あんまり」

 自分の声にも淡い期待がこもってしまったことを、サキは煙を吐いて紛らわした。

「そっか」

 ショウの声はどこか明るく、落胆はしていないようだった。

「俺は大好きなんだ。俺の音楽をサキさんにも聞いてほしい。今度ライブに来て。絶対に好きにさせてみせる」

 ショウはそう言って、一枚のライブチケットを手渡した。触った彼の手の冷えた熱が、彼の決意の重さを表しているようだった。彼は答えを聞かずに一目散に行ってしまった。タバコの火をもみ消して、チケットの日付を見た。考えてもう一本タバコを吸うことにした。


 ライブ当日、ステージ袖でショウは、ギターを強く握っていた。あれからあのラーメン屋には行っていない。返事を聞くのが怖かったというのもある。かっこつけたかった自分もいる。いつもとは違う緊張感に、歌い始まって、もし彼女がいないことに気が付いた時、張り詰めた細い緊張の糸が、切れてしまうのではないかという、自分勝手な不安が胸にあった。そんなことあってはいけない。仲間にもお客にも、作り上げた信頼を一遍に無くしてしまう。こんなこと今までに考えたこともなかった。一時の感情を優先したことが、全てを台無しにしてしまうのではないか。恋に現を抜かして、自分の見るべき方向を見失っていないか。冷たくなった手をこすって温める。硬くなった指先を伸ばして、水を少しだけ口に含んでゆっくりと飲み下した。

 対バンの演奏が終わる。ステージの照明が暗くなり、暗闇の中にまたあの悪夢に出て来るアイツの不敵に笑う顔が見えた。アイツの纏う空気が前よりずっと、一段と濃く、一層に深く、この上なく冷たくなっている。今にも悲鳴を上げようとする自分の顔が、アイツのかざす鋭いナイフに映っている。

 バンド仲間に背中を叩かれ我に返る。軋んで重い足を踏み出し、一歩一歩、確かめるようにしてステージの真ん中へ。機材にシールドを繋いで、音を確かめる。ベースが、ギターが、ドラムが準備を整えた。一呼吸おいてドラムがスティックでカウントする。

 ライトが照らすその瞬間、かき鳴らすギターと叫びと共に、全てが後ろ側に飛んで行った。この瞬間だ。この一瞬のために歌っている。それまで考えていたあれこれが、自分の中から外へ外へと溶けていく。誰かの為に歌っているんじゃない。他ならぬ自分のために歌っている。自分を叫び唄っている。ライトは次第に体を温め、曲の盛り上がりと共に魂が鼓動する。


 汗まみれになって、喉の渇きをぬるくなったミネラルウォーターで潤す。この熱が、この音が、この場所が自分にとっての一番なんだ。客の反応も良い。MCを終えて次の曲に入る時だった。箱の一番後ろに、見知った赤髪を見つけた。ドラムのカウントはもう始まっている。集中しろ。力を抜け。出だしのリフは外すことの出来ないまたとない見せ場だ。視線を弦に落とした時、フッと口が笑むのが分かった。来てくれた。俺の音楽を聴きに来てくれた。それが飛び上がってしまいたいほどに嬉しかった。力はフツフツと湧き上がり漲る。ファンとアーティストと見えない隔たりの中で、心惹かれている人が足を運び、自分の一番好きなものを見ていてくれている。その幸せに、ショウは文字通り飛び上がって、ギターをかき鳴らした。声は、こんなちっぽけなライブハウスなんて突き抜けてしまうほどに、高らかに伸び、揺れながら波紋する。ドラムがフロアタムとスネアを打ち鳴らし、曲は最高潮に盛り上がりを見せた。

 その時だった。突然の音響トラブル。ソロのCメロが、自分の声量だけで急にちっぽけになって空気に散っていく。歌を止めるわけにはいかなかった。そこからは安っぽい肉声の独唱だけ。サビに入る頃、音響は復旧したが、急激にしぼんでしまったライブの空気は、結局戻ることはなかった。


 完敗した。自分たちのせいでないことは分かっていても、その運がなかったことがそもそもな気がして何を言っても、言い訳にしかならない。

「今日はお前も調子よかったんだがな」

 ドラムのロクロウが言った。

「いいよ。こういうこともバンドやってれば有り得ることだ」

 運が悪かった。それはバンドのせいではなく、ショウは自分のせいだと思っていた。かっこ悪い所見せちゃったな。こりゃ、完全にやっちまったな。垂れさがるように頭に乗せているタオルで顔を拭う。運がないなら仕方がない。自分が持っていないと言うことなんだ。手早くライブの後始末を終え、挨拶をして箱から出た。出待ちをしているファンの子たちがチラホラいたが、サキの姿は見えなかった。サインと握手を済ませて帰路へ着く。仕方のないこと。そうは言っても諦められない自分がいる。すっぱり割り切れるほどに、恋の情熱は簡単には冷めない。体だってまだ火照っている。寒風に吹かれて頭と心を冷やしてしまおう。

 そう思って夜の公園に入る。手ごろなベンチでギターケースを開けて、相棒を手に取る。ライブの名残を感じつつ、一フレーズ唄ってみる。

「冬空の下の二人の影は後ろへ後ろへ伸びていく。一歩先を行く君が振り返る。君の結った三つ編みがフワリと揺れて、枯葉を踏みしめる音がした」

 熱は声にすると、夜の闇に溶けて行って幾分か凝り固まっていた心が解れていった。もう少し話してみたかったな。どうしてライブに来てくれる気になったんだろう。一言だけでもお礼が言いたい。あっさりとは頭は切り替わらず、心残りばかりが募っていく。あのラーメン屋にももう行くことは出来ないか。名残惜しかったが、頭を振って過った未練を振り払う。

 ギターをケースにしまって、ベンチから立つ。まもなく冬は本番。こんなところに居続けたら風邪をひいてしまう。手はあっという間に硬くなって、白い息を吹きかけたが、未だ火照った頭どうしようもない。噴水の飛沫でも当てれば冷えるだろうか。馬鹿なことを考えていないで帰ろう。そう思った。

 高く天まで吹き上げた噴水の水が途切れて音を立てて落ちた時、その向こう側にあの赤髪が見えた。

「サ、サキさん!?」

「ん? なんだ、あんたか」

 サキは缶ビールを片手に噴水に佇んでいた。寒空の下で冷たいビール。体がすぐに冷え切ってしまうだろう。まさか彼女も熱に当てられた? そんな馬鹿な。ショウは噴水を回ってサキの前に立った。ぐるりと噴水の縁に沿って駆けて行ったとき、サキは面白いものを見るかのようにショウを見ていた。舐めるように苦いビールを飲みながら。


 久々に聞いたライブの音は、胸を大きく揺さぶった。ステージの上で演奏するバンドと、それに熱狂するファンの熱に当てられて、自分の中に燻っていたものが熱を帯びた。焦がれても、もう立つことのない、もう手を振られることもないあのステージで、あんなにも眩しく歌っているものなのか。憧れを抱かせ、自己陶酔に浸り、熱病にうなされるように言葉をまき散らし、光っている。手を伸ばしたら届きそうなものだけど、その隔たりは、星と星の距離より遠い。光り続けなくては闇に飲まれてしまう星。光り続けなければ死んでしまう星。それをスターと呼ぶのは少し出来すぎている。

 誰よりもそこに立ち続けていたかったあたしは、箱の隅っこでファンの頭と頭の隙間からそれを仰ぐ。曲はバラードじゃなくても自然と泣けてくる。ただの石ころになった自分に泣けてくる。一番なりたくなかったつまらない人間にあたしはなっていく。目指して憧れていた分だけ自分がみじめになっていく。あの日感じていた不安の影が、頭からあたしを喰らいつくした。今は日常と言う名の怪物の腹の中で、案外温いそこで膝を抱えている。酒でも飲んでなきゃやってられない。

 星の見えないこの街で、居心地のいい闇を探して歩いた先に噴水があった。舞い上がって、飛沫になった水は少しだけ腫らした瞼を撫でてくれた。嫌なもの見ちまったな。苦いビールで正気付く頭を必死にぼやかして。どうにかそうしてるのに、あんたは本当にタイミングが悪い。


「今日は来てくれてありがとう。でもせっかく来てくれたのにかっこ悪いとこ見せた」

 ショウは真っ直ぐサキを見ていった。目を逸らさなかったのは、これでうやむやにはせずに答えを出すことが出来ると思ったからだ。そんな真っ直ぐな視線に耐えきれなくて、サキは目を泳がせる。

「まぁ、良くあることさ。万全の状態で全部聞けなかったのは残念だけど、それまではなかなかだったよ。あんたが本気で音楽をやってるのが分かった」

 好きで買ったビールだが、随分と苦みが増した気がした。

「俺にとって音楽は全てだ。他には何もいらない。そう思ってたんだけど……」

「?」

「サキさんのことが見えた時、やっぱり嬉しいなって思ったんだ。自分の為に曲を作ってきたけど、歌うのは誰かの為でありたいと思った」

「そう言う気持ちは分からないでもないね」

「多分、恋しているんだと思う。あなたに」

「気が早いよ。気の迷いってこともある」

「今日、ステージに立つとき、いつも見る悪夢を見たんだ。起きていてもそいつは不意に現れる。不安の化身っていうのかな。そいつはいつも俺のすぐ傍で聞き耳を立てている。歌ってるときだけそいつのことを忘れられる。いつかあいつに食い殺される時が来ると思う。その時まで、俺は歌を歌う」

「うん」

「またラーメンを食べに行っていい?」

「そう言うのはあたしにいうもんじゃない」

「君に言っているんだ。君がいるから俺はあの店に行く」

「店長はさ、あんたのファンだよ。あたしがいなくても行ってやりな」

「はぐらかさないで。君に言ってる」

「あたしは……あたしはあんたとは違う。餓鬼が自惚れるんじゃないよ」

「自信なんてないさ。震えてるのは寒さじゃない。でもこんな寒いとこ早く退散してラーメンでも食べに行きたいなって思う」

「色気のない誘い方だね。まったく、ビールがまずくなった」

 お道化ると二人は笑った。噴水がまた一つ舞い上がった。噴水の行方を二人は目で追った。そこには星よりも大きな半月が光っていた。

「煮卵でも食べたいな」

 サキがそう呟いた。

「月を見て煮卵? 色気のないのはどっちだよ」

 喉の奥が引っ付くみたいにショウは笑った。

「食べに行こうよ。奢るからさ」

「生意気言いやがって。……いいよ。好きにしな」

「決まりだね。ならさっさと行こう」

 ショウはサキのビールをひったくると一気に煽った。寒空の下で飲むビールはキンキンに冷えていたが、ただ苦いだけはない味がしたんだと思う。これが二人の思い出の味になるのか。そんなことを思いながら二人はラーメン屋に向かい歩き出した。


「色柄物は分けろって言ってるだろ」

「そっちこそ人参くらい食べれるようになってよ」

 次の冬、ショウとサキは同棲を始めていた。それまでは互いの狭いアパートに半同棲状態だったが、ショウたちのバンドの新曲がCMに起用されたお陰で、知名度を得てヒットを飛ばした。まだまだ売れっ子には程遠いが、いつまでも薄暗い安アパートに入り浸ってることも出来ないと、ショウはサキとのデートで不動産屋に立ち寄った。自分への発破をかけるつもりで、随分と背伸びした物件ばかりを漁っていたが、結局はサキが見つけた出窓の可愛らしい低層階のマンションに決めた。駅からは遠いが、バスを使えば移動に難はない。未来都市のような真新しいスーパーマーケットもあるし、何より防音設備が充実していた。

 内検した時に確かめたが、多少なり弾き語るには問題ないようだった。曲を作るのにわざわざ外に出なくて済む。それまではカラオケボックスや、晴れた日の公園で作曲をしていたが、金は財布から翼を生やして飛んでいくし、大事な相棒を雨で濡らす心配もあった。

 一人の頃にはありもしなかった穏やかな日が続いた。他愛のないことで笑うことも出来る。こんなにも夜の闇の中で満たされることがあっていいのか。手を伸ばせばすぐに感じる人の温もり。肌を合わせた時に感じる、融けてしまうような安心感。他人の笑顔にこれほど救われるとは。一人と一人が結びついて、独りではなくなった。相手の喜ぶことをしよう。それだけで幸せな時間は続いていく。自分の見つけたキラキラ光るときめきを伝えよう。それだけで二人の時間は蜂蜜色に輝く。

 朝起きてベッドの中、隣で眠る恋人の寝顔を見て、目を覚ますまで眺めている。一日が二十四時間しかなくても、その一分一秒をこうして眺められるなら、それ以上のことなんていらなかった。君の眼が好き。あんたの声が安心する。そのピアス痛くなかった? 結構筋張った手をしてる。ブーツばっかりじゃなくてパンプスとかも履いたらいいのに。うるさいな、たまにはビシッとスーツでも着てディナーに誘ってみろ。じゃぁ今度の花火大会で浴衣を来てくれたら考える。何物にも代えがたい日常が過ぎていく。その日まで。


「なぁ、もっとピリッとする詞は書けないのか?」

 ベースのタクマがそう言い放った。ピリッと。その言葉の方が空気をひりつかせた。

「なんだよ。俺の詞に文句あんのか」

 ショウの声にも怒気が滲んだ。何の問題があるんだ。CDの売れ行きはいい。ライブの反応だって良い。あれだけスカスカだったライブハウスは、今は超満員で、チケットはソールドアウトしている。

「お前の詞、少し前の方が尖っててそれが俺は好きだったんだ。今のはなんか生温い。生きてる感じがしない、切実さが伝わらないんだ」

「なんだよそれ。曲が出来たら皆に聴かせて一曲一曲どうするか聞いて来ただろ。それを今更なんだよ」

 前々から不満に思っていたということか。何故その時に行ってくれなかったんだ。黙ってただ付き従っていたことが何より腹立たしかった。心は既に打ち解けて、みんな同じ方向を向いているんだとばかり思っていた。急に裏切られた気分になって悔しさがこみ上げる。

「俺の詞がつまんないってことか?」

「そうは言ってない。でも……」

「ふざけんなよ。俺がどんな思いで詞を書いてると思ってんだ」

 音楽性の違い。そんな言葉が頭を過った。それでもこれまで築き上げてたプライドはどうしようもない。これまでやって来たことを否定されているみたいで、ショウの語気はどんどん強くなる。

「俺は俺が作ったものに一切恥ずかしい出来だったと思ったことはない。どの曲もその時々で精いっぱいの力を込めて完璧のものを作ったと自負してる。魂が宿っていないと感じたならお前は俺をはき違えている」

 胸に詰まった憤りを吐き出すように、ショウはまくし立てた。

「そぉかよ。でもな、俺は自分の気持ちを正直に言っているんだ。それにお前が憎くて言っているんじゃない。お前ならもっと出来ると思っているから。お前ならもっと真に迫る歌が作れると思っているから言うんだ。今のお前はなんだか周りの反応ばかりを気にしていて、本当にやりたいことが出来てない気がする」

「俺の本当にやりたいことがお前に分かるのかよ!」

「ちょっと待て、二人とも冷静になれ」

 ヒートアップしていた二人のやり取りを、ロクロウが制した。

「いったん落ち着けよ。な? こういうことはじっくり話さなくちゃいけない」

「そう言うお前はどう思っているんだよ?」

 ショウはささくれた声で突っかかっていった。

「俺は……俺は今の方が上手くなっていると思う」

「それはこなれてきたってことだろ?」

 タクマが言った。いつになく真剣な眼だ。タクマが本気になって向かい合っているのが分かった。だが、これまで手を抜いてきたことなんかない。それだけにこの問題は根深く、前途洋々だと思っていた航海に、急に黒雲が嵐を連れてきたようだった。物事の本質をとらえること。自分にとっての歌。積み重ねてきた時間と思い。頭の中で様々なものが天秤にかけられる。均衡は取れず秤は左右に大きく揺れて、あわや中身を床にぶちまけてしまいそうだった。堪えるべきなんだ。時間と言うものが解決してくれる場合もある。でも、ショウはそんなものに頼ってしまうような人間ではなかった。

「そんなに不満があるなら、そんな中途半端な奴に俺の曲を弾いてもらいたくない」

「そうかよ」

 タクマは言われると、弾かれるようにスタジオを後にした。バンドは決裂した。これまで長い間一緒に過ごしてきたと言うのに、終わる時は何と呆気ないものか。ショウはすぐさまこれからのことに考えを巡らせた。

「はっきり言うことが美徳だとでも思っているのかな、あいつは」

「それはお前も同じだろ? 少しは大人になれ」

 ロクロウはため息をついて諭すが、その言葉の意味が分からなかった。帰り支度をして帰路へ着く。その帰り道で、CDプレイヤー入れた自分たちのアルバムを繰り返し聴いていた。デビューしてから新曲までを何度も何度もリピートして。帰り道を歩いているのに、足はどんどん家から遠のき、CDを入れ替える僅かな時まで、タクマの言った言葉が頭の中に反芻する。聴いてみて、感じた変化は孤独感の欠如だった。これを成長ととらえるかは微妙なところだ。その変化はショウの変化であり、ショウの環境の変化だ。そうして一番考えてはいけないことが頭を過る。

――サキがいるから俺の曲は変わった…………?

 タクマの言ったことが正しい訳じゃない。客の反応も売り上げも今の方が好調なんだ。でも、今まで聴いてきたファンたちはどうなんだ。今いるファンたちはいつからいる? サキのことばかりにかまけて、バンド結成時からいるファンのことをちゃんと考えてきたか。アイツはまた、音もなく暗闇から忍び寄ってきていた。


 ロクロウがタクマを呼び止めたくれたお陰で、バンドの即解散とまではいかなかった。しかし、空気は最悪。音合わせをするのさえままならない。曲作りも難航していた。どんな楽器を奏でても、どんな音作りをしても、閃きというものはとんとやってこなかった。タクマも自分で言い出したことで引っ込みがつかず、持ち曲の練習が終わるとそそくさと帰っていった。タクマの蟠りの解消に、ロクロウは尽力しているようであったが、ショウ自身、問題の根底には作詞の不調があることが、明白になり、それはバンドの不穏になっていた。

 人間は機械でもないのに、歯車の調子が一つ悪くなると、並行してサキとの関係も険悪になりつつあった。大抵は、ショウが苛立っていることから、サキを蔑ろにして、呆れたサキが距離を置こうとするというものだった。二人は同じ空間にいることが、ストレスとなり、二人とも帰りが遅くなった。二人で眠るダブルベッドも、先に帰ってきたほうが、だだっ広いスペースに縮こまって使い、後から帰ってきた方が、リビングのソファーで静かに休む、といった感じだ。

 しかし、それではいけないと思い、ショウはサキに話を切り出した。

「サキ。話がある。少し聞いてくれ」

「……あぁ」

 サキの顔は当然浮かない。たぶん自分もそういう顔をしているんだろう。なんとなく目が合わせられなかった。

「あのさ、最近すれ違いが多いだろ。そのことで言っておかなきゃいけないことがあって」

「……別れたいなら別れてもいいんだよ?」

 ショウはハッと顔を上げた。サキは悲しそうにこっちを見つめていた。

「違う。別れたいなんて思ってない。ただ、一緒にいるのが辛くなって、自分ではどうしようもないくらい苦しくなるんだ。タクヤに言われたんだ。今のお前の詞はダメだって。それで俺は本当にとどうしようもない奴なんだけど、その原因が俺とサキの関係が始まった時からだと思ってしまっている」

「そうか。あたしはあんたの枷になってたんだね」

「違う。それも絶対に違うんだ。サキと幸せに暮らしていた日々が、間違っていたなんてことは絶対にない。その証拠に俺の歌は前よりもたくさんの人に聴いてもらえるようになったんだ」

「だったら、タクマくんの言っていることが間違っている。でもあんたはそれをはっきりと言葉に出来なかったんだね」

「俺は、俺が本当に歌いたいことを見つめ直さなくちゃいけないんだ。そのために時間が欲しい」

「いいよ。今が一番がむしゃらにならなきゃいけない時だ。あたしはしばらく友達の家にでも泊まるよ」

 そうして二人はまた、一人ぼっちになった。


「ショウくん、作詞キレッキレになったんじゃない?」

「ありがとうございます。昔の勘が取り戻せてきた気がします」

「一時はバンド解散するかも知んなかったんッスよ」

「ロクロウくん、それマジ!? カァ~でもそこを乗り越えてきたんだからバンドとしてまた一枚皮が厚くなったんじゃない? ね、タクマくん」

「そうですね。俺もヒヤヒヤしてましたけど、またこいつ等とこんないい曲が出来て幸せです」

「OKOK! じゃその幸せなナンバー聴かせていただきましょう!」

 ラジオから流れる、慣れたやり取りが聞けて、サキはほっと胸を撫でおろした。タクマもロクロウもショウには、もったいないくらい良い奴等だった。ショウは完全に復調したようだった。これで自分のいるべき理由はなくなった。ショウには孤独が必要だったのか。そうではないと思う。タイミングというものもある。それでも、ショウのこの時に、自分が彼の邪魔をしているという事実は、受け入れ難くても確かなことだった。独りだから強くなれる人もいる。ショウたちの人気はその前の、言いようによっては浮かれていた時期とは関係のないくらい、人気と実力をつけていたことになる。

 サキはテーブルのアイスティーを一口飲んで、ポケットの中のマンションの鍵に触れた。二人だけの愛の巣は、今はもうはるか遠く、幻想の彼方に消えてしまった。ショウは自分の復調を受け入れているのだろうか。それとも、疫病神ともう心に区切りをつけているのだろうか。帰るのが心の底から怖くなった。それまでなんでもないこの街に住むただの人でも、一度関係を持ってしまったら、それも強く求め結びついてしまったら、どうしようもなく胸は苦しくなる。体の一部になってしまった彼の存在を、自分からでも否定するのは、腕や足をもがれるより痛い。痛い。痛い。痛い。胸の奥の何よりも大切にしてきたものが、引き裂かれる。サキは両手で顔を覆い、静かに泣いた。嗚咽をかみ殺して、ただ周りに悟られぬように、ひとしきり泣いた。

 

 あの化け物が、暗闇にいる。こちらを嗜めるようにナイフをちらつかせている。もう負けるものか、お前なんぞに負けてやるものか。何があっても、俺はここより高いところに行ってやる。そして、なにも手放さずこのステージを駆け上がってみせる。真っ暗闇のリビングで、薄い毛布にくるまって、ショウはただひたすらに孤独に耐えていた。

 サキはあれから帰ってこない。連絡をしても繋がらないままだ。彼女の荷物はまだここにあった。帰ってくることだけを期待して、いつもこうしてひたすらに待っている。ベッドはあれから使っていない。自分一人では広すぎるから。毛布にくるまっって、暗闇を見ているうちに、いつの間にか眠っているのだ。少しやせたらしい。仲間からはちゃんと食っているかと会うたびに飯をごちそうになっていた。あまり食欲がわかない。その代わりに、創作に打ち込んだ。サキは捨てれたと思っているのだろうか。それとも、俺を捨てていってしまったのだろうか。彼女への贖罪が、文字となり言葉となった。頭はキンキンと音が鳴っているくらい冴えている。タクマからも、いつもの調子が出たじゃないかと、肩を叩かれた。俺にサキは必要なかったのか。それだけが頭の隅にいつもあった。その魔物は、暗闇にいる化け物よりよっぽど現実的で、恐ろしかった。

 よく考える。幸せになってはいけない人がいるのではないかと。孤独をベースにした自分の作詞をしていると、幸福とは無縁の場所にいるからこそ、他人から羨まれる詩が書けるのではないかと。そう考えると、この世のすべての不幸を自分が背負っている気になる。誰がためではく、君がためでなく、ただ自分だけのために生きるということは、それだけの業を背負うべきではないのかと思い至る。

 独りは怖い。誰かといた、あの温もりを忘れることなんてできない。才能というものが、自分にあるのかどうかはわからない。あるのは、自分がやらなくちゃいけないと、使命感に駆られていることだ。使命感なんて嘘だ。まやかしだ。自分を騙す幻想だ。そうやって自分を偽って、高いところにいるように見せて、着飾って、自意識に酔って、それが、その代償がある代わりに、自分から湧き上がってくる感情があるのなら、温もりなど、望むべきではないのかもしれない。でも。

 それでも、頭の中は堂々巡りでも、やっぱり、もう一度サキと会いたいという、どうしようもない寂しさがショウの胸にあった。この寂しさは時と共に、風化していってしまうのかもしれない。そんな掛け替えのない思いが、ちっぽけな自分の承認欲求との間で天秤にかけられている。お願いだからこのドアを開けてくれ。そして少しでいい。外の光をこの暗闇に入れてくれ。


 ふとした瞬間に思い出す。安売りのトイレットペーパー、新発売のカフェドリンク、柔らかなレモンイエロー。傷にはまだカサブタにさえなっていない。今日も日が昇って、毎日最低気温は少しずつ下回って、街は眠らず夜は更けていく。会えない時間が積み重なるたびに、心の痛みは薄れていく。空いていた穴に、何か別のものが埋まっていくんだろう。埋めてはいけないと思っていても、人の心というのはどうしようもない治癒力がある。名前を呼んでほしい。ただそれだけで。いや、会ったなら抱きしめてほしい。愛の言葉をささやいてほしい。君だけが必要なんだ。他には何もいらないんだと言ってほしい。どうなっても構わない、二人でどこか遠い国に行って、ただひたすらに愛を育みたい。ただ堕落して、毎日セックスをして、のどが乾いたら口移しで水を飲んで、甘いフルーツばかり食べて、砂浜に寝そべって、白い波と陽がオレンジ色に沈むまで見ていたい。

 でも、そんなのは違うんだ。彼の生き方じゃない。あたしだって、そんなのを望んでいるわけじゃない。ただ平凡で、ごく普通のありふれた幸せで良い。でも、それも彼の目指す幸せではない。望むものを与えてやれるわけじゃない。

 ただ懸命に生きていくことで精いっぱいで、自分一人の孤独でさえ扱いきれなくて。寂しさを埋めることもできず、そんなことも許されていないと思い、諦めと悔しさから、少しでも輝ける言葉を紡ぎ、それは美しいのかもしれないけど、どうしようもなく独りだ。

 どうして人間は一人でいると孤独を感じるのだろう。自分の中の満たされないものを寂しさと呼び、一つの動物として、誰一人として同じ人がいない。自分の分身がいてくれたなら。そんな存在を求め、でもどうしようもなく足りないのに、人は人を愛することをやめない。誰でもいいんじゃない。たった一人の人を見つけるために、俺は、あたしは探し続ける。当てのない夜の海を泳いているように、ここは暗く冷たい。その中で、少しでも輝いているように見せるあいつを、その中で一人きりで泣いている君を、やっと見つけられたんだ。ここまで来たから見つけられたんだ。


「今日はありがとーーー! 最高の気分だ! もう何もいらない! 俺たちは走り続ける!」

 ロクロウのスネアの12ビードが刻まれ、ドームライブは最高潮の盛り上がりを見せた。

「たった一人で歩いた夜の森。月の光を頼りに君を探した。帰る場所はもうない。あるべき自分になるだけ。そう思っていたはずなのに 僕は君を探している」

 ショウのエレキも、高らかに哭いている。タクマに目配せをすると、必殺のリフも今日はキレ味が120%に煌めいている。

 ドームライブが決まり、バンドの勢いは更に拍車がかかっていた。憧れていたロックバンドたちと肩を並べられるところまでやっと辿り着いた。ここまでのあれこれが、全部このためにあったんじゃないのかと思えるくらい、メンバーは喜び、もちろんショウもそうだったが、心の奥の端っこの部分が、冷えたままだった。

 準備は着々と進んで、その忙しさにもまれることで、先のことを忘れることが多くなった。それが自分のためなのか、二人のためなのかはわからない。セットアップリストも組み上げ、ライブを間近に控え、ロクロウが決起集会を開いた。食べるもの、着るものも、前とは比べ物にならないほど良くなった。寒空の下で、ギターを片手に作曲することもない。すべては順調だった。怖いくらい順調だった。

 もしここで、運の流れに逆らうことをしてしまったら。そう考えると、もう一人きりで音楽をやっているんじゃないという責任が、ショウの肩に重くのしかかった。ビールの味は、あの噴水のある公園で、サキの手からぶんどって、一気に飲み干したあの味とは、似ても似つきやしない。ジレンマもジンクスもすべてを壊してしまうほど、ショウは強くなかった。

 打ち上げを終えて、もう長いこと独りでいるあの部屋へ帰る。鍵を回して、玄関の明かりをつけると、雑然としていたはずの部屋が、綺麗に片付いていた。サキが帰ってきていたんだ。ショウは、否応もない焦燥感に駆られ、何か、痕跡がないか探した。サキの残していった物が綺麗さっぱりなくなっていて、初めからそこには存在しなかったかのような、夢でも見ていたかのような気分に落ちていった。

 もしやと思い、郵便受けを探ってみると、サキに渡していたサルのストラップの着いた合鍵があった。ショウはそのまま玄関に膝をついて、サキの合鍵を握りしめて泣いた。苦しみが胃から込み上げてくる。玉のような涙が、玄関に落ちて水滴になった。溢れてくるものだから、拭ったりはしなかった。ただもう会えない寂しさを受け入れられなくて、体の中で色んなものがぶつかっては消えていく。

 どうしてあの時、サキを選べなかったのか。どうして、君を守ると言えなかったのか。ただの音楽を捨てることが出来なかったのか。後悔ばかりが頭の中を埋め尽くし、体はどんどん熱を失っていった。二人の記憶が駆け巡る。銀杏の葉が落ちた公園を歩いたこと、下手くそだからと見せなかった昔の絵を思い切って披露したこと。サキの故郷のこと。あれだけ一緒にいた人間が、今日を境にまた他人に戻る。その現実が受け入れ難い。何をしても受け入れられはしない。

 涙が出なくなるまで、ショウは玄関にうずくまると、玄関を飛び出した。まだどこかにサキはいるかもしれない。二人で行った場所にいてくれたら。そんな思いで、二人でよく買い物をしたスーパーマーケットや、明かりの消えたショッピングモールを走った。そうだ、あの公園に行こう。またビールを片手に夜風に当たっているかもしれない。息が切れても走った。走ることでサキとの溝を埋められる気がした。汗だくになって、公園の中に入る。

「サキーーーーー! サキーーーーーーー!」

 ライブ前で喉を大事にしていないといけないのは分かっていたが、叫ばずにはいられなかった。夜の公園を探して回り、あの噴水の前に来た。噴水は上がっていた。もしかしてこの噴水が下りたら。そう思って、切れる息を整えその瞬間を待った。何の願掛けのつもりか、こんなことをしても、サキがいる確証もないのに。噴水が下りて、サキがいなかったら、諦めよう。そう思った。諦めたくないという気持ちが同時に胸に沸いて、この噴水がいつまでも下りないで欲しいとさえ思った。しかし、その思いも束の間、噴水は飛沫をあげて下りて、向こう側が見えた。誰かいる。

「サ……!」

 そこにはイチャつくカップルが一組いるだけだった。終わったんだ。もう、サキとの恋は終わってしまったんだ。汗でびっちょりに濡れたシャツに夜風が当たり、体を冷やした。帰ろう。ショウは一人、帰路へ着いた。予想上に汗は体を冷やし、急いでシャワーを浴びないと、風邪をひいてしまうかもしれない。サキを失い、ドームライブを失敗にしてしまったら、こんな思いまでして、何のために別れたのか。

 そう思って開けっ放しになっていた玄関を上がって、部屋に入ると、固定電話の留守電ボタンが点滅していることに気づいた。駆け寄って、再生してみる。

「ピー。……あ~、あたし。ごめん、荷物持っていくのに家の中入らせてもらった。わかってると思うけど、あんたとはこれでおしまい。会うと余計なこと言っちゃうと思うから、これでさよならね。バンド続けてよね。あんたが歌うとこ、あたしは本当に好きなんだ。ずっと言えなかったけど、あんたといた時間はあたしにとってかけがえない時間だった。あんたはもっと高いところに行くんだ。こんなところで立ち止まってちゃダメだ。なんでもだよ。なんでも踏み台にして、もっと高いところで、あんたの歌を聴いてもらいな。あたしも、あんたが高いところで歌ってくれるなら、遠くからでも見てあげられるからさ。……日の21時の新幹線に乗る。それじゃ。プツ。プープープー」

「サキ……」

 言葉にならない思いと共に、サキの言った新幹線の日取りが、ドームライブに重なっていることにショウは、運命を感じた。


 アンコールの拍手が鳴っている。汗だくになったシャツを、物販のバンドTに換えて、仲間たちはライブの成功を、ハイタッチをして祝っていた。時計を見る。今から出れば、新幹線の時間に間に合うかもしれない。

「ショウ! 行くぞ! アンコールに応えないとな!」

 タクマがショウの肩を叩いた。ショウは顔を上げられなかった。

「どうした? どこか調子が悪いのか?」

 同じくバンドTに着替えたロクロウが顔を窺った。

「俺……どうしていいかわからない。いや、俺はサキの元に行きたい。二人ともごめん、アンコールには応えられない。無責任でごめん。行かなきゃ!」

 ショウは弾けるように椅子から立ったが、ロクロウが羽交い絞めをして止めた。

「待て! ちゃんと説明しろ! お前は今がどんなに大事なときかわかっているのか!?」

「離せ! 離してくれ!」

 みっともなくジタバタと足掻いていると、スタッフも心配でざわめき始めた。暴れるショウを止めたのは、タクマだった。抑え込むロクロウを振り払おうとしている頭を両手で掴んで、頭突きをした。

「……っ!」

「落ち着け! ロクロウも離してやれ。ショウ、サキちゃんをお前から引き剥がして、こんなこと言えた義理はないが、お前はもうよくやったよ。サキちゃんの元に行ってやれ。お前の孤独感は女一人で埋まるものじゃない。誰よりも一人の意味を考えるから、お前には誰かが必要なんだ。アンコールには俺とロクロウが得意技でも決めて帰ってもらう。お前のいる場所もちゃんと残しておくから、お前はお前の恋に決着をつけてこい。ロクロウもいいな。これはリーダー命令だ」

「タクマ……」

「わかったら行け。間に合わなくなっちまうぞ」

 ロクロウの手を解くと、ショウは出口へ駆け出した。

「いいのかよ。せっかくのチャンスなんだぞ」

 暴挙ともいえるショウの行動に、唖然としているロクロウが言った。

「この程度で潰れちまうならその程度だったってことさ。それにうちのエースがいつまでもへこんでばっかりじゃいけないだろ?」

 タクマが指のストレッチをして、肩を回した。

「ったく、お前は厳しいんだか甘いんだかわかんねぇな。絶対にリーダー向きじゃないだろ。さて、そうと決まったら準備しないとな。あんまりお客を待たせてもいられない」

「頼むぜ相棒。俺ら二人で何処まで出来るかな」

「泣きべそはショウには見せられないからな」

 そういって二人は、ボーカルの抜けたアンコールの準備を始めた。


 スタッフのバンで駅に向かう。飛ばしてくれと行ったが、街の渋滞は酷かった。時間は刻一刻と迫っていった。

「ここからは走ります」

 ドアを引いて、ショウは道路を縫って行き、歩道に出た。走った。少しでも間に合うように、少しでもサキと会う可能性が出るように、祈りながら念じながら心の中で名前を呼んだ。

 ただの青春の一ページで終わらせられない。終わらすことは出来ない。どんなに一緒にいた時間が短くても、俺を構成するものに君はもう含まれているんだ。君という存在を知った時から、俺はもう一人じゃなくなったんだ。ショウは走った。会えないかもしれないなんて、微塵も思わず、ただひたすらに走った。雨が降ってきた。顔を打ちつける酷い雨だ。傘をさす人が目立って、通りは人が犇めいていた。いっそ清々しい思いだった。こんな障害を越えて、彼女と会え、そしてどんな答えが出ようと、ショウの中で、納得するものがあるのだろうと分かった。バンドTの上に羽織ったジャケットも随分と水分を吸い込んできた。

 駅が見えた。お願いだ。一目だけでもサキと会わせてくれ。駅の中に入り、新幹線のホームを探した。何処に行くとはサキは言っていなかった。当てもなく探すには時間がなさ過ぎる。サキは故郷に帰るとは言っていなかった。だったらどこに行くのだろうか。また一人でどこかの街で静かに暮らすのだろうか。21時に近いダイヤの路線を電光掲示板で探した。21時台の新幹線は富山行と、神奈川行の二本だった。

「鎌倉に行きたい」そう話したことがあった。彼女の中で、恋人らしいデートをするには、鎌倉が良いと、酒に呑まれた夜に行っていたことがあった。タコせんべいを食べて、江ノ島神社の階段を上る。生シラス丼はあまり美味しくないらしいんだってと言うと、江ノ島タワーで夕焼けを見て、龍恋の鐘で二人の名前を書いた錠を着けたいと言っていた。そのまま彼女は眠ってしまったが、いつも強がるサキが、言ってくれた本音だと思った。だったら。

 ショウは富山行のホームに走った。エスカレーターを駆け上がって、ホームの端からサキを探す。よそ見をしていたせいで、サラリーマン風の男とぶつかり、平謝りをした。神奈川行のホームに新幹線が入ってきた。ショウの心は逸る。もし間違った選択をしてしまっていたらと。待合室を覗き、次を探す。くそ。何号車かくらい言っておけ! 心の中でそう毒づくと、富山行のホームに新幹線が入ってくるアナウンスが響いた。もうだめか。そう思った時だった。あの赤髪が、目先の待合室から出てくるのが見えた。

「サキーーーーーーーーーー!!」

 人目もはばからず、ショウは叫んだ。驚いて振り返る人が何人もいる中、サキはこっちを見てはくれなかった。でも、もう何処にも逃げ場はない。ショウは先に近づくと、精一杯に抱き締めた。

「ごめん。遅くなった」

「バカ。こんなところで恥ずかしいだろ。しかも濡れてる」

 口ではそう言いつつも、サキは身じろぎ一つしなかった。

「サキ。俺分かったんだ。俺にはやっぱり……」

「気の迷いだよ。それは。あんたは今のままが一番いい」

 ショウはサキの肩に手をやって、サキの目を見た。サキはこっちなど見ていなかった。

「いつか話したね。自分の歌に殺される夢を見るって。あたしもね。音楽をやっていた身だ。良く解るよ。音楽ってのはつまんないことでも綺麗に輝いているように見せなちゃいけない時がある。でも、そんなの間違っているんだ。自分の本当に思ったことだけでいいんだよ。あたしはあんたの歌う姿は好きだったが、あんたの歌は好きじゃなかった。だからあんたを本当に好きだったかと聞かれたら全部が全部頷けるわけじゃない。あんたはね、もっと素直な奴なんだ。だから、もっと独りになるべきだ。独りになって自分と向き合うんだ。そしたらもっといい歌が歌えるようになる。あたしは出来なかったがね」

「サキ………」

「それにもっと恋をしな。かき乱されて、自分がわけわかんなくなるくらい、熱病に侵されて、ぐちゃぐちゃになるから、人の心を打つものが作れる。みんなそれが怖いんだ。それでも正気を保ちながら、あんたは歌を作るんだ。今のままじゃあんたは何時まで経っても、あたしの中では可愛い人のままだ」

「別れを言いたかったんだな」

「そうだ。これはあたしのけじめでもある。あんたをずっと見てる。あんたが輝き続けるなら」

 新幹線がホームへ入ってきた。サキはやんわりとショウの手を解くと、新幹線の入り口に向かった。ショウは追えなかった。引き留めることが出来なかった。サキはもう自分たちの将来の関係を見ている。サキが新幹線の中に入り、そのまま振り返らず席へ向かおうとした。

「次の歌の歌詞に、こう付け加えるよ! 『最初で最後の恋人』。そう思えるくらいに、君との恋は俺の中で掛け替えないものになった! 俺はこの恋が間違っていたものだと思ってない! それくらい君に参っているんだ! だから、俺から言う! サキ! さよなら! 元気で!」

 精一杯の強がりだった。そんなことしか言えない自分だから、彼女は行ってしまう。

「……バカ。恥ずかしい奴。わかったからもう行け。……さよなら、ショウ」

 新幹線のドアは音を立てて閉まった。そして発車する。ショウは考えて、それから走った。もうこの先見ることのない彼女の姿をこの目に焼き付けるために。新幹線はどんどん加速していく。涙があふれた。サキの姿はもう見ることが出来ない。そのまま車体の陰になって、サキはショウは見えなくなった。彼女と彼の日々が思い出される。ニンジンの食べれない強気な彼女と、頑固で人付き合いの下手な彼。そうして一つの恋は終わり、彼と彼女の物語は分岐した。

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音楽×小説= 柳 真佐域 @yanagimasaiki

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