三章 恋人

3-1

 太陽が南の空高くに登る頃、拓真は学校の正門をくぐった。

 比較的気温が安定したこの時期でも、正午の太陽の下を詰襟で歩けば暑さを感じる。額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、拓真は気怠げに校舎を目指した。

 昨晩の件は学校側には連絡していない。

 理由としては色々と説明するのが面倒だったことと、自身の心の整理を付けることを優先したかったというところが大きい。学校には今朝「姉は高熱で動けそうにない」と嘘をでっち上げておいた。

 下駄箱で靴を履き替えて歩いていると、徐々に生徒たちの声が耳に届き始める。時間的にどうやら今は昼休みのようだ。

 拓真はゆったりとした足取りで自分の教室を目指す。

 廊下で何人か生徒と目が合ったが、特に反応は無かった。

 拓真は遅刻の常習犯であり、それは同学年の大部分は知っている。名前まで把握しているわけではないと思うが、頻繁に昼休みに学生鞄を持って歩いている生徒を見かけていれば、「またあいつか」程度には覚えられるだろう。

 それについては拓真自身も全く問題視していない。気になっていたのは自分の瞳の色についてだ。免罪人として覚醒し、赤く変わってしまった瞳の色。

 響華の勧めもあり、その真っ赤な瞳を隠すため拓真は黒のカラコンをしてきた。

 登校がこんなに遅れたのもそれが原因である。カラコンを入れるのに随分と時間を費やしてしまったのである。

 未だ慣れない目の違和感に、拓真は何度も瞬きを繰り返した。目の中に指を突っ込むなんて、正気の沙汰じゃない。こんな苦行を毎朝行っている視力の悪い人たちは本当に大変だ。涙は出るし、無意識に目を瞑ったり白目を剥いたりしてしまう。

 しかし、結果としてカモフラージュに成功したなら努力の甲斐があったというものだ。

 そのことに安心感を覚えつつ、拓真は教室の引き戸をくぐった。

 そこで彼は違和感に気が付く。教室の隅に妙な人だかりができていたのである。

 普段こんなことは絶対に起こらない。昼休みには、いつもなら生徒たちはグループに分かれて食事をとっている筈だ。よく見てみると他所のクラスの生徒も混じっている。

 つい気になってしまい、拓真は学生鞄を自分の机に置くと、上背を活かしてその人だかりの中心を上から覗き込んだ。

 そこに居たのは精巧な人形のように顔が整った一人の少女だった。

 黒髪を後頭部で三つ編みに束ねたその少女は、次々と投げ掛けられる質問の嵐に対して嫌な顔一つせずに、屈託の無い笑みを浮かべて一つ一つ丁寧に返答していた。

転校生か何かだろうか。見覚えの無い女子生徒だ。

 だが、どこかで会ったことがあるような。そんな不思議な感想を抱いた。大きくて潤んだ瞳と型の良い眉、健康的なピンクの唇。

 その綺麗な顔を注視していると、ふとその少女と目が合った。少女は拓真の存在を認めた瞬間、何か一言二言口にして席を立つ。

 その少女は真っ直ぐにこちらを見たまま近づいてきた。

 人混みがさっと真っ二つに割れ、拓真と少女の間に道ができる。

 少女は立ち尽くした拓真の前までやってくると、一言。

「緋織さん、やっと来ましたね。お昼休みから登校とは良いご身分ですね!」

 教室の空気が凍る。

 拓真自身も初対面の少女にいきなり窘められ、驚きで硬直した。

「え……。誰?」

「やだなぁ……。もう忘れちゃったんですか?」

 そう言って彼女は身体が触れ合うくらいに、こちらに密着して顔を見上げてくる。

「昨日、あんなにたくさんお話ししたじゃないですか」

 一瞬静まり返った教室が再びヒソヒソ話で徐々に騒がしくなる。

 彼女の発言で、拓真は一人の人物に思い当たった。

「お、お前……。ひょっとして……」

 まさか。と思いつつ、本来ならば目の前に居る筈のない人物の名前を口にする。

「響華……?」

 こちらを見上げる少女は嬉しそうに頬を綻ばせ。

「そうです、梧桐響華です。今日この学校に転校してきました」

 開いた口が塞がらない、とはこのことを言うのだろう。驚きのあまり気の利いた言葉が思い付かない。ただただ呆然と彼女の顔を見下ろし続けた。

「午前中まるまる待たせた上に、目が合っても気が付いてくれないなんて……。ちょっとひどくないですか?」

 響華はほんの少し頬を膨らませて不服そうにする。

 昨日のやり取りでこの表情と態度が悪戯だと分かっていて尚、拓真は少し申し訳ない気持ちに駆られてしまった。さすがに少し失礼だったかもしれない。

「あ……、うん。ごめん……」

「なんて、冗談です。そんなことで怒ったりしませんから安心してください!」

 拓真の予想通り。悪戯好きの少女は口元に手を当ててクスッと笑う。

「それに、昨日とは色々と違いますからね」

 こう言っては失礼だが、拓真にとって響華の見た目の印象は『銀髪でスーツを着た美少女』といった感じだった。今の彼女は黒い髪を三つ編みにして、綾杉高校の制服である紺色のブレザーに身を包んでいる。ぱっと見、それが響華だと判断できなかったのだ。

「それでも、もう少し気の利いた反応を期待していたんですけど、ね?」

「いきなり同じクラスに転校してこられたら、普通戸惑うって……」

 そう口にしたところで。ふと昨日の会話を思い出し、拓真は疑問を口にした。

「てか、お前。俺より一個年下って――」

「緋織さん……!」

 拓真の発言を遮る響華。見下ろすと彼女は掌を下に向けて、親指を除いた四本の指を同時に上下。しゃがむように要求する仕草。

 拓真はそれに素直に応じ。

「――!」

 思わず息を呑んだ。

「それは……」

 彼女は精一杯背伸びして拓真の耳元に顔を近付けてきたのだ。

 耳に妙に熱っぽい息が掛かり、ぞくっと身体の奥から震えが込み上げた。

そして、響華は拓真にだけ聞こえる声で囁く。

「二人だけ、の秘密ですよ……?」

 『二人だけ』という単語を強調するあたり、やはりこの少女は滅茶苦茶あざとい。

 そして悲しいことに、異性にあまり耐性のない拓真は「あざとい」と感じつつも面白いくらいに狼狽した。全身が熱を持ち体温が上がっていく。顔が真っ赤になっていくのが鏡を確認せずとも分かった。

 結果として、拓真はその場で茹蛸のように赤くなって押し黙ってしまう。

 そして数秒の沈黙が流れ、その後どよどよと更に教室内が騒がしくなる。皆口々に拓真と響華について話しているようだった。そんな中。

「二人はどういう関係なの?」

 一人の女子生徒のその発言で辺りは静寂に包まれた。クラスメイトほぼ全員の視線が集まるのを感じる。皆、どちらかが答えるのを待っているようだ。

 その質問に対して拓真は返答に困った。昨日の響華との話し合いで、「自分と海咲が咎人に襲われたことや免罪人となってしまったことを口外しない」という結論に至ったためである。それに響華の素性を明かすわけにもいくまい。

 あれこれうまい言い逃れを考えていた拓真だったが。

「――!?」

 腕にやや控えめな柔らかい感触。

 見ると、頭を悩ませている拓真の腕に響華が抱き着いていた。

 そして、首を傾けてコツンと肩に頭を乗せ。

「彼女です♪」

 響華は特に躊躇せず、さも当たり前かのように言い放った。

「……………………え?」

 拓真だけでなく響華以外全ての人間が、時が止まったかのように静まり返る。

 無数の視線を全て受けて彼女ははにかんだ。

「緋織さんの彼女です」

 再び時が動き出す。

「ええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!?」

 クラスメイト全員が大声を上げて発狂した。校舎の外まで響く大音量。

 当然、その中には本人である拓真を含まれており。彼自身が最も、その場でひっくり返るくらいに驚いていた。


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神罰の執行者 里場 茂太郎 @regulus0428

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