伸びる手

モト

伸びる手

 地下鉄駅のホームに滑り込んできた電車は、いつにも増して朝のラッシュで混雑していた。

 限られた車両容積の中に人の群れが押し込まれ、こもった熱、汗と体臭、化粧の臭いが充満している。押し合いで無理やりに圧縮された肉体は変形し、骨はきしむ。四方からの圧力に抵抗して懸命に身体を支えようとする人々の顔は、奇妙な疑問の表情を浮かべていた。どうしてこんな苦痛を受けねばならないのだろう、自分は。

 ホームで待っていた塔子はしかし、開いた扉の奥に身体を力ずくで割り込ませながら、なぜ理不尽な拷問の場に自分は乗り込んでいくのかという疑問を打ち消していた。考えてもむなしくなるだけだ。通勤するには、この路線を使うしかない。そして出勤時間に間に合わせるには、ラッシュを避けることなどできなかった。化粧の濃い女子高生たちの間に塔子は身体を押し込んだ。痛かったのか、女子高生の一人が睨みつけてきた。塔子は眼を伏せる。

 電車が発進し、身体の群れが反動で傾く。身体を押し潰してくる力に、塔子は胸を圧迫されて息を吐き出す。バランスが崩れ、倒れそうになって、手は支えを探すけれどもそんなものはありはしない。身体はよろけて、隣の中年サラリーマンに倒れかかる。サラリーマンは顔をしかめながら、必死そうに吊り輪を握り締めた。伝わってくる怒りに、塔子は心を麻痺させる。加速していた電車が、次の駅を前にして急制動をかけた。今度はサラリーマンや女子高生たちが塔子にのしかかってくる。塔子の細腕は挟まれ、ねじれかけていた。塔子は歯を食いしばる。無視するのだ。そうすれば、やがてこの苦痛は終わる。

 一つ。二つ。三つ。塔子は過ぎていく駅を無意識に数えていた。後、ほんの十四だ。ずいぶんと人ごみの中に入り込んでしまった。この分厚い肉の壁を押し退けて降りられるのだろうか。塔子の上司は、遅刻に対していかなる理由があろうとも冷淡にカウントし、査定を下げるだけだった。辞めさせてもっと給料の安い子と入れ替えていく理由を欲しがっているのだろう。電車が混んでいたので降りられませんでした、そういった塔子に、上司はこう返した。電車ひとつも降りられないようでは、君は本当に仕事に向いていないようだな。まず電車の乗り降りを覚えたらどうだ。

 悔しさが湧き上がりかけたのを、塔子は押し殺す。逆らっても勝ち目はないのだから、思考を停止してしまおう。いずれ結婚相手を見つけたら、あんな会社なんて辞めてしまえばいい。いつでも降りられる通過点に過ぎない。眼を閉じ、耳を塞ぎ、心を閉ざそう。

「無視するな! こっちを見ろ!」

 突然上がった男の怒声で、塔子は反射的に身体を硬くした。

「あんたなんか知らないって言ってるでしょう!」

 続いて女性の甲高い反論。塔子の近くだ。恐る恐る眼をやってみる。隙間の向こうに背の高い髭面のジーンズ男と、派手な顔つきのスーツ女性が睨み合っていた。男は二十代、女性は三十代ぐらいだろうか。男は怒りで顔を真っ赤にして、女性の肩をつかんでいる。ティーシャツの上からでも、太い筋肉の盛り上がりが見て取れた。塔子はさっと眼を戻した。他人事だ、関わったらろくなことにならない。

「どれだけ俺を馬鹿にするつもりだ!」

 電車の騒音をものともせず、男の怒声は車内にくまなく響き渡った。息が吐きかかったように感じて、塔子はびくりと身をすくめる。

「だから、あんたなんて名前も知らないといってるのに!」

 女の叫びは勇ましいが、声の調子には苦痛が混じっていた。塔子とその周辺が、電車の振動とは無関係に揺れる。髭の男が、女性ともみ合っているのだろう。塔子は身を捩じらせてその場から少しでも遠ざかろうとする。

 電車が止まった。けたたましいアナウンスと共に扉が開く。まだ目的地ではない。塔子の希望とは裏腹に、争っている二人は降りなかった。さらに人が詰め込まれ、塔子は二人に近づいてしまう。電車は動き始め、争い声も再開される。

 女性の頭が、塔子の頭に勢いよくぶつかった。鋭い痛みと衝撃、そして驚きに塔子は襲われる。女性が髭の男に殴られたのだと気づくのに、しばらく時間がかかった。視界に入ってきた女性の顔にはどこから出血したのか赤い液体が付いていた。頬が紫色に染まっている。女性は強張った表情で周囲を見渡し、

「助けて! この男、おかしいわ!」

 塔子は眼をそらし、できる限り顔をひねって遠ざけた。いずれ皆が降りれば、駅員がなんとかしてくれる。私になんか、なにもできはしない。他の人だって同じだ。心を麻痺させるしかないのだ。

 身体を動かすのも難しい満員の車内。髭の男は自分の太い腕を、強引に動かして自分のズボンに手をつっこんだ。邪魔な他人の腕を押し退けて、強引に引き上げる。その手先には白い金属色の道具があった。髭の男は荒い息で手も震えており、もう一方の手を使ってなんとか道具から刃を引き出した。

「ナイフよ! 殺される!」

 女性は叫ぶ。男の眼は据わっていた。あちこちからも叫び声が上がる。あれだけ満員の車内なのに、髭の男と女性の周囲から人々は懸命に遠ざかろうとする。

「助けて!」

 女性の手が塔子へと伸びる。塔子は身をよじって少しでも逃げようとするが、狭くて離れられない。

「罰を与えてやるぞ」

 髭の男はナイフを振り上げる。刃を引き出すときに怪我をしたのか、血がしたたっている。女性は顔を強く歪め、大きく眼を見開いている。口はただ繰り返し叫んでいた。

「助けて、助けて、お願い!」

 男の唇がゆっくりと動き、みんな死ねと呟く。減速で電車が揺れて、ナイフの血が飛び散る。そのとき扉が開いた。塔子は全力を振り絞った。頭で肉の壁をこじ開けて、扉の外へと身体をひねり出す。女性の手が塔子のバッグを掴んだ。

「助けて」

 女性の声はか細かった。唇からは血が流れていた。塔子は反射的にバッグを引っ張た。女性の手が離れる。反動で塔子の身体が出た。塔子は駅のホームに降り立っていた。数回ほど肩で息をしてから、塔子はホームをよろよろと歩き出した。電車が動き出し、ふと塔子は振り返る。電車の中、扉の向こう側に女性が張り付いていた。手が扉を叩いている。女性の口がぱくぱくと動く。声はもう聞こえない。電車はそのまま塔子を追い越し、走り去っていく。女性の大きく見開かれた眼は、ずっと塔子を追っていた。


 その日はろくに頭が回らず、塔子の仕事ぶりはさんざんなものだった。

「お疲れさん。今日も大変だったね。」

 くたびれた帰り道、後ろから声をかけてきたのは、仕事仲間で気のいい先輩の秋美だ。駅までの道すがら、上司の伊原からさんざん嫌味をいわれた塔子を秋美はやさしく慰めてくれる。嫌味はもう慣れっこだし、言われている間に心を麻痺させるのは得意だから、なんてことはない。でも先輩の暖かい言葉はありがたかった。気の緩んだ塔子は、今日の朝の出来事を打ち明けた。怖くてたまらなかったのだと。

 秋美は塔子の小さい頭をなでて、「巻き込まれなくて良かったよ。そんな喧嘩なんかに関わることはないよ、あんたは小さくて力もないんだからさ、危うきには近寄らずってね。」

 そういう秋美は塔子より背も高いし活発で、会社の男たちに負けていないどころか仕切っていることも多々ある。頼りがいのある先輩だった。

 帰りの路線が違うので、駅の改札口を過ぎると二人は別れた。ホームに降り立つと、人気が少ない上にもう遅いこともあってそこは寒々としていた。遠くで話している会社員たちの声がここまで響いてきて、ところどころ聞き取ることができる。

「……殺された。」

「この駅……」

「誰も助けなかった……」

 塔子は心の耳を塞いだ。今日の女性のことだろうか。そう考えようとする心を麻痺させる。あれは、どうにもならなかったのだ。だから考えてもしようがない。電車がやってきた。逃れるように塔子は乗り込む。朝とは打って変わって閑散としている車内は、席の人もまばらだった。塔子は隅の席に座り、窓の外にぼんやりと眼をやる。地下鉄の暗いトンネルが延々と続いている。壁が圧迫してくるかのように感じられて、塔子は息苦しくなる。そのときだった。

「止めてよ!」

 怒りに満ちた叫び声が響き渡る。塔子の胃がぎゅっと縮こまった。眼をつぶり、頭を下げ、手を握り締める。また喧嘩だ。怒声が続く。早く着け。早く、早く。怒声は終わらない。塔子に近づいてくる。叫びは強く激しく、空気の衝撃が塔子に叩きつけられるかのようだった。胃が痛くなってくる。叫び声のボリュームが上がっていく。

 扉の開く音がした。塔子は立ち上がった。とにかく降りよう。視線が合わないようにとにかく前だけを見据えて、小走りに電車を降りる。びくとも揺らがないホームのコンクリート土台を足下に感じ、確かにもう開放されたのだとほっとする。本当にひどい一日だった。アナウンスが響き、電車は動き出す。安心した塔子は、ふと去り行く電車に眼をやってしまった。乗っていた車両には、誰もいなかった。ぐるりと見渡す。ホームも無人。では、あの喧嘩の声は。塔子の足から力が抜けた。ぐらりと揺れた。

 翌朝、通勤電車が次々と入ってくる地下鉄のホーム。塔子は立ち尽くしていた。

 ふだん飲みつけない日本酒をあおって強引に体を一晩休ませた塔子は、昨日帰りの件は気のせいだと自分を納得させたつもりでいつものようにアパートを出てきていた。しかし、売店に並んでいる新聞の大見出しが眼に留まった。地下鉄。殺人。通り魔。乗客は見ていただけ。

 線路には、誰が落としたのか菊の花が残骸をさらしていた。入っていた車両が、さらに残骸を踏みにじり散らばらす。この車両に乗れば会社行きだ。だが塔子の足は動かない。乗り込んでいく客たちのちょっとした会話にも体がびくついてしまう。電車は塔子を乗せず出発してしまった。そのまま、なにもできないでいる内にも時間はゆっくりと着実に流れていく。腕時計に示された時刻が、ついに勤務開始の時間に入った。塔子はのろのろと人の流れに逆行して歩き出した。地上へのエスカレーターに乗り、改札口を通って外に出る。タクシー乗り場でしばらく待ってから中型タクシーを捕まえ、話す気力がなかったので自分の名刺を運転手に示した。

 その日の帰りも、先輩の秋美と一緒だった。タクシーを使おうとする塔子に、秋美は呆れて「だったら、あたしが送ってあげるよ。二人なら安心でしょ」

 まるで違う方向の路線で帰るはずの秋美に付き添ってもらうのは心苦しい。しかし断る気力もなく、塔子は先導する秋美について行ってしまった。さすがに申し訳なくて秋美の分の切符代を出そうとしたが、それも秋美は「先輩をちょっとは頼りなさいってば」と自分で手早く購入した。

 地下鉄の車内はそれなりに乗客がいて、座れないこともなければ、がらがらというほどでもない。トンネルからの圧迫感はないでもなかったが、先輩と共にいてようやく気を取り直してきた塔子は、会社の近所に開店したレストランの話題やバーゲンの情報といった雑談をいつものように先輩と語らいながら、座って帰り道を過ごす。なにごともなく地下鉄は塔子の降りる駅に着いた。

「じゃあ、明日は元気に来なさいよ!」

 路線を大廻りして帰る先輩は、車内から手を振っていた。暖かい気持ちで塔子は手を振り返す。去っていく電車を安心して塔子は見送っていた。

 次の日、朝の会社。塔子はお礼のお菓子をカバンに隠し、先輩の出社を待っていた。うっかりお菓子を机の上に置いていたりすると、嫌味な上司から何を言われるものやら知れたものではないし、へたをすれば食べられてしまいかねない。そう、ダイエットがどうとか騒いでいる癖に菓子ばかり食べているのか、みたいなことを言って、持っていくぐらいのことはやるだろう。それが本人にはジョークのつもりなのだ。

 気にするのは止めよう。心を動かすのは止めて、塔子は自分の狭い机に着く。身を潜めるように縮こめた塔子は、先輩のほうだけに神経をやりながら、機械的に仕事をこなしていく。先輩は来ない。塔子はパソコンのキーボードを打ち続ける。まだ来ない。集中した塔子の世界が狭まる。意識からは、先輩の机と眼の前のモニタ以外が消えうせる。仕事の作業は無意識に流れていく。心を閉ざし、麻痺させる。ああ、今日は静かだ。

 突然、塔子の意識が揺らされた。痛い。なにが。肩が。肩に食い込んでいる。指が。なんだ。肩をぐっと掴まれたのだ。いきなりの呼び戻しに塔子は混乱した。深みから浮かび上がって事態を理解するのに、しばし時間がかかる。上司の伊原がきつい顔で睨んでいる。上司が塔子の肩をつかんで、揺さぶったのだ。状況を把握できた塔子は、こうした肉体的接触をしてきたことのない上司の意外な行動に、これはセクハラだと心中で抗議した。

「何度言ったら分かるんだ。山下秋美の件で話がある。仕事を止めて、会議室に集合だ。」

 伊原の眼は据わっていて、反論を許さない。大股歩きで会議室へ向かう上司に、渋々と塔子はついていく。会議室にはすでに課の全員が集合していた。まだ空いていた端の席に塔子は座り、伊原はホワイトボードの前に陣取った。

 伊原はゆっくりと静かに、「これから言う件はまだ不明な点が多い。変な騒ぎにならないよう他の課には話すな。お前たちには直接関係があるので、例外として先に説明しておく。」

 この上司にしては回りくどい言い方が、不安をかもし出す。リストラでもあるのかと小声で隣と話す者、緊張した面持ちになる者。下を向いていた塔子も、顔を上げて上司に眼をやる。

 伊原は厳しい表情で、「山下秋美が亡くなった。地下鉄に乗っていて通り魔事件に巻き込まれたらしいが、まだはっきりしたことは不明だ。」

 ざわつきかけた空気が一瞬で静まり返った。

「いずれ新聞に報道される情報を待て。葬式は明後日だ。俺は会社代表として出席する。詳細はメールで回すから、出席希望者は申告するように。くれぐれもご遺族に事件を質問したりするなよ。以上。」

 伊原はそれだけ話すと、質問時間などは設けずに解散を宣告した。会議室を去り際に、塔子へときつい一瞥をくれる。「冷たい奴だな、お前は。」

 先輩は、塔子のせいで死んだのだ。塔子はずっと席から立つことができなかった。先輩は、塔子には関わるなと言っておいて、自身は当然のごとく関わって巻き込まれたのだ。塔子は小さくて力もない。先輩はそう言っていた。そんな塔子には関わる資格がないと先輩は告げていたのだ。

 塔子の脳裏に車内から助けを呼ぶ姿がよぎる。見知らぬ女性の顔に、先輩の顔が重なる。その顔は苦痛に歪んでいる。自分はどうしてあのときその手を無視したのだろう。

 別の部署が会議室を使う時間になり、同僚から抱え上げられて自分の机に引きずり戻されるときまで。その日は仕事にならず、塔子は上司から追い立てられるようにタイムカードを通し、機械のように両手両足をぎこちなく振って動き、会社を出た。行きたくないのに、身体は地下鉄の駅へと向かう。普段見たことのない制服姿の男たちがホームに数人立っている。制服の胸には警備会社のマークがあった。現実感を喪いかけていた塔子は、その姿に事件のあった確かな証を確認させられた。

 ホームに電車が入ってくる。電車に乗らねばならない。電車で手を取らねば、先輩が代わりになってしまう。いや、もう先輩は代わってしまったのだ。では、自分が代わりに。塔子の思考は朦朧と回る。

 電車が入ってくる。呆けたようにホームで立ち尽くしていた塔子の瞳が、急に激しく動いた。電車の窓の一つから手が見えた。助けを呼ぶ手だ。扉を叩き、懇願している。手は血に塗れている。行かねばならない。そう塔子が思ったとき、電車の中を手の方へと走っていく姿があった。動こうとした塔子の足が止まった。先輩だった。先輩が助けを呼ぶ女性の元へと駆け寄り、ナイフを振り回す男に立ち塞がって、胸にナイフを刺される。飛び散る血が男を赤く染め上げる。先輩がくずおれる。

 ホームに停まった電車の扉が開き、乗客を吐き出し吸い込んでからまた扉を閉めて動き出す。塔子はホームに突っ立ったままだった。

 電車が入ってくる。塔子は心中で絶叫し、しかし動かぬ体は小さな叫びすらも搾り出すことができない。電車の中に、助けを呼ぶ手があった。血の流れる手が扉を叩き、そして先輩が走り、刺されて倒れる。

 電車が入ってくる。手が伸びる。先輩が刺される。電車が入ってくる。先輩が倒れる。

 塔子の頭上にうずたかく積まれた大量の土砂が、塔子を圧迫してくる。狭い地下の空間に閉じ込められ、押し潰されてしまう。上も下も前も後ろも右も左も、あらゆる方向から圧迫される。

 電車が入ってくる。塔子は振り返らずに駆け出した。足はもつれ、エスカレーターで転びかけて酔客に倒れこみ、抱えられて礼も言わずに逃げ出す。会社に戻った塔子は誰とも口を聞かないまま仮眠室に閉じこもる。その日は結局、アパートには帰らなかった。

 山下秋美の葬式は、大勢の弔問客が詰め掛けていた。紛れるように塔子は参列している。無言のまま塔子の焼香も終わり、食事に預かることもなく逃げるように斎場の外へと出た。その背中に、言葉が突き刺さってきた。

「地下鉄に乗れないから辞めるだと。簡単なもんだ。山下はそんな奴をなんで面倒見ていたのかね」

 上司、いや塔子にとっては元上司である伊原の声だった。電話で人事部に連絡してから、まだ手続きは終了していないが塔子にとってはもう退職したも同然だった。退職の理由は伊原が言ったとおり。タクシーでアパートに帰ってきてから一度も公共機関には乗っておらず、外に出ず、会社にも電話だけ。今日は事情が事情だけに、高額だがタクシーをまた使って斎場までやって来ていた。

 追ってきた伊原が肩を並べて、塔子を睨む。

「来い。電車に乗れないか試してやる。」

「でも」

「山下の育てていたお前が逃げ出したら、あいつの苦労は一体なんだったんだ」

 伊原は塔子の腕を強引に掴み、引きずるように塔子を駅へと連れて行く。抵抗しようとして、しかし塔子は思いとどまった。この駅は地下鉄路線ではない。狭く重い地下ではない。だったら乗れるかもしれない。

 改札を通った二人は、無言のまま地上ホームに並んで立つ。まだ昼間だ。明るく暖かい日差しに照らされた電車が入ってくる。扉が開いた。塔子は伊原に腕を引かれ、思わず眼を閉じた。気が付けば電車に乗り込んでいる。ためらいを残したまま、扉は閉まった。発進のベルが鳴る。

「乗ってみればなんてことはないもんだ」

 伊原は塔子に顔を向けず、呟くように言う。塔子は恐る恐る眼を開いてみた。車両の中は昼の日差しで明るい。席は一つだけ残して埋まっている。伊原は当然の権利だと言わんばかりに、空いていた席を自分で取った。塔子は吊り輪につかまり、流れる外の景色を眺める。外が見えると開放感があるせいか、あのときのような感覚は襲ってこない。聞こえてくるのは電車の動く音だけ。車内はただ過ぎ行く時間を待つ人のみ。塔子が選択すべきことはなにもなかった。吊り輪にぶらさがって、揺れを受け止めていればそれでいい。

 次の駅に着き、客の一部が入れ替わる。優先席に、大きな体つきの若者が大股に陣取った。ヘッドフォンを着け、眼を閉じて音楽にひたっているようだ。攻撃的な赤色に髪を染め、つま先で自分のリズムを刻んでいる。塔子は眼をそらした。

 さらに次の駅、お腹の大きな女性が乗り込んでくる。妊婦だろう。席はどこも空いていない。おぼつかない足取りで隅に進むが、乗客も増え、吊り輪にもつかまりづらそうだった。伊原は立ち上がり、優先席の方へと動いた。体をかがめ、優先席を占拠した若者へと声をかける。

「あちらの女性に、席を譲っていただけませんか。」

 若者は反応しない。塔子は息を呑む。伊原が若者のヘッドフォンを外した。もう一度声をかける。若者は面倒そうに眼を開き、上司をねめつけた。

「失礼してすみません。あちらの女性がお困りです。席を譲っていただけませんか。」

「ざけんなよ」

 吊り輪を持つ塔子の手が震えていた。眼を閉じたくなる。ちらりと伊原が塔子に眼をやり、睨んでからまた戻す。眼を閉じるなと言っているのだ。

 若者は身を乗り出し、息が吹きかかる距離にまで伊原と顔を合わせる。

「空いてる席あるだろが、こら!」

 若者の声は強く不機嫌だ。他の客は会話を止め、聞き耳を立てる。

 いきり立ちかける若者に、伊原は一歩下がって深く頭を下げてから、「あちらの席は狭いので、こちらの席を譲っていただけないでしょうか。」手を差し出した。

 虚をつかれた若者は、つい伊原の手を取った。伊原が軽く手を引くと、若者は立ち上がっていた。自分自身のふるまいに、きょとんとしている。

「あなたからどうぞ」

 伊原は若者にささやき促す。若者は少しの間迷っていたが、妊婦のところまで歩み寄って、

「どうぞっす」

 手を差し伸べ、席まで誘導する。妊婦は広い優先席にほっとした表情で腰を下ろす。若者の顔は少し照れていたがうれしそうだった。若者と伊原はそのまま吊り輪につかまり立っていた。数駅が過ぎ、若者はぺこりと頭を下げて降りていく。ようやく塔子は伊原の傍に近づいて、しかしなんと言ってよいのか分からなかった。何事もなかったかのように、伊原は黙っている。

 列車が停まり、扉が開いた。伊原は「退職届を俺は受理していないぞ。分かったな。」それだけ言って、降りていった。塔子の連れはいなくなった。塔子は圧迫を感じ始める。いつものように眼をつむり、耳を塞ぎ、心の扉を閉ざせば、自分一人になれる。しかし、さっきの上司は、若者は、妊婦は一人ではなかった。手をつないでいた。一人になれば安全なのに。塔子は大きく深呼吸して、耳をすまし眼を見開こうとした。

 そのとき列車が進行方向の斜め下に傾いた。トンネルに入っていく。ここからは地下鉄の路線に乗り入れるのだ。窓から景色が消えていく。光が消え、暗いトンネルのコンクリート壁に閉ざされる。閉じた世界に包み込まれる。

 でも、この路線はずっと地上を行くのではなかったろうか。地下鉄とは連結していなかったのではないか。塔子の疑問をよそに、車両は地下深くへと沈んでいく。

 しかし、自分は地下鉄には乗れなかったのではないのか。だから会社を辞めようとしているのでは。それは、なぜだっただろう。急に気温が下がったような気がして、塔子は身震いした。いつの間にか車両には人がごくわずか。ほとんどが降りてしまったらしい。どうして。

 それは。

 せつな、彼方からの叫び声が塔子の耳を打った。恐怖と怒りの入り混じった女性の声、それに男性の怒号。ずっと先の車両からだ。ここには関係ない。塔子はそう断定しようとして、疑問にぶつかった。関係ないのなら、地下鉄には乗り続けられただろう。だって関係がないのだから。でもここにいて、関わってしまった。もうそれは消すことができないのだ。

 塔子は歩みだした。次の車両へ。また次の車両へ。そして次の車両へ。進んでも進んでも車両が終わらない。多すぎる。ああ、でもこれが関わりの遠さなんだ。塔子はそう納得する。こうも遠くに自分はいたのだ。

 車両に入った。そこにはナイフをかざす髭の男と、腕を斬られて手が血塗れの女性、そして間に割って入った秋美先輩がいた。

 秋美先輩は塔子に気付いて、「来ちゃだめだよ。あんたは小さくて力も弱いんだから。」そう言う先輩の胸にはナイフが深々と刺さっている。血は黒く凝固していて、しかし先輩の顔は青くなかった。あれは、死化粧だ。先輩の胸からはもう血が流れもしないのだ。

 女性も塔子が入ってきたのを知って、「助けて! この男おかしいのよ!」血を滴らせながら塔子に手を伸ばしてくる。男はかすれたうなり声を上げてナイフを振り下ろす。女性の腕に傷が増える。女性は痛みに叫び声を上げて、男に背を向けた。開かない扉を叩き、助けを求める。その背にも長い斬り傷があった。列車はトンネルを走り続けている。

 男は血走った眼を塔子に向けた。次の獲物を見つけたのだ。

 秋美先輩が、男にしがみつく。「塔子、あんたは逃げなさい!」先輩が叫ぶ。しかし男は、先輩を存在してもいないかのごとくまるで意に介していない。

 塔子は、ゆっくりと呟いた。先輩、塔子は小さくて力も弱いです。でも、先輩なんてもう死んでいるじゃないですか。

 バッグから塔子は清めの塩を取り出した。葬式の帰りに受け取ったものだ。袋を開き、中身を髭の男の顔に投げつける。男はうなり、痛みに眼を押さえた。背を低くして塔子は男をすり抜け、非常開閉装置のカバーを勢いよく叩き割る。ボタンを押す。扉が開いた。そのとき列車はホームに滑り込んでいた。倒れそうになりながら、傷ついた女性は開いた扉の向こうへと助けを求めて手を伸ばす。塔子は見た。ホームから女性に向かって手を差し伸べる自分自身の姿を。そのとき、背中に強い衝撃を受けて塔子は意識を失った。


 塔子が目を覚ました場所は、白い病室だった。病院独特の薬っぽい匂いが鼻腔を刺激する。天井、そして窓の光へと眼を移し、背中の痛みを感じて、自分が生きていることを悟った。痛いことは痛いが、どうやら打ち身の類のようだ。しばらく考え込んで、ぼんやりした意識を浮上させていく。そうだ。自分は扉を開いて、そこで背中に痛みを感じた。その後の記憶がない。

「もう安心していいぞ。犯人は死んだ」

 慌てて反対側に眼をやると、そこには伊原が座っていた。伊原が広げている新聞には、連続列車内通り魔事件の犯人死亡、と見出しにある。

「お前を蹴ったとき、滑ってな。そのまま自分のナイフでお陀仏だ。」伊原はそう言った後、「まるで何かに足を引っ張られたみたいだったそうだ。」と静かに付け足した。

 塔子は体を起こそうとした。伊原はそれに眼をやって、「おい、蹴られただけとはいえ、まだ無理はしないほうがいいぞ。」手をさしのべる。塔子はしっかりとその手をつかみ、体を起こす。窓を開くと、爽やかな空気が流れ込んできて病室の匂いを追いやった。

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