神棚にコーヒー そして貴方に捧ぐ花
湊波
神棚にコーヒー そして貴方に捧ぐ花
パンと一つ、柏手を打った。神棚の上に供えたコーヒーから白い湯気が立ち上り、ゆらりと揺れる。
すぐ上の壁に掛けられた時計を、私はちらりと見上げた。二時四十三分。ひび割れた盤面に息をついて、脚立から降りる。
「おい。そろそろ買い物に行く時間じゃないのか」
調理場で、料理をしていた彼女が顔を上げた。グツグツと音を立てている鍋をゆったりと回しながら、皺だらけの顔を笑みの形に崩す。
「あぁ本当ね。もうこんな時間……でも、これだけ終わらせてからね」
「そんなに悠長にしていていいのか」
「あなたはいつもせっかちね。いいんですよ。少しくらい遅れても」
鍋からは、ビーフシチューの香りに染まった湯気が漂っている。窓から差し込む橙色の光に照らされて、幾つも並んだテーブルと椅子が長い影を落としていた。
私は折り畳んだ脚立を窓際に立てかけた。その拍子に、窓際に並べられた色とりどりの造花が音もなく揺れる。昨日の晩、丁寧に埃を祓った花弁は瑞々しい。手にとった一輪を眺めるともなく眺めていれば、彼女の声が飛んできた。
「あの日から立ち直れて、本当に良かったですねぇ。このカフェも、随分ぼろぼろだったから」
「ふん」
「ここを再開して、今日で三年ですけれど……ここが再開して、初めていらしたお客さんがいてね。世界一を獲ったマスターのコーヒーは昔と変わらない、って喜んでらしたわ」
「君の作る軽食目当ての客もいるだろう」
「まぁ、お上手だこと」
穏やかな笑い声と共に、かたん、という音がした。鍋をコンロから下ろしたのだろう。私はゆっくりと瞬きをし、造花を窓際に戻した。振り返る。それと同時に、タッパーを閉める軽やかな音が響く。
「今日食べる分のシチューは、お皿によそってありますからね」
「あぁ」
「残りは冷蔵庫に入れておきますから。ちゃんとご飯を炊いて、三食きちんと食べること。さもないと、前みたいに倒れますからね」
「……分かっている」
母親のような小言に顔をしかめながら、私は店内を見回す。椅子がテーブルから少しでも離れていれば、それを押し込んで回った。
「それから……そうそう。そこにある紙袋ですけれど」
彼女の声につられて、私は綺麗に拭き上げたテーブルの一つに目をやった。歳を重ね、深みを帯びた彼女の声は続く。
「私からのお祝いですよ。このお店の、再開記念ね」
近づいて袋の中身を取り出す。ふくよかな香りと共に紙袋から溢れるのは、色とりどりの生花だ。
菜の花、なでしこ。
そして勿忘草(わすれなぐさ)。
――この花の、花言葉はね……。
「……いらん、花は。こういうヤワなものは好かん」
脳裏をよぎった声に、私は顔をしかめた。花弁が散らぬよう気をつけながら紙袋に戻せば、調理場から出てきた彼女が苦笑いする。
「まぁ。素直じゃないのは、ワルだった昔から変わらないわね。良二さんとそっくり」
「うるさいな」
「香織ちゃんのために、一生懸命に花言葉を覚えてたでしょうに」
「昔の話はするんじゃない」
「それぐらい、香織ちゃんのこと好きだったんでしょう?」
私は、乱暴に椅子へ腰掛けた。近づいてきた彼女に、無言で紙袋を突き出す。
苦笑いと共に、彼女が紙袋を受け取った。それを小脇に抱えた彼女は、ポケットから武骨な腕時計を出して、ぱちりと止める。
「はいはい。じゃあ、そろそろ私は行きますね」
「早くした方がいい」
「急かさなくても大丈夫ですよ。スーパーの特売は四時からだもの……ここから歩いて五分くらいでしょう? ちゃんと間に合うわ」
「それで、病院の面会時間には間に合うのか。良二の具合も良くないんだろう」
「大丈夫よ。病院の人が融通きかせてくれるもの」
「……君は色々と昔から緩い」
私は嘆息をついた。
彼女は紙袋を床においた。エプロンを外し、近くにあった椅子の背もたれにかける。外套を羽織りながら、おどけたような視線を私にちらりと向けた。
「そうかしら」
「手をエプロンで拭くだろう、君は」
「主婦は皆そうしますよ」
「ここのテーブルの上も、いつも汚い」
「あなたが代わりに、きっちり片付けてくれるでしょう?」
「良二も苦労しただろう」
「あらやだ」
外套を着込み、薄い紅色の帽子を被った彼女は、微笑んだ。
穏やかに。けれど、どこか寂しげに。
「大丈夫ですよ。うちの主人はあなたみたいにうるさくないもの」
じゃあ、また明日ね。そう言って彼女は花束と共に去っていた。扉につけられたベルが控えめにちりんと鳴る。扉が閉まり、長い夜が始まる。
私は息をついて、立ち上がった。ちらと視線を上げる。
神棚に置かれた写真立ての中で、勿忘草の花束を抱えた妻がにこりと微笑む。
ヒビの入った時計の針は、あの日から時を刻むことはない。
孤独でないといえば、きっとそれは嘘になる。
けれど。
私は苦笑いして、首を振った。調理場に向かう。
コーヒーでも飲もう。君の思い出と共に。
神棚にコーヒー そして貴方に捧ぐ花 湊波 @souha0113
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