起きる彼女と寝る私
朝、太陽の光が部屋を明るく照らしている。私は目覚ましが鳴っていないにも関わらず目を覚ました。目に映る、部屋の風景は間違いなく私の部屋ではない。私の居たアパートの一室はこんなに高級感に溢れる壁をしてはいなかったし、天井も高くはなかった。
ここはどこだろうか、昨日のことはよく覚えていない。記憶に残っているのは挫折と絶望感を抱いた私はもうどうでも良くなって、ただ冷たいリラ冷えの中を打たれながら歩いたこと。そして、倒れた私の前に――
「起きたんですね、良かった……」
声のする方を見ると、肩と同じくらいの長さに茶色い髪を切りそろえた少女がマグカップをトレーに載せて立っていた。
あぁ、私は彼女に助けられたんだ。朧気だった昨日の記憶が徐々に思い出される、いや思い出したように作り出されたのかもしれない。彼女は雨に濡れた私をここまで運んで、暖めて優しく包み込んでくれた。年下の娘に包み込まれるなんて、親に見られたら大笑いされるだろう。それくらい普段の自分からは考えられないことだった。
でも、それくらい昨日の私は、いや今の私も消耗している。心がすり減ってしまっている。
「紅茶を淹れたので持ってきました。もし良かったら、飲んでみてください」
彼女は、トレーに載せられたティーカップとティーポッドをベッドの横にある小さなテーブルの上に載せて、そう言った。私が何もせずにボーっと虚空を眺めていると彼女は私の前に移動して、額に手を当てる。
「熱はなさそうですね」
「今は何も言いたくないなら、それでいいですから。寝ていたいなら、そうしていて構いませんよ」
そう優しい声が耳に届いて、髪を優しく梳く手と共に私を落ち着かせる。ここに居ていいのだと、包まれていていいのだと弱い自分を納得させてくれる。このままでいいのだろうかという気持ちもない訳ではないが今の自分にとってこの心地よさから抜け出す覚悟は無かった。
時間が過ぎてゆく、時計の見えない部屋での時の流れは酷く不愉快に感じる。どのくらいの時が過ぎたのか分からない不安が心をざわつかせる。その不安に押されるようにどうにか上体を起こした時には、彼女が入れた紅茶はもう冷めてしまっていた。それでも彼女は部屋の片隅でトレーを抱えながら、座っていた。
「あの…」
「どうかされましたか?」
「ずっとここにいて大丈夫なんですか?」
私はずっとこの部屋にいる彼女にそう声をかける。恐らく彼女は高校生だろう、もうとっくに授業も始まっている筈だ。こんな私なんか放っておいて、授業を受けに行った方が良いのではないか。そう言った疑問を暗に含めて彼女に投げる。
「……」
「……っ」
空気の中を沈黙が奔る。少し強く言い過ぎただろうか?そのような気持ちが胸に浮かび上がったとき、彼女はゆっくりと口を開いた。
「大丈夫か大丈夫でないかと聞かれたら、休むのは良くはないですね……」
彼女は休むのは良くないとそう言った。私のために彼女の未来を潰すわけにはいかない。私をここに置いていくのは不安かもしれないが、それでも……。
「なら、早く行った方が」
「ですがっ!」
私が口を開いた途端、今までの落ち着きが嘘の様に彼女は高く、大きな声で続きを遮った。まるで私の言葉の先を聞きたくないとでも言うように。
「あなたがこんな状態で、放っておける訳ありません。私は子供であなたは大人でしょうけれど」
「……」
「それでも今は、私は看病する側です」
その感情の高まりは、一瞬で彼女はつい先ほどまでの落ち着きを取り戻した。落ち着くような優しい声で、今は休んでいいのだとそう言ってくる。今は大人が子供に甘えてもいいのだと。彼女の感情的な声に驚かされたのもあるが今は休もう、そう思うことができた。気がつくと次第に目蓋が重くなっていき――。
「おやすみなさい、ゆっくり休んでください」
私は微睡みに包まれた。
布団に崩れ落ちるように横たわる彼女からは静かに呼吸の音が聞こえてくる。目を覚ましてしまわないように布団を静かに整えて、体が冷えないように上に被せる。頭の中では彼女の先程の言葉が反響し、他の思考とぶつかり、残響と化して不協和音だけを残す。
私は高校生で彼女は社会人。成年と未成年の間に横たわる溝は中々に大きい。私はお酒も飲めないし、カードも作れない。できないこと、してはいけないことが山のように積み重なっている。確かに彼女の言うように私は学校へ行くべきだった。今日休んだからといって進級できなくなるほど成績は逼迫していないし、今まで問題行動を起こして何かを言われるということもなかった。今日は調子が悪く欠席すると電話越しに伝えると先生は疑うことなく私の言葉を受け入れた。
裏切ることが心地良いわけは当然なく、胸の中には闇が残り、思考には靄がかかっている。けれど、この選択を間違いだと認めるつもりは無い。それくらい、私はあの人に休んで欲しいとそう思ったのだ。
「私はどうしてしまったんでしょうか」
誰にもわかるはずのない疑問が部屋に広がり消えてゆく。いつの間にか眠気が私を包んでいる。そういえば私、朝から何も食べてなかったな――
「んっ……」
目を覚ますと朝の太陽のような色はとうに消え去っていたようで、窓からはまだ青の薄い、初夏の空が目に映った。朝に目覚めた時と比べると眠り過ぎによる頭痛はあるものの心なしか靄が晴れたようなそんな気がしている。
「よし、起きれた」
息を大きく吸って上体を勢いよく起こすとやはり、さっき起きた時と比べるととても気分が良い気がする。ここ2、3日周りに漂っていた閉塞感はどこへ行ったのかと思うほど明るい気持ちに包まれ、初めて部屋の外へ行こうという気持ちが芽生えた。
「えっ……」
扉を開けた先は1人で使うには広すぎるリビングだった。一言でいえば殺風景と言った方が良いくらいに物が少ない。小さな本棚と観葉植物、真ん中に配置された小さなテーブルそれだけがこの20平方メートルくらいはありそうな部屋に配置されている。私を拾ってくれた彼女が住んでいる所とはとても思えないほどに虚空が広がっていた。
彼女はテーブルに寄りかかるようにして横たわっている。その寝息は直ぐには起きそうにないくらいには深い。私は一度、自分が眠っていた部屋に戻り、彼女が風邪をひかないようにタオルケットを彼女の背中に被せた。彼女が起きてくるまでの間、私は何をしていればいいのだろうか。辺りを見回していると、今まで気にしていなかった空腹感を感じた。それなら――
「うーん……」
眠気が薄くなり、意識が水面の近くまで浮上する。寒くはなく、心地良い。美味しそうな香りも漂ってきて、眠る前に感じた空腹を強く思い出す。食器が置かれる音がして、完全に目が覚める。
「えっ」
テーブルの上には暖かいスープと豆腐のステーキ、野菜のサラダが置いてある。当然、私が作ったものではない。頭をキッチンの方へ向けるとちょうど、彼女がスプーンや箸を持って、出てきたところだった。彼女の表情は昨日からの間で見たことがないくらいに明るく、落ち着いた表情だった。
「ごめんなさい、少し冷蔵庫の中身を使わせてもらいました」
「後でその分は補填するので……」
やはりこの料理は彼女が作ってくれた物だったようだ。冷蔵庫の中身を勝手に使って料理を作られたことは彼女が思っているほど気にしていなかった。私は寝てしまう前に食べられるものを用意してはいなかったし、起きるまで待っているのは楽なことではないだろう。
「気にしなくていいですよ。もしどうしても気にしてしまうなら、また今度何かを作ってください」
「えっ、でも……」
「冷めちゃうともったいないですし、食べませんか?」
「作ってくれてありがとう。いただきます」
少し強引だけど話を終わらせて、食事に手を付ける。スプーンを手に取り、カレーを口に入れる。普通のルーを使ったもののはずなのに自分で作ったものより美味しく感じる。これでは手は止まりそうにない。30分程時間が経ち、ようやく手が止まる。空腹はとうの昔に解消し、満腹に達している。流石にもう食べられそうにはない。
「ごちそうさま。本当に美味しかった、ありがとう」
「どっ、どういたしまして」
突然呼びかけられて、びっくりした彼女は少し嬉しそうな顔をして返事を返してくれた。食後の和やかな雰囲気に当てられて私はふと話そうと思っていたことを口にした。
「もし、あなたが家に帰れないほど困っていることがあるならその時はいってください」
「あなたと遠い人の方が気にせずに話せることもあるかもしれません。その時は遠慮せずにここに来てください」
「……」
彼女は困惑している、それもそうだろう。昨日初めてあった人に突然、いつでも来ていいと口に出されたら困惑するしかない。だけれど今の自分にはそこまで考える余裕も語彙力も無かった。私にできるのは慌てないように彼女を見つめて伝わるのを祈ることだけ。
「良いんですか?」
「もちろん良いですよ。来たいときに居たいだけいてください」
「本当に?」
「あなたがいたくなくなる時まで」
彼女は少し考えるような顔をした後に――
「あなたがいいのであれば、ここに居たいです」
そう答えた。私自身も強い人ではない。けれどそれでも誰かにとっての力になるのなら、悪いことではない。私も穴をふさいだ傘くらいには役に立つとそう思った。
出会ってまだ名前を知らない彼女だけれども、彼女は自分を変えてくれた。なら、私も彼女の支えになれるようにしよう。そう誓って夜は過ぎていく。
リラ冷えの彼女 豊羽縁 @toyoha_yukari
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