リラ冷えの彼女

豊羽縁

傘を差せない私と傘から出れない彼女

 雨が降る、重力に従って雫は落ちていき地面にぶつかり、跳ね上がる。雨が1時間以上少しずつ降り続ける中で街中のビル街は次第に空を漂う微細な水滴によって霧をまとっていく。そんな中、私はスーツ姿のまま傘を差さずにただ公園の中を歩いていた。何かから逃げるように背をわずかに丸めて。

 公園の中は街中にも関わらずほとんど人がいない。街中にあるこの公園は東西に1キロ半、南北に100メートルの幅を持つ公園だ。歴史的な経緯としては官公庁のある北側と民間の施設のある南側を区切る防火帯の役割もあったらしくこれほどまでにの大きさを持っている。その広さのおかげで晴れた日は多くの人たちで賑わう場所となっている。

 雨が降るこんな日には傘をさしてるとは言え、わざわざ雨の中公園を歩く人は少ないだろう。まして駅前通りでも何でもないこの辺りをしかも傘を差さずに通る変人は。ここにいる1人を除いていはしないだろう……。



 誰もいない静かな家を出てエレベーターに乗り、自動ドアの外に出ると既に雨が降っていた。手に持っていた藍色の傘を開いて上に向ける。傘は持ち手が木製であり、そこがシンプルなデザインながら落ち着いた印象を与えてくれる。ああ、安心できる、父と母と離れている私にとってこれは母を思い出させてくれるものだ。自信のない自分に力を分けてくれるそんな大切なもの。

 雨の日は好きだ。静かで落ち着いていて、土砂降りの日ですらその音によって創り出される静寂がある。そんな雨が私は好きだ、そんな日は堪らなく読書がしたくなる。読書灯だけを点けて、リクライニングチェアに座り本を読む。そんな贅沢が私にとっては最高の娯楽だ。だから雨の日は好きだと言える。

 そんな好きな雨の中、私は一路学校を目指して歩いていく。私の通っている高校は単位制と言う少し変わった制度を採用していて大学のように授業を取ることができるそんな高校だ。そんな変わった学校に通い始めて1年と1か月、5月も既に中旬に入っている。そろそろ進路についても具体的に考えていかないといけないそんな時期。

 雑居ビルの林の間を傘の群れが左へ右へと動いていく、私もその中に混じってただ歩く。やがてビルの林が途切れて目の前の視界が広がり、石畳の草原が現れる。そこを歩く人は縁を歩くようにして中に踏み入れようとするものは少ない。ふと、そんな中傘を差さずに雨に濡れる女性を見た。その姿を見た私はその人を放っておけない、何故かそう思ってしまったのだ。



 何とか地下鉄の駅近くに辿り着く、途中で反対方向に進んだ方がいいと気づいたけれど、もうその時には駅と駅の中間に当たる位置まで歩いてしまっていた。凍えそうなくらいの寒さで止まらない頭痛に包まれながら、いつもの3分の1程度の速さで足を前に前にと進める。少し、体が熱を持った気がしながらもそれが雨の冷気で洗い流される、自分は何をやっているのだろうかという自問自答と後悔と逃避の気持ちで私はただ歩くことしかできなかった。

 段差に足を引っかけ姿勢を崩していく、気づいた時にはもう遅く意識が朦朧としつつあった私は石畳に倒れ込んでしまう。もうここで凍えて死ぬのだろう、そんな気持ちで起き上がる気力すらないまま突っ伏していると不意に雨が遮られる。


「大丈夫ですか?」

「起き上がれます?」


 そんな声が聞こえてくる。どうにかして頭を上げると目の前には高校の制服を着てしゃがんだ女の子がいた。彼女は私に雨が当たらないようにできるだけ近づいて傘を差している。何故と言う言葉は直ぐには浮かんでこなかった。返事を返す余裕はありそうにない、そのことをほとんど力を失った視線で訴えかける。


「そう、ですか」

「ごめんなさい、ちょっと濡れますよ」


 少女はそう断りを入れて傘を横に置く、そんなことをしたら彼女まで濡れてしまうのに……。彼女は私に反応する時間を与えずに私の腕の中に彼女を潜り込ませて、私の上体を起こした。そしてその状態で傘を差す、当然彼女も座り込む形になるので赤いチェックの柄のスカートは端からどんどん水を吸っていく。そんなことを気にする様子も見せず彼女は横に置いていた鞄から携帯電話を取り出して、こう言った。


「すいません、中央公園の11地区まで来てくれませんか」



 あの人と私はずぶ濡れになりながらも私が呼んだタクシーに乗っている。後で色々請求されるのは分かっているし、そんな状態で呼びつけるのは馴染みの運転手には申し訳ないが背に腹は代えられなかった。幸い公園と自宅が車だと5分もかからない位置にあったため申し訳なさで押しつぶされそうになる時間はそう長くは無かった。運転手に乗車料金と清掃代として5万を渡してからあの人の腕を抱えて、マンションの中に入る。さっきよりは力を入れて歩いてくれるので私が引っ張るような形にはならなかったが私が支えていないと今にも倒れてしまいそうだ。


 何とか10分ほどかけてなんとか私の部屋に辿り着く。私も彼女も雨でずぶ濡れになっていた。


「今からシャワー浴びて、温まりますよ」


 私が抱えながらそう言うと彼女は僅かにコクンと頷く、体を支えながらゆっくりと脱衣所を目指す。フローリングの上にはずぶ濡れの足が描いた足跡がくっきりと残っている。体を洗ったら、拭いて掃除をしないと……。玄関から5メートルほど進み、脱衣所に到着する。


「着きました、服は脱げますか?」

「は…ぃ」


 途切れ途切れの声で小さく返事が聞こえる。私は人が2人立つには狭い脱衣所で彼女が姿勢を崩さないように支えた。彼女が脱ぎ終わると、私は冷えてしまわないように風呂場に移動してシャワーのレバーを上げた。10分程、温かいシャワーを浴びて冷えてしまった体を温める。疲れ切って全てに絶望していたような顔をした彼女は温水に体を包まれるなかで少し安堵したような表情をしている。最初に見た時よりは悪くないのかもしれない。


「そろそろ出ますよ」


 彼女は頷いて、私の手を握る。脱衣所で体を拭く時は水気で冷えてしまわないように丁寧に体を拭いていく。拭き終わり、脱衣所の横にあるプラスチックのタンスから暖かいモコモコのパジャマと下着を引っ張り出して、彼女に着せる。


「服の大きさは足ります、けっこう緩い服ではあるけど」

「……だい、じょう……ぶです」


 先ほどより聞こえやすい声で大丈夫と返事が来る。パジャマを着た彼女は私よりも年上のはずなのに庇護欲を感じさせる姿だった。黒い髪は肩のあたりで切りそろえられていて前髪は俯くと目が隠れるほどの長さ、背は私より5センチ程低く少し僅かに肩をすぼめているせいか更に小さく見えた。


「そう、なら良かったです。寒くないですか」

「少し……、さ……むいです」


 彼女は少し寒そうにそう答える、やはりもう少し暖まった方がいいのだろう。


「こっち来てもらえますか」


 私はそう言って、寝室へと手を引いて移動する。寝室にはシングルサイズのベッドが置いてあり、朝出た時のままの形になっていた。ここで少し休んでもらおう、少なくとも体が温まって服が最低限乾くまでは休んでいた方がいいと思う。


「ここで服が乾くまで寝ててください、このままだと風邪をひいてしまいますし」

「ごめんなさい……」

「気にしないでください、濡れている人は放っておけないです」


 布団を持ち上げて布団に入りやすいようにすると彼女はそこにゆっくりと遠慮がちに入っていった。


「おやすみなさい」


 私がそう言って布団を元に戻そうとすると手を弱いけれども強い力で掴まれる。先程までの弱さが嘘のような強さだ、この細い腕のどこにそんな力があったのだろう。


「一緒に、一緒にいてください…」


 彼女が手をつかみながら、そう言った。彼女の目は真っすぐにこちらを見透かすような視線で見つめていた。その視線に絡めとられた私は顔を背けることはできずに――。


「貴女が寝るまでは少なくとも一緒にいますよ」


 そう言って近づいて頭を撫でると彼女は少し安心したのか掴んだ手を放してベッドに横たわる。私もそれに寄り添うように布団の中に入り、普段は私1人で寝る布団に2人で横たわる。私は彼女が安心できるように布団の中で手を繋いだ。

 ちゃんと少なくとも落ち着いていられるようになるまではここから離れない、言った言葉は最大限守りたいそう思った。


 雨の降る、リラ冷えの朝の出会いは私を変えていくそんな予感がした。

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