二回目は生きるために
午後の来客もどうにか乗り切り事務所を閉める。もう日課になっている最後の書類確認を一人で行っていると、ふいに後方から声をかけられた。
「やあシンルー君。お疲れさま。よかったら少し、お話しないかい?」
聞き慣れた優雅な語調に振り返ると予想したとおり、アメジストを思わせる紫の瞳が俺をじっと見つめていた。
「はい。俺も、所長にお聞きしたいことがあったんです」
ひとまず書類を後回しにして自分の事務机を立つ。紅茶かコーヒーかを尋ねてお湯を沸かしに行った。思えば豆を挽くのも上手くなったものだ。
香り立つコーヒーカップを二つ用意して事務所に戻る。所長はすでに応接スペースのソファーで俺を待っていた。
「所長、ありがとうございました」
反対側に腰かけながら礼を述べる。スマイルス所長はそれだけで何のことか分かったらしく、鋭い目じりに微笑みを浮かべた。
「いいんだ。あれは僕にも必要なことだったからね」
「……? そうですか。でも、本当にありがとうございます。所長含め事務所の皆さんにはいくらお礼を申し上げても足りません」
「そう言ってもらえると嬉しいね。そこに付け込むようになってしまって申し訳ないんだが、君に言っておかねばならないことがある」
「……はい」
「僕は近々国連本部へ渡航することになる。そこで、今件の詳しい説明を各国の首脳に行わなければならない。責任者の端くれとして、君のこともつまびらかに語る義務がある」
「仕方のないことです。むしろお気遣いに感謝します」
「レグールあたりは『そんなの黙ってればいいんじゃなぁい』なんて言うんだがね。今回の我々の行動は、国連から撲滅機構に与えられていた権限を可能な限り拡大解釈して無理を通したものだった。率直に言って問題視している者もある。余計な詮索を受けるような誤魔化しは控えたい。だから僕は君に、こう告げねばならないんだ」
一呼吸置いてから、所長はヨーロッパ全土を統括する者としての目つきに改めた。
「君に、世界をアンドロイドの脅威から救った英雄と呼ばれる覚悟はあるかい? あるいは、アンドロイドという人間の在り方、その滅びのきっかけを作った虐殺者と歴史に
あまりに冷えた言葉に背筋が震えた。だが目を逸らすことはできない。正反対のその評価は、きっと永遠に俺に付き纏うに違いないのだから。
世界がアンドロイドを悪と認識し続けるのなら、俺は確かにその脅威の根本を刈り取るきっかけを作った英雄だ。
だが世界がアンドロイドを人間と認め、彼らが決して悪でないことを認めるのであれば。俺は彼らの未来を奪い絶滅に追いやった人殺しに違いない。
誰からどう思われるか、それは相手次第だ。
「今回の議論は前例のないものになる。結果がどう転ぶか僕にも分からない。確定していることは、もう二度と悲しいアンドロイドは生まれないということだけだ。君の身柄の自由は僕がなんとしても保証する。だが……不本意な評価を受ける覚悟だけはしていてもらいたい」
厳かに自分を貫く蠱惑的な輝きに俺は固く頷く。すると所長は表情をふっとやわらげた。
「それでだね、シンルー君。セキュリティーホールの職員に正規採用される気はあるかい?」
「俺がですかっ?」
「僕の手中にあるほうが守りやすいし、なにより君の働きぶりには助かっている」
手の平を見せて「ねっ?」とほほ笑む所長に俺は納得した。彼が俺自身の戸籍を手早く作ってしまったのは、俺の身分を保証し正式に雇用するためだったのだ。
「でも、俺はセキュリティーホールの仕事に詳しいわけでも、戦えるわけでもありません」
「セキュリティホールもこれから、アンドロイドへの対応が変わっていく。どうせ大幅な業務変更さ。僕達も手探りだよ。
それに君は滅びかけの日本語が完璧に喋れて、今は貴重なIT知識や工学知識もそれなりに持っている。この時代には希少な人材だと思うのだが?」
偉い人にそう褒められると無い自信も湧いて来るというもので。俺ははにかみながら視線を下げた。そしてふと、自分が彼に尋ねたかったことを思い出した。
「あの、一つだけいいですか」
「何かな?」
「所長はどうしてあの時、あの論文の内容と、俺やロイドさんの言葉を信じてくれたんですか」
今落ち着いて考えれば、あの日の主張はどれも、本来なら妄言として切り捨てられてもおかしくなかったものだったのだと分かる。なぜスマイルス所長がああもあっさり受け入れてくれたのか、後から不思議に思ったのだ。
俺の突然の問いに所長は面食らいながらも、どこか懐かし気に笑みを深めた。
「そうだね。僕とレグールが幼馴染ということは知っているね?」
「あっ、モナドノック先生に聞きました」
「僕らが幼い頃、よく遊んでくれたご近所のお姉さんがいた。僕らより三個ほど年上の人だ。僕らは彼女によく懐いていて、将来はこんな人と結婚したいなんて言い合っていたよ」
それはよくある幼い日の思い出だった。優しい年上の女の子に、淡い恋心を抱くような、本当にどこにでもある話。ただ、一つだけ普通と違った点がある。
「でも僕らはある日気がついた。僕らが成長するほどに、お姉さんは成長しない。彼女は珍しい、幼年体で制作されたアンドロイドだった。アンドロイドは人に紛れるために部品を定期的に交換し、疑似的な老化を再現する。けれど彼女も、彼女の両親として振る舞っていた人間も、子供の細かな成長を再現できるほどにお金を持っていなかった」
まるで実の姉のように、時には実の両親より近くに居てくれたその人は、人間ではなくアンドロイドだった。
「最初に気づいたのは僕らだった。まだ周囲の人々は気づいていなかった。僕らは何も言わなかったよ。彼女が好きだったからね。けれど、すぐ他の人も気づいてしまった。――結果、彼女は破壊され、彼女の両親としてあった夫婦は迫害されてどこかへ消えた」
視線を落し、コーヒーを含んだ所長の影に一瞬だけ、幼い日の面影が浮かんだ気がした。今と同じ、大人びていて、品のある少年。けれどそこには、今には無い寂しさの色があった。
「問題は、結局僕らは二人とも、最後まで彼女を好きだったということだ。それでも当時の僕らには何もできなかった。レグールは学者になり、僕はセキュリティーホールへ入った。互いに道は違えど、僕らの中にあった疑問は同じだ。アンドロイドとはなんなのか。僕らはその答えを求めていた」
再び視線を上げた所長に、もう幼い影はなかった。代わりにあったのは積み重ねてきた時間を己の糧とし続けた者の強さだった。
「あの日君たちに提示された答えは、僕らの胸にすっと落ちた。理由なんてそれだけなのだよ。至極個人的で、とても感傷的な、自分勝手な選択に過ぎない。組織の長の一角としての立場ではなく、僕は僕個人の立場を取った。つまるところね、他でもない僕があの話を信じたかったのさ」
己の行いを振り返るように所長が穏やかに笑む。金色の髪がさらりと流れ、その光が俺に眩しいくらいだった。
俺も俺として生きる人生を、所長のように積み重ねていきたいと思った。空っぽじゃない。空虚じゃない。確かな質量を持った人生を歩んでいきたい。その方法を、俺はもう知っている。
確かな自分を歩んでいくこと。流されるままだった俺にそれは難しく、苦しい道だろうが、やるしかない。そうしたいと俺自身が願っている。
俺は立ち上がって所長の横に移動した。そして俺がかつて生きた国で、最も相手に敬意を伝えられる角度まで頭を下げた。滲む涙を見られるのが恥ずかしかったというのもある。けれど、ただ俺にできる限りで、感謝を表したかった。
「信じてくれて、ありがとうございました。そうじゃなかったら、きっと俺はあそこでまた失敗したっていじけて
勢いよく頭を上げ、愛想笑いじゃない、本当の笑みを浮かべて俺は手を差し出した。
「――正規雇用の件、謹んでお請けいたします。俺は俺として、シンルーとして、そしてアンドロイドが滅ぶきっかけとなった人間として。世界がこれからどうなっていくのか、この目で確かめたいから」
所長が俺の手を取る。固く握手を交わす。これから先に待つであろう未来に不安と希望を見出しながら、俺は自分の心がいつの間にか満たされているのに気がついた。
自分が何を欲しているのかすら分からない、からっぽの空き缶人間。そんな己との、これが本当の決別だった。
空き缶人間アンドロイドを殺す 了
空き缶人間アンドロイドを殺す まじりモコ @maziri-moco
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