夏の匂いがした
西木 草成
特に、何か考えているわけでもなく。
ぽっかりと何かがそこにあったように、白く虚空の空間がある部屋に立ち上るタバコの白い煙が、まるで線香のように細く窓の外に広がる青い空へと吸い込まれるように消えて行った。
木造のアパートの二階、大きく息を吸いこめばテレピンやペトロールの油絵具のひどい匂いが鼻を突き刺し、白い息とともに軽くむせながら自嘲するように喉の奥から無理やり笑い声を出そうとする。
「十連休とか......糞食らえ」
2019年、平成が終わり時代は新しい元号へと移り変わった。しかし、何かが変わった実感など何も無く。相変わらず、全く売れもしない絵を書き、そしてまともな生き方ができない自分を恥じて、バイト先の同僚に茶化されながらへこへこと頭を下げることしかできない。
何にも変わらない、何も変えられなかった。
ぼんやりとした頭で、タバコの煙が頭に回って来るのと同時にスマートフォンのアラームが鳴った音が聞こえた。喉の奥から嗚咽にも似た声を出しながら気だるそうに、画材に埋もれたスマートフォンを掘り出しホーム画面の表示を見れば、バイト先の店長からシフト変更により急遽出勤をして欲しいと言う内容だった。
「本当.....糞食らえ」
ゴールデンウィークの十連休の最後。結局、絵を一枚も完成させることなく惰眠を貪り現実逃避の汗を流して過ごしていた。
「.....何なんだろうな、俺の人生」
おもむろに立ち上がり、押入れの中へ。そこから取り出した一冊雑誌を取り出し煙を吐き出しながら、白く曇るそれをぼんやりとみる。ぼやけたそれは、しばらく見ていなかった優しい頃の記憶に違いない。
何かを描けば、そばで誰かが褒めてくれた。
そもそも、誰かに褒められたくて描いていた。
一度も、誰にも認められなかった自分が死なずにここまで生きることができたのは、単にこの瞬間のためだった。
しかし、蓋を開けてしまえば。そんなものはただのまやかしで、薬とか、タバコをやっている時の瞬間にあまり変わりがないことに気づいたのは、今までそばにいてくれた彼女が愛想を尽かして出て行った時だった。そんなことを、0.1秒で気付けるような事実を、彼女を失うことで気づいたのだ。
「.....ふぅ......」
いい加減、愛想を尽かしたこの世界とお別れしようかと、鴨居ぶら下げたロープを眺めて口からダダ漏れる白い息を睨みつける。
ここで、首を吊ったら。少なくとも、誰かに注目されるだろうか?
と、考えたところで首を振った。すでに、外は夕日の明かりが差し込みスマートフォンの通知の音がさらに激しさを増した。
救いなんか、あるものか。
この苦しみを、後明日。後十年、後数十年と背負ってゆくのだ。
どうしようもない、エゴを抱えて生きてゆく。それが人間なのだと、いうことをすでに自分はわかっているではないか。
タンスの中から、気まぐれで入った服屋で『春先まで着れる服』と推されて買ったシャツを一枚羽織、開けていた窓を閉める。それと同時に、鴨居にぶら下げていたロープを地面に下ろし、手の届きそうな場所に放り投げた。
「世話になったな」
手に持った雑誌をゴミ箱に放り込み、テーブルの上においた部屋の鍵を手にとる。その下に置いてあった桜色の便箋に一瞬、手を伸ばしそうになって。指先が触れそうになった瞬間で、手を引いた。
玄関先、春先の服を身に纏いながら。
どこか、夏の匂いがした。
夏の匂いがした 西木 草成 @nisikisousei
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