シー
スヴェータ
シー
町外れの森。僕はそこで野草を調査していた。しかし、そろそろ帰ろうかというところで天気が急変。横殴りの雨に襲われた。側の川にスケッチブックを落としたり、足を滑らせて転んだり。随分ボロボロになったが、とにかく歩いた。しばらく闇雲に進むと、ようやく小屋のようなものを見つけた。
乱暴に戸を叩く。明かりはついているから、誰かいるはず。しばらくすると、若い女が慌てて出て来た。そして見るなり中へと迎え入れ、ふかふかのタオルをくれた。どうやら優しい人らしい。僕はホッとして、女の促すままに濡れて重くなった上着も渡した。
その小屋は喫茶店のようだった。カウンター式の机には「メニューはシーのみ」という注意書きがある。僕はそれを眺めながらゴシゴシと頭を拭いた。
「あなた、軍の人?」
女がこちらを見向きもせずに尋ねる。背を向けてかき混ぜているのはおそらく唯一のメニュー、シー。良い香りが温かさを想像させ、雨ですっかり冷え切った僕は、それを口にできることをちょっと期待した。
「ねえ、どうなの?」
「あ、いえ。僕は植物を研究している者で。軍の人間ではありません」
「そう……。ねえ、シーを食べる?冷えたでしょう?」
「ええ、ぜひ。おいしそうな匂いがしていたので、とても気になっていたんです」
女は少し高いところの棚から木の器を取り出し、たっぷりとシーをよそう。ふわりと湯気が立ち上るのが見えると、おなかがぐるりと動いた。女が振り向き、スプーンと一緒にシーを置く。すぐさま僕はタオルを横にやり、ひとすくいして口に運んだ。
ごく普通のキャベツスープ。あっさりしていて、複雑で。ほうっと息を吐くと、ほのかな酸味が感じられる。各家庭でちょっと違うのだけれど、ずっと昔から食べているような懐かしい味がした。
「あなた、左利きなのね」
女が頬杖をついて僕を眺めながら言う。
「ええ。それが何か?」
「彼も左利きだったのよ。そしてあなたみたいに猫舌で、ひと口ひと口、とても慎重だったわ」
そう言って微笑む女。思わず微笑み返したが、どこかゾッとした。続きを聞くのは何だか怖かったが、間が持てなかったから質問してみることにした。
「その……彼とは?」
「恋人よ。軍にいたの。でもこの前の戦争から帰って来なくて。約束していたのにね。『帰ったら私の作ったシーを食べる』って」
「それでここにはシーしかないのですか?」
「ええ、そうよ。だって最初に食べてもらうのはシーと決めていたんだもの。それ以外のものを口にされたら台無しよ」
妙に噛み合わない。女の恋人はかわいそうだが、要は戦死したという話ではないか。それなのに約束だの何だの、おかしくなっているように思えた。僕は何だかそれが哀れで、この優しい人をどうにか救えないだろうかと考えた。
「しかし、こんな森の中では寂しいでしょう。町へ戻ってみては?」
「戻れないわ。それに、私はここで探したいの」
「探すとは?」
「彼よ。彼をここで探しているの。良い匂いをさせたくらいじゃ、彼は見つからないみたいだけど」
やっぱり、おかしい。いよいよ確信した僕は、話すのを止めて帰ることにした。シーはたいらげたし、雨も止んだらしい。僕は女にそろそろ帰ると告げ、席を立った。
「あら、お帰りに?でも、あなたも戻れないわよ」
「どういうことですか?」
「だってあなた、シーを食べたじゃない。それに、何だか彼に似ていて。見た目も所作も。だから帰したくないわ」
眉をひそめ、刺激しないよう適当に返事をする。そして小屋を出ようと扉に手をかけた。開かない。僕は女の方を振り向き、開けるよう頼んだ。
「嵐が止んでしまったから開かないわ。そこは嵐にならないと開かないのよ」
「いい加減なことを……」
「いやね。いい加減だなんて。あなたね、私がシーを食べさせなきゃ、今頃無の世界を彷徨っていたかもしれないのよ。それを避けられただけでも感謝してよね」
そう言うと、女はまたシーをかき混ぜ始めた。僕は扉を押したり叩いたりしたが、びくともしない。そしてこんなに動いたのに、僕は汗ひとつかいていなかった。
「さあ、もう最初のひと品の儀式はおしまい。何でもごちそうするから、好きなものを言ってね。あなたも気の毒だと思うけれど、彼が見つかるまで、私の側にいてちょうだい」
僕は状況がさっぱり読めずにいた。しかし何をしてもこの扉は開かないし、汗もかかない。考えあぐねて後頭部に手をやると、べっとりと血がついた。呆然。僕はただただ、血のついた手を眺めることしかできなかった。
ふと女の方を見ると、首元に赤い縄模様があった。ああそうか。あの転んだ時、僕は狭間に迷い込んだんだ。信じられないことだが、そうとしか思えない。そして女が作ったシーを食べた。確信する。僕はもう、戻れない。
小屋中にシーの匂いが漂う。キャベツとスメタナの混ざった甘酸っぱい匂い。僕を死に渡らせた、誘惑の匂い。
シー スヴェータ @sveta_ss
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