番外編
Ⅰ.朝水の入学式
地元を離れてひとり暮らしを始めるというのは、なんというか、こう、上手く言葉にできないけれど、とにかくドキドキする。一般的にこれを不安と呼ぶのだろうか。仮にそうであるならば、自分は今まで不安を感じることなく生きてきたということかもしれない。
——違う。去年の夏に兄に会った時、まさに俺は不安を覚えた。あれとは全くの別物だ。だとすれば、今は緊張とでも言うべきかもしれない。いや、未来への期待としておこうか。
俺、
さらにいうと、兄はどうにも勉強で忙しいらしい。工学部の俺にはあまりよくわからないが、兄は法学部なので弁護士(それか裁判官? 警察官?)になるために、司法試験だかロースクールだかに合格しなければならないみたいで、とにかく勉強しなければならないようだ——というか、大学生って勉強せずに毎日遊びほうけているんじゃないのか?
今晩だってご飯に誘ったら、
「今日は友達と勉強しているから、ごめんね。代わりに明日は入学のお祝いで一緒にご飯食べよう! でも朝水なら入学式で友達とかできるだろうし、懇親会とかそういう流れになったらぼくのことは全然気にしなくていいからね!」
なんて風に帰ってきた。冷たい。兄ちゃん冷たい。やっぱり兄ちゃんにひとり暮らしを認めたのがダメだったんだ。まあ、実家から通うなんて不可能なんだけれど。
そして、そのことをいな穂姉ちゃんに愚痴ったら、「まあまあ、いいじゃない」ってテキトーに流された。彼女は彼女で大学祭以来、ボーカリストとしての活動が忙しいそうだ。あれだけ兄ちゃんと一緒に一生懸命やっていた大学の勉強もおざなりになっているくらいには。後期はフル単もギリギリだったらしいし。
どうにも今の俺には味方がいないらしい。
しかしながら、俺はそんなことで孤独を感じるような暇人ではない。1人は好きだ。気が楽だから。理想を言えば、そもそも大事な人なんて1人もいない方がいいと思っている。
人間は誰だって唯一無二の存在だ。要するにみんな同価値。だったら特定の人を大切にしたり思い入れをするのは無駄だと思う——誰だって大事で大切で掛け替えがなくて、誰だってどうでもよくてありふれていて掛け替えがある存在だから。その時その時で表面的に上手く付き合えばいい。必要な区分は自分か、自分じゃないか。俺にとって掛け替えがないのは基本的には俺だけだ。自分にとって真の意味で価値のある存在は自分だけなんだ。確かに俺にとって兄はこの先どうあがいても「須賀屋昂宗」ただ1人で、両親だってそうだ。その意味では掛け替えがないともいえるが、唯一無二であることは結局のところ他人も同じこと。俺はいつか兄までも振り切って、独りで生きていきたい。
これを別の角度から語るとすれば。例えば、そう。誰かを大切な人にするということは、誰かを失うリスクを負うことで、幸せなんて不幸の前触れ。他者への信頼や期待、そして好意は長期的なリスクマネジメントのできない馬鹿が見る幻想だ。なぜならば、人生の最後は山の麓か谷の底のどちらかであるはずだからだ。人間が幸福を相対的にしか感じられないというのであれば、失うものばかりの人生の最後は、きっと右肩下がりになるはずで、それはたぶん「不幸」なことだ。そうであるならば、幸・不幸の起伏の無い平らな人生を生きることこそ、最適なはずだ。
ひねくれているって思われるだろうか。悲しい生き方だって思うだろうか。そうかもしれない。かもしれないけれど、あんな兄を見て育てば——心の底から誰かに憧れて、誰かに価値基準を全部委ねて、勝手に自分に失望して、自分に価値を見出せなくなった昂宗を見て育てば、誰だって俺みたいになるんじゃないかって思う。まあ、妹は割と素直に育っているけれど。
とにかく、今回兄ちゃんと住めなかったのは自分にとっていいことだったのかもしれない。兄離れの第一歩だ。大学生活も無難にこなして、適当に稼ぎのいい企業に就職して、目標もなくぼんやりと生きていこう。そしてできる限り早く、そして楽に死にたい。俺の人生に意味なんてないのだから。
ベランダに出ると、春みたいな柔らかい風が頬をかすめた。俺はそれを避けながら煙草に火をつける。肺に煙を入れると、案の定、勢いよく咳き込んでしまった。煙草を吸い始めてそろそろ1週間。未だに慣れる気がしない。
次の日の朝、髪型と黒のスーツをしっかり決めて部屋を出た。決まっていないのは眠気が取れない顔だけだ。太陽の眩しさに目を半開きにさせながら大学のキャンパスへと歩き出す。キャンパスは俺の部屋から徒歩10分のところにある。眠気覚ましにはちょうどいい距離だ。到着する頃には完全に目が覚めていた。
キャンパスは賑やかだった。新入生はみな晴れ着で、誰も彼も華やかだ。家を出る前、俺は少々決め過ぎたかと思っていたが、むしろ普通に地味なくらいでちょっと安心する。さらに新入生を歓迎する先輩たちも負けず劣らずの派手なコスプレばかりで、ついには若干困惑する。前評判通り、この大学には変な人が多いらしい。
しかしまあ、俺は賑々しいのは嫌いじゃない。騒がしいのは結構なことだ。退屈よりもずっといい。それに幸せそうな人たちを眺めるのは好きだ。だから、雰囲気を楽しみながら適当に人波に流されていた。途中で何となく会話を交わした男子学生が同じ工学部だったので一緒に入学式の会場まで移動することにした。移動中にも1人、また1人と仲間を吸収していき、気づけば学部なんて関係のないごちゃまぜの一大集団となっていた。
俺と最初の工学部のやつを中心として集まった仲間たちは偶然というか、必然というか、みんなノリのいい奴らばかりで、全員と連絡先を交換してグループを作り、入学式が終わった後にそれぞれの他の友達や先輩、そして何となく周囲にいた学生たちも引き込んで大規模な懇親会を開くことになった。
正直、俺は兄ちゃんとご飯に行きたかったから、懇親会は断ったんだけど、「だったら兄貴もつれてきたら? うちの大学なんでしょ?」と言われてしまい、面倒くさくなってきた。とりあえず顔を出すだけ出して、さっさと帰ることにしようか。
そんなことを思いながら騒がしい集団から少し離れてベンチに座り、賑やかな様子を眺めていた。すると、
「こんにちは」
中学生くらいの女の子が話しかけてきた。小柄とか童顔とかそういうことじゃなくて、どう見ても幼い女の子だ。
「こんにちは。えっと、間違っていたらごめんね。中学生くらいかな?」
「うん。今日から中3」
よかった。これでもし先輩とかだったらどうしようかと思った。
「ということは、お兄ちゃんかお姉ちゃんのお祝いで来たのかな?」
「うん。でも相にぃとふーちゃんとはぐれちゃって」
「そうにぃとふーちゃん」
俺は間抜けな発音を口にしてから、やっと、少なくとも前者が少女の兄を指す言葉だと理解できた。おそらく俺が『昂にぃ』って呼ぶような感じだろう。「ふーちゃん」とは誰のことだろうか。この子の兄の友達か?
「そっか、お兄さんたちとはぐれちゃったんだね」
「でもね、お兄ちゃんを見つけて勝手にこっちに来ちゃっただけだから、はぐれちゃったっていうのは正しくないかも」
そう言って少女は俺のことをジッと見つめた。中学3年生という割には、容姿もそうだが話し方もえらく幼く感じる。「そうなんだ」と相槌を打ってから気が付いた。
「え、俺? 俺になんか用?」
「お兄ちゃんがたっくんに似てたから」
「たっくん?」
「うん。たっくん」
「……」
それってもしかして——と口にしようとした瞬間、
「想那」
いつの間にか大きな影が少女の後ろに立っていた。
「あ、相にぃ」
これが少女の兄か。デカい。ごつい。厳つい。怖い。
「もう、すごく心配したよ」
そう言って少女の手を取ったのは、モデルのような美しい女学生だった。彼女がおそらく「ふーちゃん」だろう。2人とも新入生のようで、真新しい紺のスーツを身にまとっていた。
「ごめんね。でもね聞いて? お兄ちゃん、たっくんに似てる」
今度は少女が、塞がっていない方の手で俺の手を取った。彼女の手は小さく、冷たかった。
「須賀屋先輩?」
「うん」
それから2人は俺の顔を一瞥した。と思ったら二度見した。そして、先ほどの少女と同様、ジッと俺の顔を見つめてくる。「ふーちゃん」もそうだが、よく見れば「相にぃ」も相当の美形だ。五分刈りとスーツでは隠しきれない筋肉質な身体、そして驚くほどの無表情に気を取られて全然気が付かなかった。
「あの、」
視線に耐えられず俺が声をあげると、
「いや、すみません! 少し知り合いに似ていたもので」
女学生が謝ったのと同時に少女の兄も軽く頭を下げた。
「いえ、それは良いんですが、もしかして須賀屋昂宗の知り合いですか?」
「「え」」
女学生と少女の兄は顔を見合わせてから、徐に頷いた。
「須賀屋昂宗は俺の兄貴ですよ」
「ほら! やっぱり!」
そう言いながら少女が抱きついてきた。さすがにびっくりして、俺は彼女を持ち上げ、一旦ベンチに座らせた。するとベンチの上に立って背中に飛びついてきたので、結局おんぶする形で落ち着いた。
「すみません、俺の妹が」
「いえ、元気でいいと思いますよ。それより一旦自己紹介しますね。俺は須賀屋朝水。朝昼晩の『朝』にウォーターの『水』で朝水です。言うまでもなく新入生ですよ。学部は工学部です」
「俺は守詰相志郎です。俺ももちろん新入生で、学部は医学部」
「え、めちゃくちゃ頭いいじゃないですか」
びっくりしてつい言葉を挟んでしまった。しかし、相志郎は無表情を変えずに少し間を持たせてから続けた。
「おんぶしてもらっているのが、俺の妹で想那と言います」
「想那でーす! きらっ☆」
「……すみません、本当に」
「全然大丈夫ですよ」
「わーい! あーちゃんだーい好き!」
ギュッと強く抱き締められて少しバランスを崩しそうになるがなんとか堪えた。にしても、兄ちゃんもこんな風に懐かれているのだろうか。ちょっと見てみたいな。
「想那ちゃんはうちの兄にもこんな感じなんですか?」
「いえ、懐いてはいますが、さすがにここまでではないです。でもそうですね、信じてもらえないかもしれませんが、想那は基本的に人見知りで家族以外はほとんど話せないので。須賀屋君やあなたのお兄さんは、本当に例外ですよ」
俺は不安になって、一旦「人見知り」という言葉の意味をスマホで検索してみた。一応間違っていなかった。よかった。「人見知り」って言葉の意味が変わったのかと思った。
「……想那は置いといて。それで須賀屋先輩とは去年出会いまして、縁あって今も仲良くしてもらっています」
「そうでしたか。それで、その縁っていうのは?」
「それは」
相志郎は横にいる女学生を見た。
「それは私ですね。いな穂先輩ってわかりますか? 朝水君のお兄さんの親友の」
「はい。一応メル友です」
「何それ。面白っ——それはともかく、いな穂先輩が私のバイト先の同僚で、その関係でみんなで一緒に遊んだりしてました。出会って以降、あなたのお兄さんには彼も含めてたくさんお世話になっています」
そういえば、いな穂姉ちゃんから少し聞いた気がする。バイト先の年下の先輩の女の子と仲のいいって。
「もしかして、あなたが噂のふじ乃さんですか」
「ええ!? よくご存じで! そうです、私が菱川ふじ乃です!」
「いな穂姉ちゃんから聞きました。僕っ子だそうで」
「そこまで知ってるの!? めっちゃ恥ずかしい……。いな穂先輩しゃべりすぎでしょ!」
ふじ乃は顔を両手で隠しているが、照れているのはバレバレだ。耳まで真っ赤になっている。
「『僕』は大学では封印するので内緒でお願いします」
俺はもったいないなと思いながらも、
「わかりました」
了承することにした。
「ところで、みんな同い年ですよね? だったら敬語……やめない?」
「そうですね……じゃなかった! もちろん!」
ふじ乃が勢いよく答え、相志郎も頷いた。
「それじゃあ、相志郎、ふじ乃、それと想那ちゃんも。これからよろしく」
「そうだね。朝水君。こちらこそよろしく!」
「朝水。よろしく」
俺は2人と軽く握手をした。
「それで、朝水君もそろそろ入学式の会場の方に行かない?」
「ああ、確かにそろそろいい時間だね……けどごめん、他のやつらと約束してて。ほら、あそこらへんのうるさいやつら」
俺が指さすとこちらに気が付いた連中が嬉しそうに手を振った。構うとこっちに駆け寄ってくるかと思ったが、彼らはこちらを見て足踏みをしている。理由は何となくわかる。相志郎とふじ乃は2人とも、かなり近寄りがたいオーラを放っている。それが一緒にいるのだから、それはもう尋常がない。たぶん、俺もこういう縁がなければ、絶対に知り合うことはなかっただろう。そのくらい2人の雰囲気は特別で、軽薄な俺とは完全に人種が違う。
ただ、これ以上長くいればその場のノリと勢いでその壁も踏み越えてくるだろう。ふじ乃はわからないが、少なくとも相志郎はああいうウェーイな感じのノリは好きじゃなさそうだ。だからここはさっさと切り上げるのが吉のはずで。
「そういうことだから、俺は気にせず先に行ってくれ」
俺は背負っていた想那を下ろした。そしてふじ乃が想那の手を繋いだ。
「うん、そうだね。それじゃあまたね」
「あーちゃん、またね」
ふじ乃は俺の意図を察したようで、軽い挨拶だけで済ませて想那と一緒に先に歩き出した。それに対して、なぜか相志郎は動き出さない。と思えばサッとスマホを操作して、メッセージアプリのQRコードを表示させた画面を見せた。
「連絡先を交換しておかないか?」
正直意外だった。なんとなく、相志郎とふじ乃とは今日が最初で最後だと思っていたからだ。
「もちろん」
俺は驚きをおくびにも出さないで、スムーズにQRコードを読み取り、スタンプを送っておいた。
「ありがとう。また連絡する」
そういう相志郎の表情は、相も変わらず無表情のままである。社交辞令なのだろうか。だったら自分から連絡先を聞く必要はなかっただろう。彼は俺に興味を持ってくれているのだろうか。そう思うとどうしてだろう、嬉しく思ってしまう自分がいた。
「それじゃあ、これからもよろしく。朝水」
俺の返事を聞く前に、かなり前を行ってしまっているふじ乃と想那の方へ走って行ってしまった。
「おいおい、朝水! 今の知り合いなの? 俺にも紹介してくれよ!」
入れ違いでやつらがこっちに来て、俺を質問攻めにする。しかし、全て左から右へと抜けていく。
理由はわからないが、俺の直感が言っている。相志郎は俺の人生におけるかけがえのない親友になるかもしれない。いまの俺はそればっかり考えてしまっていた。
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