たからもの

ニコラウス

死んでから気づくこともある

 迎えが来れば、天国へ。来なければ、地獄へ。


 今日、わしは齢90歳にしてこの世を去ることとなった。ちなみに、死因は寿命による老衰死ではない。


 ――栄養失調じゃった。


 今はこうして最後の審判を受けるために、ひたすらに暗い道を歩き続けているわけだが、一向に着く気配がなく、『前』を向いても、後ろを向いても、右を見ても、左を見ても、上を見ても、何もない。


 唯一下のみ、砂利道になっているのがわかる程度で、これが不思議なことに『前』以外を見ると下も見えなくなってしまう。なので、進む方向は分かるが、結局目的地に着かないようではそれも何の意味があるのかもわからない。


 ――こうして暗い道をただ一人で歩いていると、思い出したくなくても、現世での記憶を辿ってしまうのぅ。


 情けない話だが、先月妻を亡くしてからは何をする気も起きず、食事は偏ったものになっていた。仕事一筋だったわしは妻に辛く当たることも少なくなかった。


 掃除に洗濯、料理と家事全般は一度たりとも行わず、妻に丸投げしていた。極め付けは、二人で買い物に出かけた際、妻がわしの手を握ろうとしてきたのを払い除けてしまったことだろう。 

 自分勝手な言い草にはなるが、あの時の悲しそうな妻の顔を思い出したくはない。――そんなわしのことを妻は間違いなく疎ましく思っていた。


 そんな生前の行いを辿っていると、目の前に扉が現れた。突然な出来事にびっくりはしたものの、誰に教えてもらうでもなく理解できた。


 審判の時がきたのだ。


 その扉は妻と買った一軒家の玄関ドアによく似ていた。――忘れとったが、あの家は妻が気に入って買うことを決めたんじゃったぁ。

 

 それにしても、『扉の大きさによって生前にどれだけ良い行いをしたかが分かる』そんな話を聞いたことはあったが、本当のようだ。わしの存在はこの程度のものだった……そういうことか。


 「扉をあけよ」――どこからともなく声が聞こえた。


 胸の鼓動が高鳴るのを感じる。


 特に思うことはなかった。当然の結果だ。ドアを開けた先には誰もない。誰が迎えに来ることもない。わしは生前も一人だった。死んでも一人。何も変わりはない。


 扉を開けると暗闇が広がっていて、足元の視界が消えると、地獄に落ちていく、それがわしの人生の終着駅。それで、いい。


 「妻のためにと思って、楽させてたくて……一生懸命働いていたつもりが、気付くと仕事に飲まれておった。『妻のために』から『妻のせいで』になって、結局妻が旅立ってから気付くとは、馬鹿なやつじゃ」


 冷たい頬を涙が伝わるのを感じる。――後悔はここじゃなくても出来る。先に進むかのぉ。


 覚悟を決めて、一見冷たそうな鉄製のドアノブに手をかけると、どこか懐かしいような、心が安らぐような温もりを感じた。


 ドアノブを回すと自分の家のドアノブであることが、はっきりとわかった。手首を捻るときの重み、擦れるときの金属音、扉を引くときに立て付けが悪く、ちょっと引っかかる感じ。それらは、紛れもなく、我が家の扉だった。 


 ゆっくりと扉を開けると、その先には妻が立っていた。その光景を前に、さっきとは違う温かみのある涙が頬を伝るのを感じた。


 もう二度とわしを家で待っている妻の姿を見ることはないと思っていた。それに何よりも、迎えに来るとは思っていなかった。


 「いい大人が泣かないの。どうせ迎えなんて来るわけないとか考えてたんでしょう」


 「なぜじゃ。なぜいる!?」激しく動揺するわしに妻が話を続けた。


 「なぜって、当然じゃないですか。私はあなたに生涯を誓ったお嫁さんなんですから……」


 妻が何を言っているのかまったくわからなかった。


 ――なぜじゃ。死んで気でも狂ったか。


 「死んで気でも狂ったか?とか考えてます?」


 ――まさか、心がよまれてるんじゃろうか。


 「心なんてよんでませんよ。ばかねぇ。死んでも変わらないのね。あなたは」

 わしが何も答えずに黙っていると妻は話を続けた。


 「覚えていますか?今開けてきた扉」


 「覚えているも何もあれは自宅の玄関扉じゃろ」


 「そうですよ。その扉は私たちの家の扉です。私が神様にお願いして、その扉にしてもらいました。なんせ、まだ収入が少なかったあなたが、私が気に入ったと言ったら、無理してローン組んで買ってくれた大きなプレゼントでしたし、何よりも二人の思い出がたくさん詰まった家の扉ですから」


 そんな妻の言葉を聞いて、一緒になってからの苦楽を思い出した。わしが原因で子供が出来なかったわしら夫婦にとって、何よりも大切な宝物だったはずなのに、死んでから思い出し、後悔していた。

 そんなわしとは違って、妻は覚えていた。きっと、一時たりとも忘れたことなんてない。――今更妻の気持ちがわかるようになった。


 「わしゃは……わしはぁ……すまん!本当にすまなかったぁ!」遂にわしはその場で泣き崩れてしまった。そんなわしを妻は起こしながら、話を続けた。

 

 「いいからですよ。いいですからほら立って。今までのあなたのままいてください。亭主関白で自分勝手で、少しも素直じゃない子供みたいな貴方に私は惚れたんですから。」


 「すまんのぅ。わしは本当にお前と一緒になれて……」ここからわしは言葉を発することは出来ず、ただ首を縦に振り、頷くことしかできなかった。


 優しく微笑む妻に支えられながら、天国につくまでの間、わしは妻の手を固く握って離すことはなかった。

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たからもの ニコラウス @SantaClaus226

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