第20話 そして
ぷつり、差し込み口にストローを突き刺す。ストローと紙パックの隙間から、ぷくうと、着色料由来の出来すぎたピンク色がはみ出てくる。
真っ白いストローを唇で挟み、吸いこむ。白いストローの下からぐんぐんとピンクが伸びてきて、それは唇の奥へと消えていく。
嚥下。喉が動いて、その甘い液体は食道を伝って胃に堕ちる。……。
みるみると消費されていくイチゴミルクを見て、一体これらにはどれくらいの量の砂糖が含まれているのだろうと思うとぞっとする。
「――で、まあ、とりあえずひと段落と」
「……そう、ですね」
新たに一つの空容器を生み出した諏訪部先生は、僕の話を聞き終えると「ふうん」と興味あるんだか無いんだか分からない態度で、ソファにその小さな身体を沈めた。
「まあ上出来じゃねーの。その通り、自殺問題なんて解決しようがないんだから、その上で良くまとめたと思うよ」
「はあ……」
「……どうしたんだよ、浮かない顔して。このお礼のイチゴミルク十パックセットで金欠だから、とかは認めないぞ」
「そんなじゃないですよ。それも大した金額じゃないですし」
「じゃあ、いろりのことか」
「分かってるじゃないですか……」
「分かっていてとぼけるのが大人だよ」
いまいち意味は分からなかったけれど「はあ」と頷いておく。
「あれからいろりさんは、…………あまり変わった様子もなく、ただまあ、死にたいとは言わなくなりました。だけれど僕は、いろりさんにとても残酷な道を進ませようとしてるんじゃないかと思って」
「ふうん」
諏訪部先生はすぐさま空になった紙パックをゴミ箱に頬って、もう一本に手を付ける。
僕が諏訪部先生に持ってきたイチゴミルクは、残り四つになっていた。
「僕はいろりさんに死んで欲しくないし、あの時はそれが正しいことだと思いました。……だけれど時間が経つたびに、あまりにも無責任なことを言ってしまったと、そう思う気持ちが強くなっていくんですよ」
「まあ、そうだろうな」
諏訪部先生は僕の言葉をあっさり肯定した。
だけれど変に気を遣ったり慰めたりするでもないその切れ味のよさは、どこか心地よかった。
「無責任だし、お前は今後のいろりの人生のサポートはできても、やっぱりその苦しみを背負ってやることはできないよ」
「……はい」
「でも勘違いするな、お前は無責任なことを言っただけだ。残酷な提案をしただけだ。命令をしたわけじゃないんだよ」
「……言っただけ?」
「そう。提案だな。こうしてみたらどうだろう。お前はそう言っただけだ。それに対していろりが首を縦に振っただけ。お前はいろりの人生を変えてしまったと思ってるかもしれんが、あいつが自分で変えただけだよ」
「でも……僕にも責任の一旦はあります」
「そう、一旦はある。だからその一旦分の責任を背負えよ。その一旦分の役目を果たせよ。お前は全部背負いこもうとしてるように見えるけどな?」
「…………」
諏訪部先生は、いつだって僕の心を見透かしたように喋る。いや、見透かしているのだろう。このニヤニヤした顔の前に、僕は毎回言葉を失ってしまう。
いや――諏訪部先生だけじゃない。
この先生と、表面は全く違って根本はそっくりな人がもう一人――。
「後輩君はさあ、もっと気楽でいいと思うよ? 気楽に、お昼寝して、空でも見上げて。悩んで悩んで悩んで寝れない夜を過ごしても、ぼおんやりしていていつのまにか寝ちゃっても、同じ一日なんだから」
「……十時さん」
十時さんが部室に寝袋を持ち込んだのはつい数日前のことだ。最近では屋上ではなく、部室で寝袋に収まっていることの方が多くなっていた。どうしてかは知らない。聞いてもきっと訳の分からない返事が帰って来ることが予測されるから、聞いてもいない。
今日も今日とで部室の隅で芋虫のように蠢いていた。
「まあ中には悩んでる方が良いって人もいるだろうけど。でも後輩君は、もっと人生を楽観視した方が良いと思うけどな」
ちなみにだけれど、十時さんにも諏訪部先生と同じイチゴミルクセットを渡してある。「わたしはキンキンに冷えてるのが好きなの」との事で、今は冷蔵庫で冷やしてある。
「その通りです……。でも、分かってはいる、分かってはいるんですけど…………」
「後輩君は『蛙の尻尾』という言葉を知ってる?」
「……はっ?」突然意味不明なことを言われ、指向が停止する。「もう一度、お願いしてもいいですか?」
「蛙の尻尾。聞いたことある?」
「…………ない、ですけど」
「あたりまえだよ。わたしが今考えた言葉なんだから」
あははははっ。ちっとも面白くないのに、いろりさんは嬉しそうに声を出して笑った。
「意味はね、身体は成長してるのに心が成長しきれてない人のこと。ほら、オタマジャクシって蛙に進化する途中で尻尾が無くなっちゃうでしょ。でも尻尾のある蛙。進化しきれてない蛙ってこと」
「……はあ」
それっぽい。ちょっと感心してしまった。なるほど、確かに意味は分からなくもない。
しかし十時さんがなぜ突然自作の慣用句を披露して来たのか、その意味はさっぱりだった。
「つまりなにが言いたんです?」
「つまりだね、後輩君」こほん、わざとらしく咳払いを一つ。「君たちがどっちも尻尾の生えた蛙なんだよ。自分の世界で閉じこもってた後輩ちゃんも、自分の優しさや本音をかたくなに認められなかった後輩君も」
「……ちょっと待ってください、十時さんは僕たちの事情を知っているんですか?」
「部長だから」
……なるほどお。
「そんなアダルトチルドレンである君たちだけど、今は成長期に入ってるんだよ。尻尾の生えた蛙は、自分の尻尾を失くそうと頑張ってる時期。その悩みは成長痛。だから必要以上に悩むことは無いけど、悩んでることを悩む必要はないよ」
「……ちょっと遠回りな説明でしたけど、よく分かりました。ありがとうございます」
「うん」
満足げに、十時さんはにっこり頷いた。
最後の方の言葉だけで説明には事足りていたから、思いついた「蛙の尻尾」という言葉を使いたかっただけなのではないかという疑念はあったけれど。
「蛙の尻尾……いいね、これ」
案の定だったけれど。
「それでさ、後輩男子。わたしずっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
「結局後輩ちゃんとはどうなったの? ちゅーくらいはしたのよね?」
「……してないです」
「……えー、なんでしてないよ」十時さんは唇をと尖らせてブーイング。「意気地なしーチキン野郎」
「なんでそこまで言われなくちゃいけないんですか……」
それは、否定できないけれど。
でも結局、僕はいろりさんとは付き合ってはいないのだ。
いろりさんは僕に告白っぽいことをしたし。
僕はいろりさんに好意があることを伝えたけれど。
しかしそれでも僕たちは恋愛関係にはないのだった。
……改めて考えると随分と奇妙な状況だな。
もしかしたら付き合うことになるかもしれない。もしかしたらいろりさんが僕に好意を寄せていたのは気の迷いで、すぐにあのことは無かったことになるかもしれない。そうなってしまうならそれでいいと思う。
「いや全然よくないよ。叶わない恋はすべからく間違っているわ」
「……僕の心が読めるんですか?」
「そこそこね。いいかい少年。『あの子が幸せならそれでいい』みたいなのはフィクションだから。負け犬の強がりでしかないのよ」
「……はあ」
「男なら『俺が幸せにしてやるよ!』くらいのこと言わないと」
「どうも、そう言う男らしさが僕には掛けてるみたいで……」
「まあそれもお前の良さではあると思うがな」そう言葉を挟んできたのは諏訪部先生だった。「よく言えばお人よし、悪く言えば主体性が掛けている。あたしはそう言うの嫌いじゃないぞ」
「……ありがとうございます」
「うん。まあ天文部は部内恋愛禁止だけどな」
「あれ、胡桃ちゃん。わたしのそんなの初めて聞いたよ?」
「今決めた。あたしより先に人生充実させるなんて許す訳ないだろ」
「わー横暴。でもわたしは二人を応援しちゃおうかな」
そう言う腐った根性がダメなんじゃないだろうか。
それを口に出す勇気は僕にはないのだけれど。
欲を言えば、そりゃあいろりさんと恋仲にはなりたいけれど。
でもそれは、今じゃなくていいと思う。
これはチキンとか奥手とかそう言うのじゃなくて。
僕たちはまだ互いのことを知らないのだ。そして互い意外の人間を良く知らないのだ。そしてもっと言えば自分も知らない。何も知らないのだ。
知らなければ、選びようがない。僕たちは選ばなければならない。自分が思っているよりももっと開かれた世界を知って、そしてその上で選ばなければならないのだ。
だから僕にできるのは、そして選んでもらえるように努力をすることだ。
僕たちは、まだまだ青春が足りないのだ。
「応援なんて必要ないですよ」
「えっ、なに。そんなの無くても十分ラブラブですよってこと?
にやにやと笑いながら、十時さんが言う。
それと対照的に怖いカオをしながら、「ふん」と諏訪部先生が鼻を鳴らした。
「違うに決まってるじゃないですか……。十時さんの応援なんて、絶対冷やかしかヤジにしかならないですもん」
「えーひっどーい。本当のことを言ってわたしを悲しませたー」
「本当のことなら自己責任でしょう……」
と、その時だった。
とんとんとんと、いくつかの足音が階段を上ってくる音。ここには屋上と天文部室しかないのだから、そこに来る人間なんて限られるのだ。
「後輩ちゃんとそのお友達たち、来たみたいだわ。わざわざ誤りに来るなんて、そんなことしなくていいのにね」
「ああ。二幹をビンタしたことなんて謝らなくていいのにな」
「……それ、他人に言われると複雑なんですけど」
「えっ、二幹くんビンタされたの?」
「……まあ、ちょっと」
「えーずるい。胡桃ちゃんは見てたの?」
「ばっちし」
「ずるー。どうしよう、わたしの目の前でもう一度やってもらおうかな」
「多分冗談じゃないですよね、それ」
足音が近づいてきて、大きくなって、止まった。
僕たち三人は吸い寄せられるようにドアノブを見つめた。
ガチャリ。ノブが回って、ゆっくりと扉が開かれる。
いろりさんが入って来るなり、「彼女さんの登場だぞー」と十時さんが冷やかしたのは言うまでもないだろう。
死にたい彼女はかえるのしっぽ ヤマナシミドリ/ 月見山緑 @mousen-moss
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