ガンダムという虹《ウイニング・ザ・レインボー》

北川エイジ

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 アニメ新世紀宣言というと俺は新聞報道で知ったので体験談としては報道体験になります。


 その記事は〈マニアたちの集い〉という文脈で表層的に現象を伝えるのみで、宣言の紹介はもとより、ガンダムの物語にすら触れない内容でした(新聞が物語に触れるようになるのはもっと先、80年代後半まで待たなくてはなりません)。これは当時の基準からすれば至ってふつうの感覚です。


 一般的にはガンダムというものの存在は、当時ある程度の市民権を得ていたヤマトや999とは一線を画した扱いだったのです。

 若い方の中にはアニメ新世紀宣言(以下ASS)について、ヤマト/999~ガンダム初回放送~映画化決定~ASSのような流れで捉え、中にはある種の誘導のままそこにオタク文化の潮流を見い出す方もいると思います。

 違うのです。

 当時ガンダムはどこにも属さない“異質なもの”だったのです。なぜなら……あからさまに言ってしまえば旧来の枠を越えるイノベーションだったから(プラモデルは文字通り流行りのモノという扱いになります)。


 いや、想像すれば確かに東京では局所的にカルチャーとしての本物のムーブメントであったのかもしれません。そうであってほしい幸福なストーリーです。


 でも全体的にはそうではなく、分かる人には分かる、という秘めた楽しみ方でガンダムの高いドラマ性やイノベーティブな部分は世の中に存在していたのです(この点を知っている人はたくさんいました。表向き口にはしませんが)。


 存在を黙認されていた、と言った方が正確かもしれません。

 この背景には社会的地位の恐ろしい低さがあり、それゆえの表現の高い自由度というおなじみの仕組みがあります。そこに時代の求心力が集約していたと歴史目線からは記述できると思います。


 そしてもうひとつ、イノベーションを許さない世の中の空気がこの時期の背景にあります。その空気を打ち破ることができたのはサブカルのみでした。この面の評価はもう何十年か掛かるのでしょうが、ガンダムの幅広い支持は切実な時代の要請の元に発生していたのです。


 ここで重要なのは作品としてのガンダムも現象としてのガンダムも、相手にしていたのは「一般の人たち」であったということです。突き放す物言いが許されるのだとしたら、普遍性を得てブームとなったいちばんの理由はこれです。冷徹な物言いが許されるのだとしたらヤマト/999もあしたのジョー2も、核にあるのはこの概念です。

 アニメがアニメファンに向けて作られるようになるのはマクロスからなんです(散々いろんなところで言及されてきて今さらドヤ顔で述べることでもありませんが)。


 こうした視点から言うと、

当時ガンダムを知っている俺でさえ、ASSについては違和感を抱いたものです。

 誰に向けてやってるイベントなの?と。マニアを相手にするのがガンダムでしたっけ?と。この辺は俺の勘違いであってほしいです。できれば“時代”に向けたものであってほしいです。


 歴史の中のひとつの重要なエポックとなったのは最近ですよ。解釈としてその位置付けは理解できますが、何となく当時の空振り感、無意味感を、実体のあるムーブメントにすり替えられたような気がして釈然としない感じがありますね。さながら当時はふつうのバイクだった機種を旧車と呼んで高い値を付ける行為のように(旧車文化をすっ飛ばしてビジネスに走るって意味です)。


……というわけで、みなさま。この釈然としない感じをどなたか打破していただきたく思います。


「そうではない、局所的とはいえ、それは紛れもなく本物のムーブメントだったのだ」と。


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ガンダムという虹《ウイニング・ザ・レインボー》 北川エイジ @kitagawa333

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