ある男は夢に倒れる

カリカリ―。鉛筆と紙が擦れる音が心地よい。外からは鳥のさえずり、電車の走る音がBGMのように聞こえる。


朝はこれだからいい。


俺はあらかた女性の輪郭、風景の構図を書き終えると背伸びをして椅子から立ち上がった。環境は万全。しかし、絵の完成には程遠い。描いても描いても、上手に描けない。何枚のキャンバスを壁に投げ捨てたか、分からない。


画材入れを閉じ、ふと目に入ったネームプレートを隠すように布を被せる。

この名前は今や画家としての自分を示すものと化してしまった。いつからだろう、自分の名前を嫌いになったのは。


ため息を吐きながら携帯を見る。そこには絵を描いている最中には気が付かなかった有明さんからのメールが溜まっていた。おおかた展覧会用の作品完成の催促だろう。


有明さんは俺が今使っているアトリエの代表者だ。


俺の作品は有明さんのアトリエ「walking philosopher《歩く哲学者》」の作品として出してもらっている。


その彼から、やはり展覧会用の作品完成の催促メールが来ていた。ここ最近、何度もこのメールが送られてくる。この時の対処法は知っている。


『もう少しで完成するのでもう少し待ってください。あと、追加の画材の件よろしくお願いします』


メールを送り、携帯の電源を切る。この対処法はアトリエの同棲の先輩から教えてもらった。


正直、作品は完成している。死ぬ気になって描き終えた。正直、俺は売れていた。俺の絵に金を出す客も多くない。ファンが望む『俺の絵らしさ』をただただつぎ込んだ。だが、今ここで画材の供給を止めてもらっては困る。

有明さんから頼まれた展示用の作品の合間をぬって書いている「本当の自分の絵」を完成させることが出来なくなってしまう。


俺は『俺らしい』絵が嫌いだ。最初は自分の方向性が決まった事に歓喜していたが、その代わりに俺からは自由が奪われる。いつからか、俺が描いている絵は『自分の絵』なのか『ファンが望んだ絵』なのか分からなくなってしまった。だから、俺は今書きたい『彼女』の絵を描こうと思い、筆を執ったのだ。しかし、何かが足りなかった。何かが……。


手を洗い、着いた鉛筆の汚れを消す。台所へ向かい冷蔵庫を開けた。市販のコーヒーと惣菜パンを取り出しシンクで食べる。執拗しつこいコーヒーの苦い風味を惣菜パンの塩気で消していく。やはり、安いコーヒーは不味いなと思い、コーヒーサーバーを買おうと考えたが、


「でも金がないや」


と一言。一人きりの早朝のアトリエの台所に孤独が溶ける。


確かに俺は売れっ子でようやく作品に値がつき始めたが、その収益の大半は有明さんへのアトリエの利用代と画材代に飛んでしまう。残るのは食費にあてられるか、あてられないかの瀬戸際ほどのお金だけ。


今だって、有明さん所有の寮に入れてもらえているおかげで衣食住に困っていない。

大学生の俺には贅沢は出来ない。それが現状。


朝食を食べ終わり、絵の元へ戻ろうとした時、突然目の前が揺らめき始めた。最近、根を詰めすぎたか、と思いながら、そのままバランスを崩し俺は床に倒れる。俺は『彼女』の絵を完成させるために深夜も筆を走らせたが納得がいかなくて、徹夜が続いていた。我を通すには辛苦を飲むしかないと言うのか……。俺は失意と悔しさを心に抱きながら、倒れた床の冷たさに身を任せて、気を失った。

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