第4話
北野さんと出会ってから、足の爪を切るたびに北野さんを思い出すし、足の爪を切るときは必ず店番の最中にすると決めている。足の爪を切りたいと閉店中に思ったりすると、僕は台所のカラーボックスの前に行き、適当に一冊引き抜いて奥付に走り書きされた北野さんの感想を読むことにしていて、昨日もそうして本を手に取り、『異邦人』の奥付の余白に書かれた「太陽は暑いに決まっている、ママンはまだ死んでない」という文を読んだ。その『異邦人』を帳場の目立つ場所に置き、明日これを見れば足の爪を切らなければいけないことを思い出すだろうと思い、そして実際、今日帳場でその本を見て僕は爪を切ることを思い出し、お昼を食べ終わった後に足の爪を切り始めた。
爪を切ることと北野さんが来店することが僕の中ではしっかり繋がっていて、足の爪を切るのに集中していたら突然目の前に北野さんが立っているんじゃないかとどうしても考えてしまう。
そのたびに、「北野さんが東京にいることは分かってるけど、そういうことじゃなくて」と僕は僕によく言っている。
北野さんとまた会えたら「梅雨が明けて高校の解体が始まった」とか「まだカラーボックスには本を残してある」とか話したいことを考えようとするけれど、ずっと前から僕は集中して足の爪を切ることはできなくなっていて、店の前の道を車が通っただけでも気になってすぐ顔を上げてしまうし、つい今も、郵便配達のバイクが店の前に停まるのを見ていて、それより前からバイクの音は聞こえていたから、もうすぐ郵便配達が来るだろうと思って爪を切るのを中断してさえいた。
爪切りを机に置き、立ち上がって郵便物を受け取る。
「ご苦労様です」と言い、バイクが去って行くのを見送ってから郵便物をひとつずつ確認する。知り合いが参加するイベントのチラシがあったり、遠方の同業者からの目録があったりする中に、見慣れない文字で宛名が書かれた角3号の封筒があった。
カッターで封を切ると、三〇枚ほどの紙の束と一筆箋が見え、先に一筆箋だけを取り出して見ると、やっぱり見慣れない文字が並んでいる。
「友達もできました。」
「読んだ本がちゃんと役に立ってます。」
目に入った文章の断片だけでも、それが北野さんの文章だと分かって、僕は改めて「お久しぶりです」から始まる北野さんの手書きの文章を読んだ。そうすると、見慣れない文字だったのが急に本の奥付に書いてあった北野さんの感想の文字と一致した。
封筒の中には北野さんが書いた『初恋』の物語が入っていることも分かった。
一筆箋を端に寄せ、封筒から慎重に紙の束を抜くと、表紙には『初恋』とシンプルなタイトルが印字されていて、店を閉めてからじっくり読もうかと思ったけれど、どうせ客は来ないだろうし、「すぐに読んでみようか」とわざと声に出した。
急いで台所へ行き、念入りに手を洗う。タオルでしっかりと手を拭い、帳場に戻って深呼吸をした。
椅子に座り、端に寄せていた一筆箋をもう一度読み返す。
「初恋を冷静になってまとめるまでに時間が掛かってしまいましたが、読んでもらえると嬉しいです。」
最後の一文を読み直し、僕は目の前の原稿に手を伸ばした。
―――北野さんは 了
北野さんは 伊藤 @itokencan
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