第2話

 年度が変わってもいじめは続いているらしかった。

 物を隠されたりとか壊されたりとか、お金をせびられたりとかはなく、ずっと無視されているだけなので授業を受けていれば気にならないと言っていた。それでも行きたくないと思うことも多いようで、学校に行きたくないと思ったら駅でバスを見送り、北野さんは歩いて店までやって来る。

 ただ、雨が降っていると歩いて店まで来るのが面倒なのか、バスに乗って学校へ行っているようだった。

 いつだったか近所の人に「あの子は登校拒否なの?」と訊かれたとき「さぁ、お客さんのことを詮索するのもねぇ」と遠ざけた。

 北野さんはうちで弁当を食べた後、そのまま台所で小説を読むようになった。

 大学に行きたいと言っていた北野さんは文学部を志望するらしく「読んでおいた方が良い小説ってありますか?」と僕に訊いたことがあって「とりあえず、知ってるタイトルの本を全部読んでいけば?」と助言をしたのだけれど、北野さんはちゃんとそれを実行し、一冊読み終えるとそのあとがきを書いている作家の本を買ったり、テレビのクイズ番組で問題になっていた作家の本を探したり、時々僕にお薦めの本を尋ねたりして、目的の本が店になければ新刊書店で買ってきて読んでいた。

 本を読んでいる北野さんは真剣そのもので、ちゃんと読んで行く。文字を読むときに口が動いて、文字を音としてもちゃんと捉えていて、加えて感受性も高かった。あるとき僕が台所に入ると北野さんが泣いていて「どうしたの?」と訊くと「このいろんな色のシャツに埋もれるところがすごい良くて」と『華麗なるギャツビー』について説明してくれた。


 北野さんは台所という場所を得て、長時間滞在するようになった。それまでは他の生徒の帰宅時間よりも前に帰っていたけれど、その時間を台所に潜んでやり過ごした。

 月曜と水曜は塾が休みなのか、北野さんは夕方まで台所にいた。僕は北野さんのために文庫用のカラーボックスを台所に置き、北野さんは読んだ本を順次そこへ納めて行った。

「こんなバラバラな読み方で良いんですかね」と北野さんは背表紙を眺めながら言い、僕は「最初は質より量だよ」と答えた。

「卒業までに何冊いけますかね」

「これ、最後どうするの?」と訊くと「このお店に売る予定です」と言った。その口調がとても冷静で、僕は北野さんを少し尊敬した。

 私生活のことなど、僕からは何も訊かなかったので、勉強ができるのか、スポーツができるのか、家族構成や住んでいる場所など、北野さんのことはよく知らない。僕が知っているのは読んだ本に関する感想だけで、古本屋としては十分な情報だと思う。あまり響かなかった本の感想は短いことが多く、「男ってバカなの?」と『谷間の百合』を読んだ後に言い、「変態」だと田山花袋の『布団』を読んで言った。『カモメのジョナサン』は「友達になれない」、『海辺のカフカ』は「半端なファンタジー」、梶井基次郎は「薄暗いファンタジー」と言った。古井由吉はちょっと好きそうだったけれど、感想を尋ねると「湿度が高い」とだけ随分考えた後に言い、心に響いた本でも感想が短いときもあるのだと知れた。


「もうあんまり来れなくなるかも」と言ったのは、北野さんが店に来て二度目の夏休みを迎えた頃で、「塾での受験勉強が忙しくなる」と付け足した。

「それは、寂しくなるね」と素直に言うと、北野さんも「ですね」と同意してくれた。

 実際に北野さんが店に来る回数は減り、二学期が始まると月曜と水曜に来ていたのが月曜だけになり、台所でも本を読むのではなく勉強をしていることが多くなったけれど、北野さんの本が並ぶカラーボックスには時折本が追加されていたので、読書は続いているらしかった。

 受験勉強はいじめにも影響し、他の生徒たちも勉強をし始めてわざわざ北野さんをいじめることもなくなったと教えてくれた。

「無視しなくなったからって、喋りかけられるわけじゃなくて、誰とも会話はしてないんですけど」と笑いながら北野さんが言った時があって、それを上手く言葉にできないまま「過度に嫌がられない……感じ」と言っていた。

「つまんない?」と僕が試しに訊くと「ちょっと張り合いがなくなった」と北野さんは笑った。


 十二月のある日、北野さんは来店するとそのまま帳場を抜けて台所に鞄を置き、戻って来ると棚を眺め始めた。

「何か読みたい」と呟いて、北野さんはツルゲーネフの『はつ恋』を手に取った。

「読んでなかったっけ?」と尋ねると「前に読みたいって思ったときお店になくて」と財布から百円玉を出しながら言った。

「面白いですか?」

「読んでおくなら、若いうちかもね」と面白いかどうかは答えなかった。

 いつも通り北野さんは台所で本を読み、僕は帳場でネット注文分の本を袋詰めしていた。

 その日も北野さんはずっと台所にいた。

 七時が過ぎ、いつもなら帰る準備をする北野さんは『はつ恋』を持って帳場に来ると「初恋って憶えてます?」と訊いて来た。

「そんな本を読ますんじゃなかったかな」と言う僕の言葉には反応せず「話はちょっとアレですけど、みんなで初恋を披露しあうとか面白そうですよね」と北野さんは笑った。

「話はちょっとアレ」と言った『アレ』が気になったけれど、僕は北野さんを見て「披露したいの?」と訊いた。

「私は別に、披露したいって言うより、聞いてみたいです」

 北野さんは少し間を置いて「じゃあ、これから夕飯を買ってくるので、戻って来るまでに思い出しておいてください」と強引に話を進めた。

「家に帰りなよ」と言うと「今日は大丈夫です。さっき親に『友達と夕飯食べて来る』って伝えたので」と返って来て「もうここで食べる気満々じゃん」と応えると「何食べます? 料理は無理なんで何も作れないんですけど、お弁当とか買ってきますよ。私のおごりで良いです」と北野さんは淀みなく言った。

「えっと、どこから何を言えば良いのか分かんないけど」

「だから、私がお弁当を買ってくるあいだに、初恋を思い出しておいてくださいね」と北野さんは言い、店の外へと出て行った。

 弁当を買うためには駅まで行くことになるし、帰って来ても閉店時間までは時間があるからそれまでどうするのだろうと僕は考え始めていて、気がつけば北野さんの言うとおりに頭を働かせていた。

「初恋ねぇ」と呟いてみたものの、人に聞かせるような初恋は思い浮かばない。

 考え始めると仕事どころじゃなくなり、店内をぐるぐると歩きながら昔を思い出した。


 北野さんは予想通りの時間で戻って来て「寒い寒い」と言いながら店のヒーターに手をかざして暖をとり始めた。

「何買ってきたの?」と訊くと「焼肉弁当」と言った後「何が良いのか分からなかったんで、お父さんが好きなのにしました」と言った。

 ビニール袋を開けると他にもサラダが別に買ってあり、「食後のおやつ」と称してプリンがふたつ入っていた。

 僕は閉店時間を早め、シャッターを閉めたりするあいだに北野さんには夕飯の準備を台所でしてもらった。

 店内の明りが一瞬だけ弱くなり、北野さんが電子レンジを使ったのが分かった。


「いただきます」と言ったすぐに、北野さんは「で、初恋の話は?」と言って僕を見た。

 僕はもう少し落ち着いてから話し始めたかったけれど、北野さんを見ると何を言っても無駄そうだったので話し始めることにした。

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