北野さんは

伊藤

第1話

 北野さんはこの古本屋の数少ない常連で、店の前の道をのぼって丁字路を右に折れ、山間の集落へ繋がるトンネルの手前にある県立高校に通っている。

 一昨年の夏に僕が帳場で足の爪を切っていると、いつの間にか本を一冊持って目の前に立っていた。

「ごめんなさい」と言うと、北野さんは「足の爪って気がついたら伸びてますよね」と、女子高生にしては会話慣れしたような返事をした。

 普段の女子高生の会話がどんなものかは分からないけれど、これまで入店して来た女子高生と会話した経験から、四〇を過ぎた男と女子高生は会話が成り立ち難いことは分かっていた。

 北野さんとの最初の会話で女子高生だと判断するのは難しかったけれど、着ていた制服から、道の先の高校に通っているのだとすぐに分かった。

「こんな時間まで学校?」

 夜の九時を過ぎていた。日本海に面する小さな港町では、ほとんどの店がもう閉まっている。

「いじめですよ」

 帳場に置いた『アルケミスト』の文庫は薄く、日に焼けて小口が変色していた。

「一〇〇円です」

 北野さんが財布を取り出しているあいだに「する方? それともされる方?」と訊くと「何がですか?」と訊き返されたので「いじめ」と補足した。

「される方っぽいです」

「確かじゃないんだ」

 文庫本の横に百円玉を置いた北野さんは、僕が本を袋に入れるのを見ながら頷いた。

「そこに、廃病院あるじゃないですか」

 店の前の道をのぼった先の丁字路を左に折れると廃病院がある。

 大正初期までは近くの山から銀が採れ、そこで働く坑夫や、銀を出荷するためにこの町の港も使われていてそれなりに人がいた。宿場町でもあったから、いまでも江戸期の建物が残っていたりするし、老舗旅館の建物が有形文化財として残っていたりする。病院は明治後期に建てられ、銀鉱山が水害で廃坑になってから急速に人は減ったけれど、病院はそのまま残っていた。この地域では一番大きな病院だったし、戦後には大先生と町の人たちが呼ぶ名医もいた。

 僕が東京から戻って来た十五年前に、病院は隣町に移転し、建物だけが残った。

 それなりの歴史がある病院も北野さんにとってはただの廃病院で、友達と肝試しをする場所らしかった。

「待ち合わせしてたんですけど、ぜんぜん来なくて、二時間くらい待ってたんですけど」と、北野さんは友達に肝試しに誘われ、病院前に一人で立ち続けていたことを教えてくれた。

 肝試しをするのに夜の七時頃に待ち合わせをするのは可愛らしいなと思ったけれど、最終電車に間に合わせることを考えると妥当な時間かもしれない。

「お店って何時までやってるんですか?」

 買った本を鞄に入れながら北野さんが言った。

「だいたい一〇時頃かな……奥が家だし、店を閉めてもここで仕事してるから、開けようと思えば寝る前まで開けられるんだけどね」

 そう言ってすぐ、営業時間だけを伝えた方がスマートだったと思う。

「定休日とかあるんですか?」

「火曜日が休み。それ以外は朝の一〇時くらいから」

 その後は「気をつけてね」とかの会話を交わし、北野さんが帰って僕は閉店の準備を始めた。


 それから数日して、北野さんは昼間にやって来た。平日なのに私服だったから理由を聞くと、前回来た日で一学期は終わっていたらしく、あの日は終業式だった。

 その日の北野さんは『O・ヘンリ短編集』と『ポケットに名言を』を買った。


 夏休みのあいだ週に二回程度、北野さんは来店した。

 会話をすることもあれば、本を買ってすぐに帰って行くこともあった。近隣の町に古本屋は他にないし、学校の近くで寄り易いのだろうと思う。家の場所を尋ねるのは気が引けたので「学校も無いのに来るのお金掛かるでしょ」と訊くと「六か月定期なんです」と教えてくれた。

 会った最初に「いじめ」と聞いていたので、部活や友達のことを僕から訊くことはなかったけれど、会話の途中でそういった話になることもあった。部活は帰宅部で、通っている塾に友達がいるおかげで学校でのいざこざはそんなに気にならないと言っていた。

 それでも「お薦めの本ってありますか?」とか「このあいだテレビでやってた映画が良かった」とか、学校以外の話題から北野さんは話し始めた。

 だから僕も「ドストエフスキーは読んだ?」とか応えて、大人らしく「若いうちにたくさん読んでおきなね」だとか付け加えながら、学校の話にならないよう北野さんと会話をしていた。北野さんが本棚を見ているとき、僕から話し掛けることはなかった。


 二学期が始まると北野さんの来店頻度はあがった。来店時間も昼頃になり、学校をさぼっているのはすぐ分かった。

 北野さんは大変だと思う。

 北野さんが通っている学校は数年前に廃校になることが決まり、廃校が決まって最後の入学生が北野さんたちで、北野さんたちに後輩はいない。廃校が決まるくらいだから生徒の数も少なく、今の三年生が卒業してしまえば北野さんたちだけになってしまう。

 地域との交流が盛んで、文化祭や体育祭などは町の人たちも出入りが自由だし、店に来る近所の人たちは高校がなくなることを本当に悲しんでいて、道で男子高校生とおばあちゃんが楽しそうに会話をしているのを僕も見たことがある。

 そういうのは良い面とも言えるけれど、北野さんの立場を思うと厳しい面も多いだろうなとついつい考えてしまう。

 百人未満の集まりの中でいじめにあうのは、程度や深刻さに関わらず、学校に行きたくないだろうなと思う。


 あるとき、午前中のうちから店に来ていた北野さんが「お願いがあるんですけど」とかしこまって言うので「どうした?」となるべく気負わずに言うと「ここでお弁当食べても良いですか?」と言ってきた。

 鞄から手作りの弁当を取り出して「お母さんが作ってくれるんですけど、外で食べるのはもうちょっと寒くて」と困った顔をしている。

 それまで外で弁当を食べていたことを知って急に僕は涙が出そうになった。

 北野さんの事情を思って泣きそうになったというより、『女子高生が外でひとり弁当を食べている姿』という画像が強くて、もし僕が見知らぬ町で少し離れたところにひとりで弁当を食べている女子高生を見つけたら、それだけで泣いてしまうと思う。女子高生が幸せそうに食べていても泣けると思う。

「ちょっと待ってね」と僕は言い、ここ数年誰も上げていない台所へ行き、片付けるのには二日かかると諦めて、テーブルの上を簡単に拭いて帳場に戻った。

「汚いけど、奥の台所でどうぞ」と言って案内する。

 北野さんが台所にいるのがとても不思議だったけれど、僕は気にしないふりをしてお湯を沸かし始めた。

「お茶、いる?」

「水筒持ってきてるんで大丈夫です」と北野さんが答え「じゃあ僕は店の方でカップラーメン食べてるから、適当に必要なものがあったら使って良いよ」と僕は戸棚からカップラーメンを取り出しながら言った。

「すみません、ご迷惑ですよね」と北野さんが頭を下げる。

「こっちこそ、普段ちゃんと片づけとかしないと駄目だよね」と言った。

 弁当を食べ終えた北野さんが店に戻って来ると「お店が塩ラーメンのにおいする」と笑った。

 その日から次の店休日にかけて僕は台所を掃除した。

 次に北野さんが来店したときも弁当を奥で食べたいと言ってきて、綺麗になった台所を見て北野さんが笑った。

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