第3話

「保育園か、小学校の一年くらいのとき」と始めると「何年前です?」と北野さんが訊くので「四〇年近く前」と答えたのだけれど、その年数に改めて驚く。

「親に連れられて、どこかの体育館みたいなところに行ったんだけど、なんでか、ひとりで隣の公園で遊んでたんだよね」

 僕は曖昧な記憶を辿り、なるべく詳しく話そうと思うのだけれど、正確な場所も、どういった公園なのかも全然思い出せなかった。

「公園にはそんなに人がいなかったと思うんだけど、ひとりで砂場で山を作ってて」

 四〇年も前のことになると北野さんとの環境の違いが気になるけれど、たぶん公園は昔も今もそれほど変わらないだろうと思う。

「広い公園だったと思うんだけど、小さい頃の記憶だし、今もし見に行けたら小さく感じるのかな」と付け加えると、北野さんは「このあいだ久しぶりに小学校の横を通ったら、運動場が狭くてびっくりしました」と、サラダを食べながら言った。

「こうやってね」と身振りを加え、しゃがみ込んで砂山にトンネルを掘っている格好を再現して「気づいたら横に女の子が立ってたの」と言うと「オバケとかじゃないですよね?」と北野さんが訊いた。

「違う……と思うよ。うん、大丈夫」

「それが初恋の人ですか?」

「気が早いね……まぁ、そういうことなんだけど」と僕は答え「初恋って言って良いのか分かんないけど、ずっと憶えてるんだよね」と北野さんに伝えた。

「『何してんの?』とか言われたと思うんだけど、そこらへんはもう全然憶えてない」

 北野さんはご飯をのりで包みながら話を聞いている。

 僕も弁当を食べながら話しているから途切れ途切れになるのだけれど、僕が食べているあいだに北野さんが質問をしてきて、僕はそれに頷くか首を振るかで答え、それからまた続きを話した。

「気がついたら一緒に遊んでて……憶えてるのは、その山のトンネルの向こうから女の子が水を流して、山のこっちの水路を二手に分けてね……どっちに流れるか見てたり」

「どっちに流れたんですか?」

「そんな細かいことはさすがに憶えてないよ……あぁ、でも女の子が右側にいたのかな。ふたりでしゃがんで、木の棒とかを立てたりして、水で流されたりして」

 自分が何を忘れて何を憶えているのかを確認しながら、久しぶりに思い浮かべた光景は青空だった。本当に青空かどうかは分からないけれど、青空であれば良いなと思った。

「それから、公園の端で石を積み上げたり」

「よく憶えてますね」

「ね……女の子の方がちょっと年上だったと思うんだよね。なんとなくお姉さんな感じがして、僕よりも器用で、慎重で、石を積み上げるのも上手だった」

「女の子の服装とかは?」

「憶えてないなぁ」

 髪型も、服装も、顔の作りだって何も憶えていないけれど、幼い僕の前にあの『お姉ちゃん』はいた。

「でも、僕が石を持って行くと『こっちの方が平べったいよ』とかって、交換してくれたのをすごい憶えてるな」

「嬉しかったんですかね」

「そうなんだろうね……僕はひとりっ子で、親戚とかも遠くにいて滅多に会えなかったし、そうやって女の子と遊ぶこともなかったからね」

 北野さんは僕より食べ進んでいる。

「それから、あの木のアスレチック……三角の山形になってて、ロープが垂れ下がってて、ロープを掴んでのぼる、遊具あるじゃない」

「あの反対側がネットみたいになってたりするやつですよね」

「うん……反対側はどうなってたのかな」

「憶えてないんですか?」

「そう、それをね、そのお姉ちゃんが先にのぼって行って、僕が追い付こうとのぼってるときに、お姉ちゃんが家族に呼ばれたんだよね」

 僕は山の中腹にいて、お姉ちゃんは家族に呼ばれてすぐ山を駆け下りて行った。

「僕の横をさっと下りて行って……振り返るともうお母さんとお父さんの近くまで行ってて」

 北野さんは弁当を食べ終わり、箸をおいて手を合わせた。

「『じゃあね』って、手を振って」

 その光景はずっと忘れないでいる。

「初恋の思い出はこれだけ……僕は、遊んでるあいだ、ぜんぜん喋らなかったんだよね。こっちが何か言う前に『あれで遊ぼう』とか『向こう行こう』とか言って、ほんと付いて行くだけだった」

 付いて行くのに必死で、でもそれが全然嫌じゃなかったと思う。

「なんか、もっと愛とか恋とかの話かと思ってました」

「そういうのが良かった?」

「どうだろ、予想外だったけど、こういうのも良いと思います」

「ありがと……恋愛経験は豊富じゃないからね、急にドロッとした話も嫌でしょ」

「でも、ちょっと逃げられたかなとも思います」

「そうねぇ、初恋って言われても、聞かせるような話はなかなか、ね」

 僕が遅れて弁当を食べ終わり「お茶が良い? それともコーヒーとかにする?」と訊くと「コーヒーを」と北野さんが立ち上がりながら言った。

 僕がコーヒーを作っているあいだに北野さんは弁当の容器を水洗いし、それからテーブルの上のビニール袋を開けてプリンを取り出した。

「その女の子とは、それきりなんですか?」

「どこの子かも、名前も何も知らないからね」

 僕は北野さんの前にコーヒーを置き、僕の分は手に持ったまま椅子に座った。

「時間はまだ大丈夫?」

 時計を見た北野さんは「大丈夫です」と答え「じゃあ、次は北野さんの番だね」と僕が言うと「あ、帰らなきゃ」とわざとらしく言った。

「言い出しっぺが逃げちゃ駄目でしょ」と笑うと、北野さんは難しい顔をした。

「例えばですけど、小説みたいに、書いて来るとかって駄目ですか?」

「……そっちの方がハードルあがると思うけど」

「そっか……そうですよね」

 ふたり同時にプリンの蓋を開ける。久しぶりにプリンを食べる。

「初恋って、何だろ」

 北野さんが呟き、僕は「ね」とだけ同意する。

 ぽつぽつと会話を交わしてプリンを食べ終え、僕は「北野さんの初恋は今度聞かせてもらうよ」と帰るのを促した。

「駅まで送ろうか?」と訊くと「大丈夫です」と北野さんは言い、帰る準備を始めた。


 シャッターを開けて外に出る。駅の方は明りが見えるけれど、高校のある山の方は真っ黒で、その上の雲の方が明るかった。

「気をつけてね」と声を掛けると、北野さんは「はい」と言い「また来ます」と歩き始めた。

 何となくそのまま北野さんの背中を見続けていると、先の街灯の下で北野さんが振り返り、僕は手を振った。お辞儀でもするかなと思ったら、北野さんも小さく手を振った。



 何の確証も無く、もう来ないかなと思っていると、センター試験が終わってから二日続けて北野さんは店に来た。

 センター試験はそれなりにできたと自慢し、今度受験で東京へ行くと言い、大学に行ったら友達ができるだろうかと心配していたので「友達なんて作ろうと思わなくていいよ」と伝えた。

「好きなことしてれば、勝手に同じ趣味の人とかが集まってたりするから」と言ったけれど、北野さんが納得しているのかは分からなかった。


 三月の半ば、北野さんは「東京の大学に行きます」と伝えに来てくれた。

「おめでとう」と言うと「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。

「今日は親の車で来たんです」と北野さんは言ったのだけれど、両親の姿は見えなかった。

 北野さんは「ちょっと離れたところで待っててもらってるんです」と言い「お店に来てくれれば良いのに」と僕が言うと「恥ずかしいので」と北野さんは笑った。

「そうだ」と僕は北野さんの注意をひき「あの本はどうする? 売るんだったら査定してお金払うよ」と続けると「寄付します」と北野さんは言った。

「最後のページとかに私が感想書いたりしてるので、売り物にならないんだったら捨てちゃって良いです」

「分かった、ありがとうね」

「こちらこそ、ありがとうございます……それじゃあ、もう行きますね」

「大学、楽しんでね」

 僕がそう言うと北野さんは頷いた。

 僕が「じゃあね」と手を振ると、北野さんはまた小さく手を振ってくれた。

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