Sideトト2

 サイレンの音がしてきた。だんだんボリュームも数も増えていく。

「やっとこさ応援が来たか。気を持たせたがる女と良い報せは、いつも遅れてやってくる…」

 くしゃみをしがてらそうつぶやくと、ずんぐりした鳥人の刑事は、ペンギンらしい平べったい掌を胴体に当てて、あるか無きかの腰を伸ばした。

「さて、ワシらはそろそろ元の役目に戻って君を送らねばならんかな。先方もお待ちかねだろう」ブルーノさんの栗色の瞳が緩やかにうねる牛の波を映し、ふむ、と片眉を上げた。「だが、その前にこの家畜をまとめんといかん。おいこら、いつまで踊っているんだ大将、手伝え」

 へえへえ、分かりましたよ。っとに人使い荒ぇんだからなぁと、ぶちぶち文句を言いながら、意外と素直に命令を聞くザンパノさん。さっきは怖い人と思ったけど、やっぱり見かけほどじゃないんだな。

 ブルーノさんが言ったとおり、水色の制服の警察の人たちがちゃんとしたパトカーで大勢やってきた。そして情けない格好のヤクザの人達をそのまま歩かせて大きな車に乗せてっちゃった。護送車ゴソーシャっていうやつだね、あれ。

 そのまま残りの警察の人達は、ザンパノさんとブルーノさんと一緒になって牛達を集めはじめる。

「僕も手伝う!」

 ハーイと高く手を挙げて、僕も参加。師匠の言うことは率先して実行する。カンフーの映画とかでもよくやってる、修行ってやつ?そういうものだもんね!

 とはいっても、オトナの牛は首輪に手が届かなくて、僕には無理だ。だから、ヨチヨチ歩きの子牛を狙って追いかけた。

 カロカロカロン!ベルを鳴らして母牛を探してる、眠そうな目をしたぬいぐるみみたいな子牛。僕はしっかり狙いを定めて高めにジャンプし、背中から相手を抱き止めた。

 んもおお、うももおお───

 子牛は驚いてアスファルトの舗装にひづめを立てる。

「こらこら。暴れちゃダメだぞっ」

 フフフ、こんなに小っちゃいのに僕にかなうわけないだろ!抵抗するだけ無駄なのだ!

 …とか思ってた僕はナメてた。完全に見くびってた。牛だっておとなしいだけの生き物じゃないってことなんだね。

 子牛は想像以上に力が強くて、僕は首の一振りですっ飛ばされてしまう。

「ケケケケケ。バーカ」

 ザンパノさんの低い笑いとつぶやきが聞こえた。ひどくない?

 地面に落ちてグルンと一回転した僕は、コンテナの角に頭をぶつけた。泣きそうなほど痛い!「くぁああああ」と頭を抱えながらなんとか立ち上がる。と、金色の円と目が合った。

 僕の目の高さより少し上にある、金色の大きいペンダントみたいなもの。それは赤い地毛をした山猫系の小柄な男の人の胸元で、太陽を照り返しキラキラしていた。

 その人は僕の落下地点のすぐ近くに、まるで隠れる泥棒のようにしていたので僕は「ひゃっ」と驚いて固まった。むこうも同じくビクッとあとじさる。

 僕はもちろんその人を知らなかった。ノエにいる知り合いはいまのところブルーノさんとザンパノさんだけだったし。

 だけどつい口から「あ、パパのとおんなしっこのメダリオ!」と思ったことが正直に滑り出た。

 するとその人はすごいしかめっ面になり、それから今度は隠していたイタズラがバレたときのような青い顔をして、トンボより早くいなくなってしまった。僕の目には、やけに派手派手しいオレンジ色のスニーカーを履いているのだけが焼き付いて残った。

「オイ餓鬼、手間どらせてねえで大人しくしてろ」離れたところで牛を丸々一頭ひょいと肩に担いでザンパノさんが言う。「こっちゃ遊びレクリエーションでやってんじゃねえんだからな。役立たずは引っ込め」

 そんな言い方ないよ。とか言い返そうと思ったけどやめた。ザンパノさんは確かに役に立ってたから。

 小麦の袋を重ねるように牛をつかまえては担ぎ、担いでは運ぶ。たかだか子牛相手に僕がこんなに苦労してるのに、なんだかズルい気がする。力が強いって、いいよねホント。

 ブルーノさんは牛の角にロープを巻きつけるまでは自分でやって、そのあと倉庫に引いていかせるのは応援の警察の人たちに任せていた。

 ほどなくして…えーと、たぶんトースターでパンを5回焼くぐらいの時間かな?すっかり牛も片付いて、港が港らしくなり、僕はまたザンパノさんの運転するザンパノさんには小すぎる車に乗り込んだ。

 途中で一緒になったカウボーイの格好をした女の人が、やたらテンションが高くて、ザンパノさんにしきりに話しかけてた。それに生返事しまくるザンパノさんはすごくうっとおしそうだった。

 窓の外は溶けたサファイアのような海の色からボウルで泡だてたメレンゲ調のノエの街並みになる。だけど僕の目の裏ではさっきからずっと、あの男の人の胸元で跳ねていた金色の円いものがチカチカしていた。

 パパも胸の内ポケットにいつも金色のメダリオを入れてる。表側には数字と風車が彫ってあって、裏側には女の人の像があるんだ。僕が物心ついて、あるときアームチェアでのんびりしてたパパを驚かせようと後ろから抱きついたとき、そのメダリオが手の中にあるのを発見したんだ。

 あのときパパは何か不思議なことを言ってた気がする。あれ、なんだったっけ?えーと───

 前の座席からぬっと伸びた太い樹の幹のような腕が、僕の頭のすぐ横をバン!と叩いて、ハッと頭を上げる。

「もう着くぞ。おやっさんが話しかけてんのにシカトしてんじゃねえ」

「え、え?鹿と?なに、なんのことザンパノさん?」

 ブルーノさんが、たゆたう深海の水の流れのように「いやな、小さな大将、君はマスタードは食べられるかね?」と尋ねる。

「うん。好き!だいこうぶつ!」

「そうかそうか、結構結構」ペンギン系の小さな肩が上下に揺れてる。笑ってるのかな?「さあどうぞ、これを君にあげよう。昼に食べるといい」

 低い位置から手渡されたのは紙袋だった。開けた中にはまだ温もりのあるサンドイッチ。

「おやっさん、それもともと俺の…」

「そう、この大将がな、きみにくれるそうだよ」

 な?とブルーノさんに促されて黙るハスキー系のおじさんに、ぼくはきちんと「ありがとう、ザンパノさん!」とお礼をして鞄にしまった。

 ハスキー人は「…フン!」と鼻を鳴らし、ペンギン人は空中で文字を書くのかそれとも指揮するかのように指を動かしているのが見える。

 本当に不思議な二人組だなあ。でも、パパの仕事仲間が2人も来てくれるなんて、嬉しいな!

 あのメダリオや男の人のことは考えなくてもいいや。だってあれはパパのじゃないかもしれないもん。うん、きっとそうだ。

 パパのメダリオはちゃんと編み込みの太くてきれいな絹紐で結んであって、懐中時計みたいにしまわれてたし。あの人のはなんかボロっちい革紐で首から下げてただけだったし。よく似てたけど、僕のゴーグルと同じで、どこかで別のメダリアを買ったんじゃないかな。うん、これ、当たってると思う。

 ニョキニョキ生えてる椰子の並木の合間から、まん丸くてオレンジ色のドームがついた、目玉焼きをかぶった一斤の食パンみたいな建物が見えてきた。

 その建物の正面入り口に車を停めて、ザンパノさんは僕を車からぽいって放り出す。乗せるときも降ろすときも丁寧さが無いよね。

「チンタラしねえでついて来い」

 チンタラって、何さ?僕は普通にしてるよ!

 ブルーノさんだけ助手席に置き去りにして、犬人は柄の悪い歩き方でそこに入っていく。僕もちょっとぷんすかしながら、ついて行く。

 普通こういうとき、ここがどこで何をするところなのか説明すると思う。だけどザンパノさんは大きな背中を僕に向けるだけでドシッドシッと花柄アーチの受付の前を通り、ただ前に進む。

 だから自分で周りを観察してみるしかない。この街に来てからというもの、こればっかりな気はするけれど。

 ここは何なんだろう?さっきの受付には優しそうなお団子頭のおばさんがいた。会社じゃなさそう。病院…とも違うかな、床がリノリウムでなくギシギシいう木でできてるもの。

 ましてや警察や役所なんかみたく、大人の人がワイワイしてもいない。っていうか廊下に人がいない。トイレの前を通り過ぎるついでに中を見ると、タイルばりで広くてキレイにしてあった。ただ、小の便器がえらく低い気がする。ここには背の高い人はいないのかな?

 前にいたザンパノさんが急に立ち止まり、僕は固いお尻に「ぶにゃっ」とぶつかってしまう。

 ザンパノさんは青みがかる灰色の瞳から光線を出して僕をこんがり焼いちゃうんじゃないかってぐらい睨んでから、おもむろに立ち止まったポイントのドアを叩いた。

 どうぞいらしてください、とくぐもった男の人の声がする。ハスキー人は「邪魔するぜ」と中に入る。僕もなんとなくその後に続く。

 中にはヒョロリとした金色の目の山羊人のひとと、小太りの茶毛の熊人のひとがいた。2人とも同じような仕立ての背広を着ている。山羊人が涼しそうなネズミ色、熊人は白地にカーキのペイズリーが浮いた主張の激しい(ルビ、うざったい)柄だ。

「やあっははははは!ご足労ありがとさんでございますぅ、レグルス刑事はん!」

 これは熊人。柄と性格が完璧に一致していて、けたたましくて明るいひとみたい。お洒落に切りそろえてある、ピンピンとしたカミナリ型のヒゲが笑うたびに小刻みに震えている。

 ザンパノさんは、おう、まあなと応えて僕を前に押し出した。

「ほぉほぉやぁやぁふむふむふむふむ、この子がサルバトーレ=コルレオーニ君やね?やあ、はじめまして!私はオロス=ドストミヤ、この学校の校長やねん。よろしくやね!」

 なれなれしい笑いをふりまきながら、熊人はハッカのキャンディーの匂いをプンプンさせて早口でしゃべり、僕の手を握りブンブン振る。

「ほでな、このひょろっこい兄さんが、しばらくの間君を預かるヒダイオ=チグノー先生や」と、山羊人の男の人と僕を無理やり握手させる。「音楽と国語と社会の担当をしてくれてはる、我が校きってのイケメンや。と言っても男はとこの先生しかいてへんですけどな、やははは!」

 チグノーという頭の良さげな響きの名前の先生はザンパノさんより少しおじさんかもしれない。けど目元が細くてかすれるような声で校長先生に「寒い冗談で空気を凍らせないでくださいますか?刑事さんも困ってらっしゃいますよ」と言うのが、なんとなく若いようでもある。

「んじゃあ、これで用は済んだんだよな。俺が後でこいつを迎えにくる。それまで頼んだぜ」

「いやはは、すみませんねえ、あとも一人おりますよって、もちぃーと(ここで何かをつまむみたいに指を動かした)待っててもろうてもええですやろか?」

 校長はそう言いつつも両方の掌を合わせ、しきりにキュッキュと揉み手をしている。訛りといい変にへりくだる態度といい、なんだか商人みたいな先生だなあ。

 ザンパノさんの導火線は「待って」の一言で火がついたみたい。僕にも犬人の横っ面に血管が浮き出るビキッという音が聞こえた。

「おい、待つってな正気か?俺達ゃ殺人事件の捜査を」

 ズッバーン!!

 凄まじい音がして全員振り向いた。

 ドアのところにゼイゼイと息を切らした巨大な洋梨が、びよんぶよんと揺れている。ううん、たっぷり水を飲んだ雌鶏のように太った兎人の女の人だった。(こんなこと考えてごめんなさい、パパ!)

「サーリチェ先生、貴女はいつも走っていらっしゃいますね」チグノー先生の糸目がより細くなる。呆れてはいるけれど遅刻に怒ってはいないみたい。そんな表情。「服の前がはしたなくなっていますよ。無用心な…」

「あっ、えっ、ほんの少し支度に手間がかかってしまいまして、きょほほほほほ」

 胸が大きいせいで外れたブラウスの前ボタンをとめつつ、頭をもたげて言い訳し、その女の人はさらにゲホゲホむせた。吐息が爆発するようなその咳で、白い煙幕みたいなものがあたりに漂う。キラキラ宙に舞うのは、なんとつけすぎたファンデーションだった。

 僕はいままで生きてきて1番驚いた───っていうか、もうここまでいくとホラーだよ。

 なんて化粧の濃い人だろう!いや、この人はセンスが悪いんだ。口紅も瞼も頬も色がちぐはぐで、サーカスのピエロが少しだけ普通に近づいた、みたいな顔になってるよ!

「あたくしはカナエ。カナエ=サーリチェ。サリーでいいわよ」

 人懐こい笑顔。だけど、人を食べちゃったみたいな唇まわりと、殴られたパンダみたいな浅紫色をした目元に気圧される。

「お」ばけ、とかおばさんとか言わなくてよかった。もうほんとに、前歯の裏まで出かかったよ。「おはようございます。僕はサルバトーレ=コルレオー二です。はじめまして」

「着いたばかりで悪いんだけど、今日はちょうど総合習熟度テストの日なのよね。あなたも皆と一緒に受けてもらうんだけど、一枚写真取るから待ってて…エホエホッ」

 全国一斉小学生習熟度テスト───NEPT。そういえばそろそろそんな季節だったっけ。半年に一回、国中の子供が受ける、学力と体力とあと心理こころのなかの度合いを図るテストだ。高い点数を取ったからって何が偉いわけでもない。ただ、もらえる特別なバッジは嬉しい。銀色で飾り石がついてるんだよ。

 サーリチェ先生はワンピースの裾をたくし上げて、どこからともなく出したデジカメで適当に僕を撮る。

「これはすぐ学校のコンピュータを通じてテストを統括する協会本部に送られるから、もうこのままでいいのよ。手続きはおしまい!便利よね、最近のネットワークは」

 ザンパノさんはこのやりとりの間じゅう、イライラした様子で唇を噛み、こまぬいたぶっとい腕を何度も組み直していた。

 そして山羊人が退室を促す。「じゃあ2人とも、早く教室に行きなさい。もうとっくに一時間めを始めなければいけない刻限だ」そして自分が先に出て行った。

 僕を、あずかる?夕方までかな、ていうか、ここは学校だったのかあ。どうりで静かなわけだよ、時間から言って、もう授業中なんだし。

 パパにはいつ会えるんだろう?それだけは、聞いておかなきゃ。

「あの、ザンパノさ───」

「お前に一つだけ言っておく」

 ハスキー人の人差し指、ヤスリをかけてないマナー違反な尖る鉤爪が、僕の小さな胸に食い込む。

「問題を起こすな」



 せっかく信じはじめたのに、また振り出しに戻ったみたいな気分で僕はザンパノさんと別れた。

「あのねえ、コルレオーニ君、さっきのあのハスキー系の人は、あなたのお父様なのかしら?」

 兎人の先生から出し抜けに尋ねられて、僕は違うよ!と頭を強く振る。

「あら、それじゃあコルレオーニ君のご親戚か何かなのかしら?」

 サーリチェ先生が歩くと廊下がキィィ!と悲鳴を上げてたわむ。重さだけならザンパノさん以上にあるのかも。そしたらゲジゲジ眉毛の意地悪い顔つきが思い出されて、またムカムカがぶり返してきた。

「ザンパノさんのことなら、あの人、パパの…」ちょっと迷う。「知り合いです」こっちが正しいかな。親友、ってパパは言ってたけど、親友の子供にこんなに冷たくするなんて、なんだかやっぱり少し変だもの。

「警察のかた、って伺ったけど?」

 サーリチェ先生は、ミサに出て別のことをいつも考えてる聖歌隊の女の子みたいな、わざとらしくマジメぶった表情で、目を合わさずに言う。僕は、頷く。

「じゃあ、じゃあね。あのかたは、ザンパノさんは、独身ひとりみでいらっしゃるの?」

 ヒトリミ?火とリミ?

 こちらがボヤっとしていると、言い回しが僕にはまだ難しかったのかと思い直したらしく「奥さんはいらっしゃるのかしら?」と言葉を変えた。

 曲がり角。階段だ。四年生の教室は、上なんだな。

「わかりません。たぶん、いなさそう」

 建物は三階だてになっているらしく、ちょうど質問への解答と階段の一段めに乗せた右足が重なる。

 静かになったので見上げると、先生は唇がほっぺたまで裂けるんじゃないのというくらいニンマリと笑い、よくゴールが決まったサッカー選手なんかがする「よっし!」の構えで握りこぶしを振り抜いていた。

「サリー先生?」

「え?あら、きょほほほほほ!ちょっと思い出したことがあってね、ううん、なんでもないのよ?そうね、あなたが大人になったらわかる問題についてね。やっぱり女の子の幸せっていうのは、頼りになるダンナさまと慎ましいながらも幸せな家庭を築いていくことだと個人的に私は思っていてね、そのためには相手の職業柄も安定していればなお良いし、といってもそれだけじゃなくて芸能人みたいに浅はかな結婚にならないためにもまずはお互いのことをきちんと把握しておく必要があると思うのね。これはまあ当然よね?まあそんなこと、まだあなたには早いでしょうけれどもね。女の子も24歳を過ぎるとそれはそれは喉から手が出て本音っていう怪物が這い出すくらい『結婚』の2文字が常に頭のここいらへん(とおデコを指して)につきまとうわけなのね。まあこんなことはそのうちあなたもわかってくることでしょうね。とにかくザンパノさんには優しい良い先生だったってあなたが言ってくれるよう先生も頑張るわね」

「先生、先生」

「なあに?まだ適齢期の女の子についてのレクチャーが欲しいの?」

 そんなもの、欲しくないよ。結婚なんてまだずーっと、ずーっとずーっと先のことだもん。

「先生がようするに結婚したがってることはわかりました。四年生の教室、行きすぎちゃってます」

「あらいっけない、あたしったら!」

 きょほほほ、と照れ笑いをしながらもときた廊下を戻る。

 4年はひとクラスだけらしい。そのドアをノックなしに開く。と、先程までデパートのおもちゃ売り場みたいに賑やかだった教室がしんと静まり返った。

 まずサリー先生が教壇に登り、続いて僕がその横に並ぶ。30人と少しぐらいの子たちが、やや崩れてはいるけど1人用の机で列を作っている。

 うわ、みんな上目遣いでこっちを見てるぞ…なんか、やりづらいなあ…

「おはようございます、四年一組の皆さん。本日は転校生の子を紹介しますね。サルバトーレ=コルレオーニ君です。さあ、貴方も自己紹介をしてちょうだい」

 心臓から目が飛び出した。じゃない、目から心臓が飛び出したのかと思った。

「はあぁ!?転校生!?」

「そうよ?あなたがー、うちにー、転校してきた子でしょう?」

 僕は頭が真っ白になった。

 なんだこれ、なにそれ、僕そんなの聞いてないよ、ウソでしょ!?

 それにパパは、パパが前もって教えてくれるはずだよ、そんな重大なことをぼくに黙ってるわけないし。急に転校するなんてありっこない!

 パパ、どうして来ないの!?

 教室の木の床が砂地になって飲み込まれていくような気分だった。僕はせかされるままに「トルーキオから来ました、サルバトーレ=コルレオーニです…」と蚊の鳴くような声で名前だけ言い、ひたすら無心に、ニコニコ顔の兎人が長い耳で指す席へついた。その間も、みんなの横眼が痛い。

「さてみなさん、おとついの続きから始めましょう。暖かい場所においておくと、水の量が少し増えるのは、なぜでしょうか?分かる人はいる?」

 ハイ!ハイハイ!ハーイ!みんな元気に、こぞって手を挙げる。そうか、これ理科の時間なんだ。体積の話なら前期の終わりにやったよ。それより、転校って…

 肘をツンツンつつかれて、僕は左のほうを見た。テリア系の犬人で顎のがっしりした眼鏡の女の子が、意思の強さの表れたカラスムギのような眉の間にシワを寄せてる。やー、すっごい天然パーマのロングヘア!

「ほら、次当たるのキミだよ。この列が順繰りにきてるんだから。教科書、あるの?」

「ううん…ない」

「じゃああたしの貸したげるから。ホラ。サリー先生は転校生だからって容赦しないよ」

 机と机の谷間を超えて伸ばされた、若草色のワンピースの袖。ページの端がヨレヨレの、手垢まみれの教科書を渡された瞬間、「はぁい良くできました。では続きを、サルバドーレ君!」と兎人が叫んだ。

 僕は射ち出されたロボットみたいにびよよんと立ち上がる。ページを飛ばしていくけど、どこを読んでいいのか分からない。

「78ページ、四行目から」

 そっとつぶやく犬人の女の子の横顔にありがとうをして、僕はそこを読んだ。

「はい、これノートに使いなよ」

 席につくとその子がルーズリーフを分けてくれた。今度もお礼を言う。他の子は誰も僕と目を合わせないのに、親切な子だなあ。

「助かるよ。えーと、君の名前は?」

「トドラだよ。トドラ=プロゲナム」

 じゃあトドラって呼んでいいかな?ん、別にいいよ…と小声で交わす会話を、真後ろからやけに太い声で囃したてられた。

「あー!ガーリーの奴が転校生ナンパしてるぞお。やだー、やーらしー!Hー!」

 獅子人の子だ。地毛は黄茶で、タテガミはもっと濃くて黒に近い茶色。ふてぶてしい四角い眉、ぐりぐりと動くドングリまなこ。机に足をかけて行儀悪く椅子に踏ん反り返って、ニヤニヤしている。

「転校生ー、ガーリーがお前んことぞお。気をつけろー」

「ガーリー?」

「こいつ、すっげえメガネしてんだろ。ガリ勉ぽいから、ガーリー。うるさいんだぞぅ、アレしろコレするなってさ」

「だまれバカラウロ!」

 ガーリーと呼ばれたトドラがこめかみに大きく青筋を浮かせて、グーパンチを獅子人の子の頬に命中させた。

「痛ってーな何すんだよ!」

「うるさいのはあんたよこのガキ!ひとに親切にするののなにが悪いってぇの!?」

「るっせこの、どブス!デぇぇぇブ!!」

「あんたに言われたくない!ブクブクした腐りかけのマンボウみたいなお腹のくせに、脳みそ昆虫並みのバカラウロ!」

「な、な、な、なんだよお前なんか、お前なんかメガネデブのくせに!!」

「ちょっと2人とも、ケンカはダメだよ!」

 止めに入ろうとした僕は、なぜかラウ ロという子とトドラの両方から「外野は口を挟まない!!」って怒鳴られた……えええ?なんでぇ!?

 それからはもう、しっちゃかめっちゃかだった。トドラはめったやたらにノートで叩きにかかるし、ラウロは筆箱で応戦。サリー先生は「あらあら元気ねえ」と取り合わない。それどころか、それどころか!

「きょほほほほほ…では2人は放っておいて、その文章から予想される実験とその結果を皆さん考えてみてくださいね」

 って、そのまま授業続行。

 な………なんなの、この学校……………!?



「“喧嘩は放置主義すておけ他人ひとの殴り合いに口出すな”っていうのが、このあたりじゃ常識あたりまえなのよ」

 休み時間。トドラはラウロを叩きのめしてベコベコにし、息を整えボサボサになった黒髪をほぐしながら僕にそう教えてくれる。

「だからね、さっきのキミみたいに止めに入るのは、かえってルール違反。どっちに対しても失礼ってわけ。刃物とか危ないものを持ち出さない限り、大人も子供も腕っ節で話をつける、それがノエ流なのよ。覚えておきなね」

「でも…きみは女の子だし、ラウロは男の子だし、それっていいの?」

 はえ?いいってなにが?と犬人の女の子は顎を落とす。

「だから、女の子を男の子がいじめちゃ、ダメでしょ?悪いことだよね?」

 あはーあ、そんなことか!とテリア人は髪をドレッドに編み始めた。「そんなんおあいこでしょ。女が男をいじめるのは良いことなの?」ニヤリと笑う。この子、なんだかすごい迫力だなあ…

「いや…ちがう、と思う…けど」

「あたしたちみーんなノエっ子なんだもの。ケンカだってなんだって男女平等よ。そんなこと気にするなんて、キミ、変わってるね!」

 えええー?そうなのかなあ!?

 だって、パパはこの街で生まれ育ってトルーキオに移り住んだって聞いてるけど、そのパパなら絶対僕に女の子とケンカはさせないよ。変なのはこのあたりの子たちのほうなんじゃないのかなあ…

「それよりキミ。バカラウロに目を付けられてるみたいだから、気をつけてね」

 トドラが僕の後ろでジットリとした視線を送ってくるラウルを顎で示した。

「あいつ縄張り意識激しいからね。もしかしたらイチャモンつけてくるかもしれないよ」

「イチャモン…え、でも僕なんにも悪いことしてないけど」

「だぁーかーらぁ、そーゆー理屈じゃないんだってば。あーあ、そんなんじゃこれから先苦労するんじゃないかなあ、キミは」

 ま、自分のことだから自力でがんばんな!と肩を叩かれた。 まるで男みたいに気風のいい女の子だなあ。

 何を心配されているのかもわからず僕はもう一度ラウルを振り向く。獅子人はさっきよりも険しい眉間で僕達を…違うな、僕を見てる。

 もう、なんなんだよこれ?

 次の時間からはようやく全国習熟度テストが始まった。まずはマークシートの問題を三枚渡されて、立方体の折り紙みたいなのとかナゾナゾみたいなのとかを解いて、ペーパーテストは50分で終了。

 それから体育館に移る。今度は体力測定だ。他のみんなはスウェットとかジャージとか動きやすい短パンとかに着替えてるけど、僕はそのまんまだ。気にならない、気にしない!

 反復横跳び、垂直飛び、柔軟性、筋力、50m走、動体視力どーたいしりょくの測定。

 ここいらへん、僕は手を抜かずにいつもどおりにがんばった。いつまでも落ち込んでるのは僕の性格じゃないし、今のこの状況は、きっとパパの計画が何かの間違いとか行き違いでおかしなことになってるんだと、その確信があったから、頭に余計なものを詰め込まないで体を動かせたんだ。

 と、垂直飛びで1.5mをマークした僕を「おおおっ」というどよめきが包んだんだ。

 え、なになに?詰めかけ、輪になり、僕を囲むクラスの子達をキョロ見する。名前も覚えてない赤の短パンのトカゲ人の男の子が「転校生すげーじゃん!どんだけ飛んでんの?何か運動してんの?」と聞いてきた。

「えー、そんなのしてないよ」あれ、トドラ以外でちゃんと話してくれたの、この子が最初だな。「サッカーとかは好きだけど」

 いやだってさあ、柔軟も反復横跳びもトップ成績だし、なあ?とその子が問いかけると、他の子もウンウンと頷く。その目の中にあるのは、さっきまでのじゃなく、もっと柔らかい何かの光だ。

 えへへ。なんだろ、なんか、恥ずかしいけど嬉しいな。まあ、確かに僕は体が軽いよ。それはトルーキオでも言われたし、駆けっこは昔から1番しかとったことないしさ…

 頭とか肩とか腕をポリポリかいかいしている僕に、小学生にしてはしゃがれた声がかかった。

「あんまいい気になんじゃねえぞお、転校生!」

 半ズボンから着替えてダボダボの青いツナギになった(これがこの子の体操服らしい)ラウロが腕を組み、足をわざとらしく踏み鳴らしながらこっちへ来た。

「僕いい気になんかなってないよ」

 ボキいい気になんかなってナイヨ?と、獅子人はおかしなイントネーションでこちらのセリフをおうむ返しにして、オカマの人みたくなよっとした仕草をする。周りのみんながくすくす笑い出す。僕は一転して暗い気持ちになった。

 獅子人は効果があったことにニヤニヤしている。

「なんなの、僕は何もしてないでしょ?なんでいちいち文句つけんのさ!」

 すると出し抜けに真っ正面からポンと両肩を叩かれた。

 悪い生徒を説得するみたいな格好で、ラウルは、今日一番のニコニコ顔を崩さずにこう言った。

「ま、そういきがんな!お前、なんだし!」

「は…?なに、テテ梨ゴって」

 色も形もジャガイモみたいなジャージに着替えたトドラがハッと振り向いて、「ラウロっ!」と怒鳴った。けれど獅子人はビクッとしながらもその意味を得意げに明かす。

「おン前さぁー、そんなことも知らねーのぉー?父無ててなったら父ちゃんのいねえ子供のことに決まってんじゃん」

 何をバカなことを言ってるんだろう。本当にこの子はバカなのかな。

 と、つい僕は素直に口に出していた。

「バッ、馬鹿だってえ!?」

「あ、えーと、だって君変なこと言うんだもん。僕のパパはちゃんと生きてて」

 ざわりと獅子人のタテガミが起きてくる。僕にバカって言われたのが、よっぽど神経スイッチにさわっちゃったらしい。

「なら先生達に聞いてみろよ!さっき職員室で話してるとこ聞いたんだからな!お前の父ちゃんは昨日の夜、港で殺されたんだって!チグノー先生も化けサリーも、校長も、みんなそう言ってんぞ!!」 へへえんだ!と鼻高々に胸をそらした。

 そして、頭までおかしな風にのけぞった。 なんでかって?

 がすっ。と、僕のパンチが思いっきりラウロの顎に入ったんだ。獅子人はそのままヨロヨロヨロレラどっすんこ。床に無様に尻もちをつく。

 あれっ、と我に返ると、僕は右腕を完全に振り抜いてアッパーカットのポーズになってる。そして相手の子が、顎をおさえて涙目をこらえながら立ち上がる。

「んにゃろ〜…やりやがったなぁ!」

 わっと僕につかみかかる。僕だって負けてない。負けるわけにいかない。嘘つきに、負けてたまるもんか!

「思い知れ!この、ててなしごっ!生意気ヤロウ!カッコつけ!!」

 ラウロは鉤爪を出しっぱなしにして、僕の頭をねじ伏せようとする。

「うるさいるさい黙れ黙れ黙れ!おたんこなす!バカ!意気地なしの悪口オウム!!」

 僕は力の強い獅子人のお腹に何回もパンチする。

 お互いを食らう毒蛇とマングースのように、僕らはゴロゴロ転がって殴り合い、噛みつきあい、頭突きをし合った。シャツが破けて血と埃で汚れていく。

「いい、かげんにっ、 降参しろよ!」

「そっちこそっ、ていせいしろっ!」

 やれやれ!噛め、噛みつけ!そこだよフック!いやチン!上手投げ!

 みんながみんな、好き勝手なことを囃してる。

 力はラウルの方が上。ホントのことだから仕方がない。でも、動き回るのは僕の方がだんぜん早い。

「こんにゃーろー…」とラウルがゼーゼー背中を丸めて呟く。

「しつこいなあ…」と僕は額をぬぐう。

 そしてお互いに拳をかまえる。せえの!でピッタリ息の合った踏み込み。

 二本のパンチが僕とラウルを同時にぶん殴った。全力でのクロスカウンターが決まったんだ。

 こめかみに近いところを打たれ、頭が白くなってぼやっとした。僕はどんどん後ろに下がり、体育館の木の壁にぶつかって止まった。

 すぐに僕は目玉をギッと見開いて前を向く。もう勝負はついた。勝ったのは、僕だ。

 白目をむいたラウルが後ろによろけていく。 懸命に踏みとどまろうとして、かえって足を滑らせた獅子人は、反対側の壁に下がっていたスダレの束を掴んで倒れこんだ。

「あ」

 スダレが留めてあったカーテンレールが太っちょの体重に耐えきれず、厚いハムを引き裂くような音を立ててひしゃげ、続いて夕立のようにスダレの玉が落ちてきた。

 僕達は、ワアッと離れる。端のほうから折り曲がり細長い腕のように空間を大きく横切ったレールは、そのままみんなの頭の上を振り抜いて、演説壇の上をかすめた。そして最悪なことに、 壇の真ん中に置かれていたトロフィーが引っ掛けられて、見事に床に落下した。

 ものに動じないトドラがギュッと自分の左腕を握る。

 たぶんクリスタルでできている…いた、薄い紫の大きなトロフィーが、跡形もなくぐしゃりと潰れた。着地の瞬間からそれはただのガラス玉の欠片となり、もともとの形より100倍多い量の飴のように散らばった。


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ボスサイド・ストーリーズ Report:2 鱗青 @ringsei

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