ボスサイド・ストーリーズ Report:2

鱗青

ペッパー&マスタード:Sideトト

 あらゆる書物にはこう書き記されている。

『はじめにことばありき』───

 リグヴェーダも、ラーマヤナも、エジプト神話ミスリーヤギリシャ神話グリークも、そして聖書も、あらゆるものは文字の前に言葉があった。

 ことば、ことば、ことば。言葉とはメッセージである。言葉は未来への糸すじであり、さらにその先で新たな結び目となり、無限に枝分かれする。

 たった一人の頼るべき父親、尊敬し、愛される家族。

 それを喪った少年ラガッツオは、まるで自分が壊れた機械になってしまったかのように己の定めどころを感じられなくなっていた。

 そして同じように、魂の半分を欠けさせてしまった男がいた。

 少年はメダリオンに隠された秘密の言葉を困難の果てに見つけた。それは少年に対するメッセージ。

 それに留まらず、未来への階梯の一つ目の段となった。

 もう少年は一人ではない。

 その男も一人ではない。

 ここから、二人の運命のパノラマが開く。ロケットの火台にイグニッションされ、混沌と光闇こうあんの渦巻く未来へと進み始める。



 ガットン!

 空中に蹴りだされるような衝撃を受けて、っていうか本当に一瞬身体が放り上げられて、僕はパチクリと目を醒ました。

 そして、とっすん、と布張りの座面に着陸。はずみで額にセットしていたゴーグルが鼻先にずり落ちて来て、目の前が少しだけ紫色に曇る。

 むー、大きさがまだ僕の身体に合ってないんだよなあ、これ。

 去年のトルーキオの大カルナバル。パパがしてるのと同じタイプのシリーズを屋台でみつけて、ねだって買ってもらったんだ。あの時はちょうどいいサイズのがなくて諦めかけた僕に、パパはチャラっと一番大きなやつを…自分がしてるのとおそろいの大きさのを1つ指に引っ掛けて、僕に渡してくれた。

「お前が大人になる頃まで大事にしていたらいい。きっとこれが似合うようになるよ!」

 そう頭を撫でられて、でもこれ大きすぎるよと出かけた文句を引っ込めたんだ。だって僕のパパの、イグナシオ=コルレオーニの言うことは絶対なんだから。間違いなんてないんだから。

 …なんだけど、そうそう簡単に頭は大きくならないみたい。バンドを調節できるギリギリまで短くしてるんだけどなあ。頭の上に直し直し、それからアクビをして、両手でゴシゴシ顔をこすった。

“当車は現在大きなカーブにさしかかっております。皆様どうか、お席におつきになり、タンデロッサ鉄道トルーキオ:ノエ便の安全にご協力ください”

 あたりを見回し、あー、と唸る。バター色の車内灯に照らされた木造の鉄道列車。

 そっか。そーだった。僕は今、マルノ州トルーキオの50階建てのマンションの自分のうちじゃなくて、ノエに向かっている列車に中にいるんだ。居眠りしている間にデーエント州に着いちゃったのか。出発が朝だったからなあ。

 さっきの、のっぺりしたアナウンスのあとで、修学旅行っぽい中学生の大きな人達がきゃいきゃい騒がしく後部の出入口からこの車両を通り過ぎて後部の方へ移動していく。

 僕だって遠出してるんだよ。それも、一人で!椅子に逆座りになり、背もたれから頭を出してその人たちを見送りながら、ちょっぴり鼻高々な気分になる。

「坊や、ちゃんと座ってないと危ないよ。今はちょうど大きな曲がり角だからね」

 僕は、あっと振り向いた。向かい席で行商人風のスカーフずきんの熊人のお婆さんと、ブチ模様の猫人のお爺さんが笑ってる。途中で乗ってきて、この四人がけの相席になってたんだ。行儀悪かったかな?恥ずかしいとこ見られちゃった。

「そう気にしなさんな。子供だもの、元気で当然だわね」お婆さんがナプキンをかけた手提げのカゴから真っ赤なリンゴを取り出した。シワだらけの掌でゴシゴシこすって僕にくれる。「お食べ。この州に来るのは初めてなのかい?」

「うん!ありがとう!お腹ペコペコだったんだっ」

 むわっ!と大口開けてかぶりつく。うわ、とっても甘い!お菓子みたい!

 そんな僕を、二人ともニコニコ眺めてる。

「美味いだろう。デーエント州には土の肥えた農園が多いし、良い漁場もたんとある。マルノ州の人間が口にできんようなおごった食い物だってな、このあたりじゃことかかんぞい」リンゴをパイプの頭でさして、お爺さんが言う。「それはな、わしらが作ったんだ。トルーキオの中央駅前広場じゃ飛ぶように売れたわい」

「んみゅ、んん、…僕がもらってよかったの?」

 大商いのときでも、いつでも最後の一個はとっておくのさ、とカラカラ笑ってパイプの柄を噛んだまま火皿の灰を落とした。

 夢中になって蜜の滴るリンゴをかじる僕の邪魔にならないようにしてくれたのか、2人は黙って僕を見守る。

 と、そこへ女の車掌さんがペアになってやってきた。

「チケットを拝見します、失礼します…はい、次のセモーニャ駅までですね。良い旅を。チケットを拝見します…」

「お土産にお薦めの品物でしたら、こちらのタンデロッサ社謹製のドリップ珈琲詰め合わせです。陸揚げされたばかりの新鮮な豆を、ノエの老舗が石窯で樫の炭の焙煎にかけました。はい!お1つですね!ありがとうございます…」

 1人は髪の長い人で、チケットをしまう小箱を腰の前につけ、もう1人はカールのついた髪の短い人で、お土産やジュースの瓶を満載したカートを押している。

 ちょっと、車掌さん!とお婆さんがカートを押している方の人に声をかけた。

「お待たせ致しました。承ります」

「昨日一日籠を担いでクタクタになってねえ。熱いレモネードをもらえるかい。うちのひとにも。それから、こっちの坊やにジュースをおくれな」

「えっ」僕は口の中のリンゴを慌てて飲み込む。「でも、そんな、僕」

「いいからいいから。さ、どれがいい?」

 じゃあ、とセブンアップのペットボトルを選んだ。車掌さんは慣れた手つきで(しかも片手だ!)キャップをひねり、僕に差し出す。

「あ、お婆さん、ありがとうございます!」

 はいはい、さあ、おあがり。お婆さんとお爺さんにぺこりと頭を下げ、飲み物をもらった。

「チケットを拝見してもよろしいですか?」

 髪の長い方の車掌さんは僕たちのやりとりを少し待ってから声をかけてきた。前の席の二人がすぐチケットを出して、確認してもらっている間にポケットをひっくりかえして探す。あれ無いぞ、無い、無い?おかしいな …あ、あった!

「お願いします!」

 僕は一人前の顔で、汗でしけったチケットを車掌さんに突き上げる。

「はい、どうもありがとう。ノエ…終着駅までね?」

「あとどれくらいで着きますか?次?次の次?」

「次の次の次の次よ」

 ふわあ、まだずっと先なんだなあ。

「坊や1人なの?お父さんかお母さんは一緒じゃないの?」

 僕は首を振る。

 ここまで来るのに同じようなことを何回聞かれたっけ?

 坊や、はぐれたのかい?なんで1人で乗るんだ、誰か大人についてきたんだろ?あれあれ一人旅なのかい、偉いねえ。切符を拝見します、ありがとう、あなた1人なの、お父さんかお母さんは(これは乗ってすぐ来た乗車券確認のときに別の人に聞かれたんだ)?よう坊主、菓子はいらないか、母ちゃんにねだってみな、ほら呼んでこいって、どこにいるんだい?

「ママは、いないよ」

「あら、お手洗いかしら?」

「ううん。いないの」

「あ………」一瞬のためらい。肩の後ろで髪の短い人と目配せ。それから、やっちゃったね、みたいな顔。これも飽きるくらい見た反応なんだよね。「…ごめんなさいね」

「パパはノエにいるんだって。だから会いにいくんだよ」

「あ…そうなの!そうなのね、楽しみねえ!」

 楽しみっていう気持ちは半分ぐらいだけど、説明がうまくできなさそうだから、僕はただうなずいた。車掌さん達はホッとしたみたいで離れてく。

 実を言うと遠足で出かけたことがあるのもトルーキオの端っこにある博物館ぐらいだから、こんなに家を離れたのは初めてで、わくわくする半分ドキドキ半分なんだ。

 ガガァっと窓ガラスが振動して耳が痛くなる。トンネルだ。列車を載せる線路はまたもやカーブを描いているらしく、身体がだんだん傾く。

 前の席のお爺さんお婆さんは反響する音がうるさいから、大声で薬局でする買い物の相談を始めた。

 夕方までにはうちに帰れるのかな。朝出発したのは…確か6時半、それよりもっと早く、まだ暗いうちに先生にお迎えしてもらって中央駅で電車に乗って(ちゃんと掲示板を見てたから時間は合ってるはず)、ずーっと座りっぱなしでいたから、もう両足がフワフワウズウズしてしかたがない。

 乗り物の中だからバタバタさせるのはお行儀が悪いし、スキップかジャンプかなんでもいいから動かしたくてたまんないなあ。

 僕は真っ暗なせいで鏡みたいに列車の内側を映す窓を見るともなしに眺めて、飲み物をカラにした。そこにいる半分透明な僕…サルバドーレ=コルレオーニ。それでもって僕ってば、栗色のタテガミそのものの頭は寝ぐせでボサボサ、空と同じ色の目のはしに目ヤニがついてて、卵焼きみたいな顔の地毛の口元がヨダレの筋がついてて、うわもうホントにかっこ悪いなあ!駅についたら顔洗わなきゃ!

 もう、なんでこんな時間に1人でノエまでいかなきゃいけないんだろう?こういうとき、携帯があったらなって思うよ。そしたら理由を聞けるのにさ。パパはあれだけは高校生になってからだってキビシイんだから…


「はーい、ですかぁ~…?」

 寝ぼけてドアにぶつかりながら玄関に出たら、そこにいたのは新聞の人でも宅急便の会社の人でも隣の部屋に住んでる優しい大学生のお姉さんでもなかった。

「早く顔を洗って、身支度して来なさい」

 しぁぁ、と二つに割れた舌先で顎の下を叩きながら背広姿のトカゲ人が言った。

 小学校のマルタン先生だ。いつも僕ら男子が授業中に騒いでると怒る学年担任の先生が、つかつか僕のところにきて、しゃがんで肩をつかむ。

「君のお父さんが、大変なことに巻き…大変なことになったとノエ警察から報せが来たんだ。いいかい、着替えなんかは後で送るから、すぐに用意してくるんだ。いいね?」

「んえ?僕のパパがぁ…?」

「そう。話している時間はないんだ、急いで!!」

 真っ青な顔をして、こんなに朝早く来て、どうしたんだろう。僕、どこに連れていかれるのかな。

 僕が眠気でぼんやりしていなくて、もっとしっかり目が覚めていたら、ちゃんと質問できたのに。僕はただマルタン先生の言う通りに服を着て、いつも学校に行くみたいにカバンを肩にかけて(後で中を見たら筆箱とガムしか入ってなかった)、急かす先生に手を引かれて駅に行った。

 その間も何度かカクカク頭が落ちかけた。先生は「ほら、ちゃんと起きて!」とその度に強く腕を振った。

 ぬにゃあ、と生返事。夢に片足を突っ込んだまま、さっき聞かされた言葉がさざ波みたいに頭の中に寄せては返した。

 君のパパ…大変なことに…送る…用意して…して…して…

 うーんと…僕何かやっちゃったっけ?花壇に植える種を間違えたこと、掃除の時間にハリポタごっこしてたこと、給食のとき牛乳の一気飲み大会やってみんなして鼻から吹きこぼしてしまったこと───とかとかの出来事が頭の中で運動会をする。

 それから先生は、ようやく目を開けていられる状態にまでなった僕を、シエンツァ行きの特急に押し込んでチケットを握らせて、それからいきなりギュウッとハグしてきたんだ。

 すごく驚いた。だって、まるでもう会えないところに兵隊さんを送り出すお母さんみたいな感じだったから。記念映画で観たシーンのまんまだったから。

「…まだこんなに小さいのに!可哀想に…」

 なんで?なんでマルタン先生泣きかけてるの?かわいそう、ってなんで?

 理科の先生だから力は無いけど、大人の男の人だし思いっきり抱きしめられたらトカゲ人の鱗がゴリゴリほっぺたに当たって痛いよ。

 こういうの、なんて言うんだたっけ。黙ってゆーっくり手を振る先生を窓の外に見送りながら思い出した。

 そうだ、「に落ちない」だ。国語で習ったばっかしだからそらんじることだってできるぞ。「その時ハンナはふに落ちないな、と思いました。王様はなぜ彼女を隣の国につかわすと命令したのでしょう…」だ。あれは、えーと、『ハンナと七十七の夜』だったっけ。

 ぴるるるるる、と駅員さんの笛が告げて、僕の乗った電車は走り出した。先生はゴマの粒ぐらいになってもまだ手を振ってた…


“皆様、長らくお待たせいたしました。これよりトンネルを抜け、いよいよノエが見えて参ります。右手の窓をご覧ください”

 あれ、僕また寝てた⁉

 右に首をひねる。眩しい。白いペンキで塗られた壁が目の前にでん!とできたみたい。なんにも見えないよ。

“お疲れ様でした。あと5分ほどで中央駅に到着します。皆様は当地で素晴らしい想い出をお作りになることでしょう。ノエでは総ての門戸が開かれ、あらゆるものが皆様の手に触れるのを待っております。

 しかし皆様が絶対に手に入れられないものが一つだけございます。それは………”

 車内が一瞬水を打ったように沈黙に包まれる。

“それは、ノエの美しい景色です”

 なんてことないナゾナゾじゃないかなあ。と思ったんだけど、けっこうみんなが笑ってる。お爺さんお婆さんも、他のお客さんも、みんなが。

 朗らかな笑い声に包まれているうちに、僕まで楽しくなってきちゃった。こんなに親切で、素直で、あったかい人たちばかりなところなら、パパはお仕事じゃなくて遊びにきてるのかも。それで、あんまり楽しいから僕を呼んでくれたのかもしれないな。

 明るさに慣れた僕の瞳に、頭の中が溶けていきそうなほど大きな景色が広がった。

 窓の外には風になびく青々とした麦の穂。まるでエメラルドグリーンの海のよう。そして羊が埃を立てて走る農場。サイロの銀色の円筒。まるまってる草の塊みたいなのをブルドーザーが転がしていて、ときどきギラっとカウベルが輝く。へえ、牛って人間より大きいんだ!知らなかった!

 トルーキオの街中を走る路面電車の風景とはまるで違う。だって、ビルなんか一つもないんだ。空が高くて、緑の色が鮮やかで、山も畑もどこまでも広がって終わりがない。

 全部が初めて見るものだらけ。だけど全部が、社会科の教科書で見たことがある。遠い遠い、地球の上では地続きでもどこか別の世界だったおぼろな想像。それが形になっているのは、なんとも奇妙な感じだった。

 そしてその風景は突然に、停車場に切り替わる。

“ノエ中央駅、到着です”

 わあっ!と拍手が起こって車内はうるさいぐらいになった。誰も彼もが、やあやあ、お疲れさま、良い旅を、いやあなたこそ、またどこかで会いましょう、と手を組み肩を組み別れを惜しんでいる。ほんの少しの間一緒にいただけなのに、なんか大げさな人たちなんだなあ。

「坊や、パパによろしくね。おかげで良いことができたよ、ありがとう」

「うん、ありがとう、リンゴもジュースもごちそうさまでした!」

 僕はお婆さんが差し出した手と、お爺さんのゴツゴツした手をいっぺんに握ってお礼をした。

 がたんごとんと床を揺らしていた振動が、ががが・ごごごという音に変わった。スピードがどんどん遅くなる。

「僕もう出口に行くね。一番乗りしたいんだ!」

 ニコニコしてる2人に、ぺこん!と最後のごあいさつ。

 ブレーキがおたけびを上げた。あっと、急げや急げ!

 尻尾でバランスをとり、通路を早歩き。だって走ると危ないから。パパによく叱られるから…僕はよくこけるから…

 あわてるなー、おさないかけないしゃべらないだー…

 ダメだ、がまんできない!!

 僕は走り出す。窓からまるでスポットライトみたいに差し込んでくる、ノエの火傷しそうに熱い太陽を浴びながら。


 普通に「駅」っていったら、誰もが想像するのはちゃんとホームがあって、屋根があって、長々とした階段や連絡橋、いくつもの曲がり角、もしかしたら売店や食べ物屋さんなんかのある建物つきのものじゃないかと思う。

 ノエの、こんなただ線路がヒョウタン型にぐるっと回ってまたトルーキオへむけての便に変わる一本の線路の往復で作られた複線のあるだけで、はめ込み式のタイルで深海の底みたいな模様のついただけの広場なんて、どうやったって考えつかないんじゃない?少なくとも僕はそうだな。少なくともって言うと、ちょっとカッコいいよね。

 僕は列車の昇降口から(手動ドアなんだよ!!)「いっちばんのりーっ!」と地面に飛び降りて、じゃーんとゴールのポーズをとってぐるっと一周を見回して、このだだっ広い広場が駅なんだと知り驚いた。トイレに行って洗面台を探すのも忘れて思わず「ふおおおおー?」って変な声まで出しちゃった。

 わらわらばらばら、降り口から自由に乗客が降りて行く。中学生の人たちのうち、不良っぽい男の人たちは車窓からヒラリと飛び降りて、引率の先生を怒らせる。どこからともなく物売りの籠を担いだおじさんおばさんが現れる。僕は「あややややや」とたちまち雑踏と化した線路の輪の外に非難。

 そこにはベンチや植え込みの列が、線路の輪を包むように何層にもなっていた。これじゃ車は入れない。だから商売する人は台車じゃなくて手持ちの荷物にしてるんだな。

 僕はそこで気づいた。空の雲も太陽おひさまの高さも首都トルーキオとは変わらない。

 だけど風が───空気が違う。ノエの風は熟したマンゴーみたいに濃厚で、重いんだ。

 たくさんの匂いも混じってる。果物っぽい香り、土の焦げくさい匂い、なんとなく枕の中の麦殻みたいなほっこりもっさりした感じ…とかとか。ごたまぜだ。

 僕は息を鼻から大きく吸って、スパスパとタバコを吸うみたいに細かく吐き出す。

 うん、少しキツめだけど嫌いじゃないや、この匂い。初めて来た土地の空気だけど、なんだか小さいときに嗅いだような懐かしさがある。

 駅舎がない代わりに事務所らしい建物が広場の中央にある。てっぺんに赤い球のついたポールが屋根に刺さり、どうやら日時計になっているらしい。

 地面に伸びたポールの青い影が何時を示すのか分からなくても、時計台を兼ねた鐘楼付きの教会が広場から道続きの小高い丘に見える。僕の視力は両方ともパパゆずりの2.5だからこれくらい余裕で数字が読めるんだ。

 ちょうど9時。もう小学校が始まる時間だ。さっきからジリジリと焦がされて毛皮が熱くなってくる。陽が昇り、温度も上がっていっているんだ。

 クラスのみんな、どうしてるかな。皆勤賞のサルバドーレがなんで休みなんだって噂されてるだろうか。ズル休みってわけじゃないのに、ちょっと気が咎める。行きの電車で色んなものをもらったりして得してるせいかも。

 でも…

 ぴおーっ!と警笛を鳴らし、列車が線路の曲線を回り始めた。降りるお客さんはもう居ない。物売りの人達も、ベンチに腰掛けてミートローフの空き缶やザルに溜まった売り上げを数えたりしている。

 でも、パパはどこにいるんだろう。僕を迎えに、そろそろ来てもいい頃なんじゃない?

 列車はするすると円を回りきり、反対側の線路、トルーキオ方面へセッティングされた。車掌さん達も入れ替えがあり、また違う女の人がペアで乗り込んでいく。

 僕もさすがに心細くなってきた。着いた先にパパがいることを信じていたから、まさか一人ぼっちになるなんて想像もしてなかったから、寂しさで不安がオーブンで焼くケーキみたいに膨らんでいく。

 僕は頭をぶいんっと振り、地団駄の要領で強く地面を踏んだ。

 大丈夫、きっと大丈夫。暗いことを考えれば自然と物事がそっちに引っ張られちゃうぞ。だからいつも明るくしてるのが良いんだ。これも、パパが教えてくれたことだよ。

 山とかジャングルで遭難そーなんしたときはむやみに動かない。図書室で読書の時間に読んだ有名な冒険家の伝記にも、そう書いてあったじゃないか。待つこと。それが大事!

 僕はジリジリ焦りたくなるのが誰にも気づかれないように落ち着いて歩いて、水飲み場を見つけて顔を洗った。本当は、もう、すぐにでもアナウンスをかけてもらいたかったよ。でもそれでパパとすぐに会えたら、それでもってパパが苦笑いしたらすごく情けないもん。

 ハンカチも無いからぶるるるっと毛皮を振って水を切る。スッキリはしたけれど、することがなくなっちゃったよ。

 それじゃあ…ひまつぶしに当てっこしようかな。

 僕は手近なベンチに腰掛けた。そろえた膝にカバンを上げ、そこに顎を乗っけてくったりとリラックス。歩いてる人をひたすら観察するんだ。これは、ちょっとしたゲームね。

 ここは田舎なんだと思うけど、意外と歩いてる人が多いみたい。スピードはトルーキオの交差点よりずっとゆったりしている。立ち止まって商売や仕事の話をしている人もいて、耳をそばだてると「年頭の作付けがうまくいって…」とか「ぎょかく(ルビ漁獲)があんまし上がるのもなんだなあ、人手が足らんくて足らんくて、漁協じゃ事務の爺さんが頑張りすぎてギックリ腰だとさ…」とか「農協に連れてかれる途中で牛コが三頭も仔を産んだ…」とか「北区の農場が倒産するかもしれんぞ…」とかいう話をえんえん続けてる。

 経済とかパソコンとかワールドニュースの話ばかりしてるトルーキオのビジネスマンの人達とはやっぱり違うなあ。まあいいや。当てっこしーようっと。

 あの人は郵便屋さん。赤くて大きなカバンに白線の入った四角帽だからすぐ分かっちゃった。あの草色なツナギを着た痩せたおばさんは牛乳売りだ、大きな把手付きの金属の缶を幾つもリヤカーに乗せてポニーに引かせているもん。あの人は難しいぞ、あの緑色の葉っぱみたいな服を着た人。しかも気がついてみると、同じ格好の人が4〜5人、広場に散らばっている。

 ピエロみたいなお化粧をして、白い帽子を被って、特に誰かに声をかけるでもなく8つの角のある星型が印刷された旗を振ってるだけ…なんなのかな?

 僕はハッと犬人の耳を立てた。聞き慣れたサイレンが近づいてくる。

 消防車の低い叫び声でも救急車の高くうなる音でもない。警察の、パトカーの、いななくような雄々しい調べ。

 パパだ。元気が身体中に広がっいってて、僕はベンチに飛び上がる。

 音があちこちの壁にバウンドして方向がちょっと分からない。だけどすぐ近く。もう、すぐそこ。

 赤提灯サイレンキャップを載っけた青っぽい車が───こすったのか元からなのか、塗りがまだらな青い日産の軽自動車が、まるでマスタングのようにもうもうと背後に土埃の津波を広げて走ってきた。

 乱暴に停車した、その塗装のあちこちはげた車から、雲にまで届きそうに大きな犬人の男の人が乱暴にドアを開けて乱暴に降りてきた。

「っかしいな、もうとっくに着いてる筈なんだがな」

 まるでコーヒーミルに豆の代わりに砂利を入れて回すようなしゃがれ声。「クソが!」とゴミ箱を蹴りつける。軽くひと蹴りしただけなのに、ぼべん!と鉄網の箱がひしゃげてしまった。

 僕は素早くベンチの後ろに身をひそめた。いつも忍者ごっこしてる仲間の内で、僕は走るのも木に登るのも隠れるのもなんでも一等早いんだ。

 慎重に、ベンチの背もたれの板の隙間から相手を観察する。…この人はマフィアの人だな。当てっこ遊びにもなんないや、見たまんまだ。

 ハスキー系は大体いかつい人が多いけど、これまで僕が見てきたなかでとりわけ隈取りが明確で、顔のつくりが凶暴さに満ち溢れている。

 ざわざわした地毛は白で、顔の上半分からうなじへ下るところ、そして捲り上げた腕の外側はアスファルトの灰色。優しくぼやけるような灰色ではなく、ところどころに色の濃い部分があるまだらで、厳しい刃物の側面みたいな感じ。

 格好だって、まるでヒーローアニメの悪役だ。首と肩が繋がってるのかなと思うぐらい筋肉のある背中、キングコングみたいな割れた胸が破れかけのワイシャツから見えて、それに服の上からでもわかるぐらい腹筋が畝になってる。畝ってね、畑の作物を区切る盛り上がりのことだよ。知ってた?

 人は顔じゃ判断できない、それはそうだろうけれど、鼻の付け根が段になるぐらいしかめっ面をして、地面にべべべっと連続三回もツバを吐くような人、僕にはとても良い人には見えないよ。

「事務の奴ら、何が『9時前には着いてる筈です』だ。無駄足踏ませやがってド畜生め。おやっさん!」その人が口を開くと、渋くて臭いタバコの匂いがむわぁと広がって空気を汚染した。「おやっさん、空振り喰わされたぜ。先に港の方の現場を片付けちまおう。あいつのガキの回収はその後だ」

 誰もいないように思えた車の中から、チェロのように分厚くて落ち着いた声が応える。

「アレクサンドリアの古代には高くそびえる灯台があったそうだ」

「はあ?なんだって?」ハスキー人は鬼の様なしかめっ面をする。「急いでんだからもっと簡単に簡潔に言ってくれよ!」

「大将、足元を見てみろ」

 悪い人が、ああん⁉と僕のいるベンチの後ろを見下ろす。毛皮とおんなじ灰色の冷たい瞳で見据えられ、僕はギクッと肩がはねた。

「わわわわわ!」地震の非難訓練の要領でベンチの下に入り込むと、野球のグローブみたいな手が追いかけてきて僕の尻尾をわしづかむ。「うああ!痛いよ痛い!」

 僕は引きずり出され、ブランと逆さまにされた。信じられない!まるで身体の外からカメラでとらえているように現実感が無い。

「は、放してよお!」

 大きなハスキー人は、僕をまるで壊れた自動販売機か何かのように見る。なんか尻尾の付け根が冷たくなってきた。

 それからその人は一言も喋らず、暴れる僕をそのままぶら下げて車に歩く。これから家で絞めるお祭りの七面鳥、ってわけじゃあるまいし、これは違反でしょ!?誰か止めてよ!!

「たくよー…なんだってこんなガキを俺様が預かんなきゃなんねんだよ」ふさふさと茂みを作る胸板の上から、臭い息が吐き出されて、ばふぁぁーと僕の顔にかかった。「バタつきすぎて尾っぽがもげても知らねえぞ」

 車の後部座席のドアを開け、「そら、乗れ!」と僕を荷物みたいに投げ込む。そして自分は、こんな大きな体のくせに肩をすぼめ腰を折り脚を縮めて運転席に収納。みちみちと服も椅子もきつ苦しさを訴えていた。

 後部座席で座り直しながら、頭の中が最高速で回転する。僕をどうするつもりなの!?これってひょっとして誘拐!?そういえばトルーキオでは小さい子が何人か行方不明になってて、パパは夕食のテーブルでネットラジオのニュースを流しながら誘拐じゃないかって言ってた。もしそうなら、僕さらわれて、どこか静かな場所で殺されるの!?

 そんなの、絶対やだ!!

「小さな大将、怖がることはないぞ」

 また見えない声だ。

「大将ってボ、僕のこと?」

 ボワんと水中に広がる波のような、力強くて穏やかな声。

「そうだ。安心してこのハスキーの大将についているといい。ワシらは誘拐魔なんかじゃない。君を迎えに来た者だ」

 そ、そうは言ってもさ…

「信じられないか?」

「だ、だって、パパが迎えにきてくれるのに、なんで知らない人が連れてくの」

 ハッと喉の奥に引っ込む息の音、深いため息の二つが同時に漏れた。

「…自己紹介が遅れたな。ワシは、ブルーノ=アルマリク。小さな大将の父さんが、昔、働いていた職場の年代物だ」

「………?」

 えーと、運転席の右の、助手席の方には、誰が座ってるんだろ?声はそっちからしてるけど、見たとこ誰も…

「君の視線は高すぎるな。もう少し下げて」

 ん?頭をもたせるクッションより下なの?

「ふむ、もう少し」

 え、背もたれの高さより下?

「まだいけるな。下、もっと下、ぐぐーっと、呆れるぐらい下を見てみろ」

 僕はそうした。そこで、座面からほんの数インチのあたりで黒白のトレリス柄の鳥打帽、さらに下にベージュのジャケットを発見した。

「こんなチビ助は初めてかね、小さな大将?」

 声の主はペンギン人だった。さっき溜息をついたのもこっちのおじさんだと思う。

 顔の半分を占めるバナナ色の大きなクチバシがニヒルな笑みで歪み、その上にはホウキみたいにバサッと突き出たヒゲ。太ったエビのような眉を戴く、遠くを見る目つきの瞳。「改めてよろしく、ワシはブルーノだ。ノエ警察の刑事課で、刑事長を30年がた務めとる。それでこっちのデカいのが…おい、まだ出せんのか」

 なんて気持ちいい話し方なんだろう。発音のスピードがおっとりしていて、だけどお腹の底から出すしっかりした声。確かに警察の人だって信じられる。胸にちゃんとバッジも着けてるしね。

 大きい方の男の人も、同じ銀色の十字型を左のベルトの上に着けてた。身体がかなり椅子の輪郭からはみ出ていて、落ち着くと後ろからよく見えた。

「やってるよ、このポンコツどうも俺のいうこと聞きやがらねえ」

「女も物も、当たれば壊れるだけだ」

「僕は、あの、サルバトーレ=コルレオーニです。はじめましてブルーノさん」右のペンギン人の刑事さんがブルーノさん。よし憶えたぞ。「えーと…左の人は?」

 ハスキー人は微動だにせず、振り向く気配すらないまま。聞こえてないのかな。

「あの、そのー、はじめまして!!僕はサルバドーレ=コルレオーニです。名前を教えて下さい」

「…ケッ」

 ケッ?え、なんでそんな答えなの?

 ぎゅるんっ。やっとこさエンジンが鼓動を打つ。

「小さな大将、シートベルトをしな。この大将の運転はかなりせっかちだ」

「へ?」

 ガン!僕の頭が、サイドウインドウに衝突。慌ててシートベルトを引こうとするも、次は反対へ車体が振られてそっちへガン!

「おい大将。何を荒れているんだ」

 くらくらと渦巻きまなこになっている僕に、細い何かが巻きついて座席へ固定した。途端に身体が安定して、狂ったダチョウのように暴れる車も気にならなくなる。

「窮屈かもしれないが我慢してくれ。あとでその縄は解いてやるから」

 そうか、この黒くて細いのはロープなんだ。よく編み込んであって、しっとりとツヤの出た表面はまるで蛇のよう。それで僕をきちんとシートに固定したんだ。いつの間に?

「で、大将。自己紹介をされたら自分から姓名を明かすのが礼儀だぞ。お前さんがだんまりむっつりしていると、ノエの人間の品格はそういうものかと小さい大将が誤解してしまうんじゃないかな」

「……………だー!クッソ!」

 ハンドルをみしみし言わせながら、ハスキー系の悪人…じゃなかった、巨人は吐き捨てるように言った。

「俺ァ…ザンパノ=デル=レグルスだ!」

「ザン…パノ…デル=レグルス…?」

「俺様の名前をブツ切るんじゃねえ」

 話す間に車体は信号機にこすりつけようにカーヴ、対向車を蹴散らしながら進む。これじゃあボロボロになるわけだよ。

 それにしても、どこかで聞き覚えがあるなあー。あれえ?こんな人、知り合いにはいないはずなんだけど…

 かきむしった頭の奥から、ポンと記憶の塊が転げ出た。

「あれ、おじさんもしかしてザンパノさん?パパの親友の?」

 この時、ザンパノさんは初めて僕の方に目をくれた。その時の印象が、僕はハッキリとは思い出せない。多分それまで友達も誰もしたことのない表情だったからだと思う。

 すぐにまた正面を向くと、ザンパノさんは「誰がオッサンだ!お兄さんと言え!」と怒鳴った。

「いいや大将。お前さんは立派におっさんだろう。10才の少年から見ればな」

 ケーッ!クソ面白くもねえ!とハスキー人はアクセルから足を離した。口の中がしょっぱくなる潮風がサイドウインドウの隙間から漂う。と同時に、何かお祭りでもやっているような騒がしい音がしてくる。

 徐々にスピードダウンとか、この犬人の警察官は知らないみたい。いきなりブレーキをかけるから車がつんのめってお尻が持ち上がる。

「さあてと。景気付けにいっちょう馬鹿どもの金玉でも引っこ抜いてやっか!」

 ウキウキと外に出たザンパノさんをブルーのさんは「年端もいかない子供の耳に毒を垂れ流すんじゃない。濁った水で育つ魚は、醜くなるものだ」とたしなめる。

「はん。どーせ野郎はガキも大人も根っこは同じなんだよ、おやっさん!下品も上品も関係ねえ。寝て起きてクソしてるのも、スカートめくりも凸×凹=□も本能のまんまさ。あんたみてえなのは、ま、突然変異ってことだよな」

 なんて下品な言葉遣いだろう。こんなことしゃべったら(しゃべろうなんて思わないけど!)パパなら僕を椅子の対面に座らせてじっくり弁解を聞くところだよ。

 僕の中にあったのは、もっと優しくって頼りがいがあって爽やかでかっこ良くて、とにかくこんな人とは全然別物だよ。

「どうした小さい大将、黙りこくって。とって食いやしないぞ。そう恐ろしがるな」

「べ、別に怖がってないもん!」

 そうか、とブルーノさんが黙り、わずかな間ができた。

「じゃあな、ここでしばらく待っといてくれ。ワシ達は荒くれ者と相談してくる。表に出ると危ないぞ」

 2人が行ってしまい、一人にされる。

 ザンパノという人は、僕は昔からよく知っていた。実際に会ったのは今度がはじめてなんだけと。

 膝の間に手を挟み、想像と現実ってこんなにも違うものなんだ、と思う。

 ずっとザンパノさんってどんな人かなあって気になってた。よくパパがリビングの電話で話してたんだよね。「もう冬の休暇だろ。暇つぶしでいいから遊びにこいよ…だからうちに泊まればいいだろう。何を遠慮してるんだ?…ハッハハハ!トトの教育上良くない?なにバカなこと言ってるんだよ」とか色々。

 その時のパパはすごく楽しそうで、僕はその電話の相手の人のことを知りたがった。そうしたら、「会えばあいつがどんなやつか分かる」って笑うばっかりではぐらかされた。けど、他の警察の人の話なんかしたことないパパがそんな風に仲良くしてるってことは、きっととても大事な友達なんだなって思った。(パパは人気がないわけじゃないけど、刑事って普通の警察の人よりこどく(ルビ点)なものなんだってさ。)

 それなのに。現実に会えたあのおじさんは、なんだか意地悪で、冷たい感じ。あんな人がパパの友達、それも親友だなんて、とても信じられないよ。なんかだまされてるような気さえしてくる───

「もう、なんなんだよこれ。もうもうもう」

 もおお。

 ん、あれ?最後の「もお」は僕じゃない。誰?

 窓の外を覗いてみて、僕はぽかんと口を開けた。だってそれ以外にできることなんてないんだよ。

 車の外には100頭ぐらいの牛がひしめいていたんだから。

「え、ちょ、これ、えええ!?」

 ぎろぎろと黒い眼が、もちゃもちょとはんすう(ルビ点)している口元が、でっかいでっかいお尻に蝿を追い払う細い尻尾が、そこかしこしている。見渡す限りの牛の海。

 モーモーと鳴きわめく動物の波に車が揉まれてきしむ。

「わ、わ、わ、わ、わひゃあああ!」

 このままじゃ潰されちゃう!

 僕は死にものぐるいで身をよじり、なんとかロープをゆるめた。もともと体は柔らかい方だから、そのまま腕を抜き、腰を出して足をつく。

 外の牛達はめちゃくちゃに動いているのではなく、一つの方向へ少しずつ流れているようだった。ドアが開けられるようなタイミングがなかなか来ないので、ハンドルを目一杯回して窓を下げる。

 そして枠に足をかけて、天井あたりにあるフックを指でつかみ、逆上がりのやり方で一息に「やぁっ!!」と屋根に上った。

 家畜の群れに占拠されたここは、倉庫街みたいだった。コンテナが積み木のように集められてできた山や、カマボコ屋根のトタンの倉庫があって、道路にはフォークリフトやバギーがある。

「うええ、なにこの臭いニオイ!」

 僕は鼻をふさぐ。牛のウンチの匂いなんだろうか、もんのすっごく、臭いぞ!

「集めろ逃がすな!大切な取引品だ!」

「まだ渡すと決めたわけじゃねえ!証文をよこせ!」

 前の方でたくさんの人がざわめいてる。いや、胸のところをつかんで話し合いしてる。うん?でもないや、踊ってるんだ。なんでこんなところで、あんなモヒカンとかドレッドとか毛皮ソリコミの人達がダンスしてるんだろ?

 全部違った。たっぷり2クラス分ぐらいかそれより多くの人相の良くない人達が、てんでに殴り合い蹴り合い肘を叩き込み合いしているのだった。

「てめえんとこの若造が約束を破ったんだろうが!こちとらこのままじゃ引き下がれねえ、牛は全部もらってくぞ!」

「冗談も大概にしやがれ!三代目の面子にかけて、今日の手打ちはやり直しだ!」

「そんな手前勝手な理屈が通るとでも思ってんのか!?オオ!?」

 そこから先は、もうこんがらがって何が何やら分からないくらいの言い争い。

「通らなきゃ拳骨にいわしてやらぁ!」「上等だこっちにだってファミリーの面子があんだ、らされたきゃかかってこいやぁ!」「牧童の腕力ナメんじゃねえぞ、くらえぇ!」

 色に分けたら二色。一方はいぐさ色のツナギに白いシャツを着た男の人達。そしてもう一方が、服装は自由で格好が全体にだらしない男の人達。

 その二つの組みが、ずっと向こうで左右に別れてぶつかり合っている。

 そして、僕は見た。ブルーノさんとザンパノさんが、牛の波の間を蛇行してそこに到着したところを。

「うっす!楽しそうなことしてんじゃねえか、俺も混ぜてくれよ」

 ザンパノさんが景気の良い声をかける。と、双方の勢力にざわめきが広がった。

「マジかよ、『核爆弾ヌクレアザンパノ』じゃねえか」「ヤバいぞどうする?」「ど、どうってお前ら、ビビってんじゃねえよ」「おい!『縛り首のハンガーブルーノ』まで来てんじゃねえかよ!」「あの2人にたてついたら損するだけだぜ」

 いい評判とは思えない言葉を聞きながら、満足そうに腕をこまぬいてウンウンとうなずいているザンパノさん。ザンパノさんの足元でブルーノさんは、ぽやんと飛んでいるユリカモメに気を取られていた。

「…で、どうするよ?」ハスキー系の警察官の野太い声は、別段耳をすまさなくてもよく響く。「北区の農場…っつえばコーイア牧園の連中だな。そんでそっちは、モドマウントファミリーのカスどもか。こんなとこでカタギ相手になにやってんだ?港はお前らの縄張りじゃないだろ?」

 ヤクザ側の前列の数人が顔を見合わせて、とりわけ若い人が甲高く叫んだ。

「お、俺らは借金の取り立てで来たんだ!」

「ほう?こんなところでか?」

「そ、そうだ!」遠目でもまるっきり気圧されてるのがわかっちゃうぐらい、その人はがたがた震えてた。「もともと期限は今日、そのカタに牧場の牛の半分を貰い受けるって話だったんだ。それを昨夜になって牧場の倅が金を持ってくるから待ってくれって、頼み込んで来たからギリギリまで待ってやってたんだよ!」

「それでその牧場の息子はどこにいる」ブルーノさんは帽子の角度を調えながら尋ねる。「ワシの見たところここにはそんな男はいないようだが?それともこれはハムレット風の矛盾をついた問いかけなのか?」

 今度は牧場の側の人達が話す番だった。ひしゃげた麦わら帽子をあみだにかぶる1番おじさんの人が進み出て、ガリガリと噛みタバコで歯ぎしりしながら答える。

「坊ちゃんは、昨日あたしらにもそう連絡してきたんです。一昨年の台風のせいで畑の方の作物がお釈迦になって先代がこさえた借金を、牧場で育てた牛で返す話をどこかで聞いたらしくて、自分がなんとかするからとにかくすぐには牛は引き渡さなくていいと」

「コーイアの息子っつったらノエ中学校の頃からアホボンで有名だったじゃねえか。もう長いこと家出したまんまなんだろ?そんな奴の与太話を信じるなんてどうかしてるぜ」

「静かにしていろ大将。ふむ…それでその坊ちゃんはいずこにおわすのかな?」

「どうも金策の話がうまくいかなかったようで…ついさっき、そっちのやくざ者達が騒ぎだしたあたりに牛の綱を切り、逃げちまいやした」

 ふんふんふふふん、そうかそうか。ふざけているのか真面目なのかブルーノさんは、手をパタパタヒラヒラさせている。何か考え事を整理してるのかな?

「よし、では最後の確認だ。期限の時間は何時なんだ?」

 ブルーノさんの質問に、9時丁度でさ、とその人は返した。

「話がこじれたのはそういうことだったんだな。ふむ、それならこうしてはどうだろう。まず今日のところは互いに引いて、お前さんらの農場の息子をなんとしても今夜24時までに、つまり日付が変わる前までに連れてくる。もしかしたら何か算段があって金が用意できているのかもしれない。できていないにしても、弁明と責任の所在を明らかにせんと警察としては納められんからな。マフィアの諸君には明朝の同じ時間まで待ってもらおう。牛は移動させるのが骨だから、空いている倉庫の一つにとりあえず入れておけばいい」

 なっ、そんなことできっかよ!もう船に積み込んでくだけで、艀(はしけ)の準備もできてるんだ!マフィアの人達は反対みたい。

 そこでブルーノさんがまた何かを言う前に、大きな背中のザンパノさんがまた一足先に出た。

「やいのやいのとまあ、よくさえずりやがって。おいそこの鳥頭」

「え、俺?」と、さっきの若い人。

「モヒカンはお前だけだろ。取引っつうからにはてめぇらの方にはちゃんとした証書があるんだろうな」

「あっ、あるわい!ナメんじゃねえぞ!」

「ナメてねえから、俺様に見せてみな。なっ?」

 背中を向けていてもザンパノさんがニヤニヤ笑っているのがわかる。なんだかこの人は、ヤクザよりタチが悪そうだよね…

「ホラ、これだ!ここ読んでみろ!ここにちゃんと書いてあるだろ!」

 モヒカンの人は仲間に手渡された紙を広げて突きつける。犬人は深くかがみこんでそれを読む。

「ふんふん…“甲は乙に対して以下の債務を負うものとする”…へえー。“履行されない場合は、記載された日付に伴い強制的に執行するものである”…と。なるほど、ネッ!!」

 最後のネ!!でザンパノさんは証文を取り上げた。驚く全員の(ブルーノさんをのぞいて)目の前で、その紙を丸めもせず口に突っ込みモシャモシャゴクン!飲み込んじゃった。

「ごちそうさん。なかなかいい紙だったぜ」

「な」

「え」

「ばっ!」

 ハスキー人は肩慣らしをするピッチャーのようにふんぶんと腕を回し、「これで証文は俺の腹の中。今晩あたりにゃ尻からひり出てくっかもしんねえけどよ、読めやしねえだろうなあ!」と笑う。

「ぶっ殺せ!野郎の腹かっさばいて中身を取り戻すんだ!!」ヤクザの人達が一斉にザンパノさんに襲いかかった。「たかだかポリがいきがってんじゃねえぞ!!」

「そうだ。俺はしがない公務員。その俺に暴力で訴えるとはなんたる暴挙。どうなっても文句は言えねえよな!?」

 そして、次の瞬間にヤクザの人の半数が宙を飛んでいた。

「わぁーっはっはっははははは!!」

 なんて楽しそうに殴るんだろう。それに、なんて…強いんだろう!

 何人かはナイフを構え、拳銃さえ取り出してる人がいる。しかし大柄な犬人は絶妙なステップを踏み出して、ことごとくその人達の狙いを外していく。

 たたらを踏んでつんのめる背中からものすごいイヤミな笑顔で蹴り飛ばす。2人目は横っ腹を殴り飛ばす。さらに向かってきた4〜5人を、ラリアットで根こそぎなぎ飛ばす。

 これ、嘘でも大げさに言ってるんでもないんだからね。ホントに人が飛ぶんだよ。たとえじゃないんだよ、口から殴られたツバの糸を伸ばして5mくらいびゅん!て飛ぶんだからね。

 ザンパノさんは───強い。ううん、もう『強い』を通り越して、無敵だ!!

「やれえっ!そこだっ!パンチ、いやキック!そんでもってぇー、しょーりゅーけーん!!」

 格闘ゲームでパワー系のキャラクターを操作する感覚で僕も声援を投げた。外に出てるのが見つかれば怒られるとか、きれいさっぱり忘れていたけど、ザンパノさんはそんなことなど気がつかないで暴れまくる。

 全体の数から五割以上やられてはじめて、ヤクザの人達も本格的に逃げることに決めたみたい。そこで立ちはだかったのが、ペンギン系のブルーノさん。

「交渉するつもりでいたんだが、ワヤになってしまってすまんな。しかしながら、これでは公務執行妨害にせざるを得ん。そしてかくなる上は、諸君ら全員を連行するしかない。いざ粛々と、戴冠式に赴く王のように…いやさ、位階を授かる聖職者のように…うむん、しっくりこんな。バーゲンセールの群衆が狭い入り口を抜けるが如くに…」

「このチビオヤジ、どかねえとそのクチバシ叩き折るぞ!」

 いさむ頬傷の熊人にブルーノさんは「最後まで聞いてくれんのか」と悲しげに首を振る。

 ザンパノさんが、やっつけた人達を縛り上げながら「おやっさんにザケたこと吐かしやがると湾に沈めんぞ!!」とか警察の人とは思えない言葉でおどして止めてる。あれ、直接ブルーノさんを助ける気はないの?

 鳥人は黒い掌の内側の、白いほうをひらひら見せて「構わん構わん、多少なりとこちらにも非はある」と大らかに返した。

「ワシは事実、背が低いしな。揶揄されようとも憤怒するには及ばん。なぜなら、かのナポレオンも、ロートレックも小男だったそうだからな。知っているか?特にロートレック、彼の才気はフランスのポスタライズにおいて芸術と『動きの美学』を持ち込ん」

 まだブルーノさんがしゃべっているにもかかわらず、区切りの悪いところで熊人が無理矢理口を挟んだ。

「あいつには気をつけろ。妙ちきりんな技を使いやがるらしいからな。あいつが塞いでる道を一斉に追い越して、全速力で散れ」

 びし、と何かが軋む音がした。強化ガラスがヒビ割れて砕け散るように、ブルーノさんのところだけ空気が変わってる。

「妙な…技だと」わなっ、わなっ、わな。体が小刻みに震えてる。笑ってるんじゃ…ないよね…?「ワシが尊ぶべき師から直々に受け継いだ奥義、この門外不出、無上の縛縄術を…妙だと言うか………」

「とにかくフケろ!このままじゃポリ公の増援が来ちまう!」

 おおう!男達は熊人を先頭に、勇ましく…っていうのも変だけど、逃げ出した。

「小物どもめ、これ以上の恥はかかすまいと思ったが、どうやら温情を与えるに価しない連中のようだな。おとなしくしておれば天道のもと笑い者にもならずにすむところを、よくもワシの縛縄の麗技を虚仮にしおって!こうなれば往来で辱めてやる!!」

 最後まで聞くわけもなくマフィアの人達が「かったりい!」と小さな鳥人をまたいで街の方へ行こうと走る。

 うん、僕もブルーノさんが言いたいことがよく分からない。だけど、これだけは分かる。

 ブルーノさんは、魔法を使えるんだ!

 自分の帽子の上を通る男達、脇をすり抜ける面々の間で、空中であやとりするみたく「ほいほい、ほいほほほい」と指をさかんに動かす。すると、みるまに全員がズボンが脱げて足元がもつれ、すっ転んでしまった。中には、勢いパンツまで脱げた人もいる。カッコ悪!!

TADAジャーンー!」とすくい上げる両手の指先にはみんなのベルトが引っ掛かり、ヴァイキングの戦利品みたくガチャガチャと鳴っている。「さ、ノエ警察署へ案内しよう。ワシらが旨い昼飯を食う間、不味い飯と説教をたっぷりもらうがいいぞ」

 て、てめぇベルトを返しやがれ!と雪崩を打って…というかパンツを(それも脱げた人は大事なところを)押さえて情けなくぴょんぴょん跳ねながら再びブルーノさんに向かう男達は、返り討ちにあって、あえなくみんな自分のベルトを手枷足枷代わりに自由を奪われてしまった。

 うーん、あざやか!!僕も握りこぶしを上・下にぶんぶん振りまくる。

 ゴロンゴロンと転がる、野蛮人に狩られみたいなマフィアの人達、それからザンパノさんにボッコボコにされて血みどろ汗みどろの人達、どちらも少し可哀相に見える。

 だけど仕方ないよ。悪いのはマフィアの人達なんだもん。

 それにしても、2人とも…!

「…って、あ゛ーッ!このガキ、あれ程外に出るなって言ってんのに!!」

 ザンパノさん、こっち見て、すごい怒ってる。でも、僕は感動でどうしようもなかった。牛の大きさに慣れてきたのもあって(群れるだけでなんにもしてこないし)、白黒の背中をケンケンパの要領で飛びつないで、2人のとこまで行って拍手した。

「すごいすごいすごいすごい、すごいよすごい!」

「スゲーじゃねえだろ、俺様の言いつけをなんで守りやがらねえんだよ!殺すぞこのガキ!!」って、僕のシャツを破り胸の肉をえぐるぐらい鉤爪を出して迫るザンパノさん。

「凄いかね、ワシはそんなに凄いかね、小さな大将?」と、さらにそれを押しのけるブルーノさん。

「うん!もう、なんて言ったらいいか分かんないけど」ペンギン系のおじさんは目元が垂れて落っこちちゃうぐらいのニコニコ顔で僕の頭を撫でる。背丈が低くて、伸びをしながら、だけど。「まるで魔法みたいだったよ!あれ、なんて必殺技なの!?僕もやりたいよ!僕にもできる!?」

「もちろん。研鑽を積めば、誰にだってできる。よし、じゃあ小さな大将をワシの弟子にしてやろう」

 ほんと!?わぁい!!嬉しくて飛び跳ねる。

「盛り上がってるとこに水をさすがな、このチビガキ、てめぇなんかが一生かかったっておやっさんの足元にも及ばねえだろひゃんっ!!」

 ブルーノさんがザンパノさんの膝のあたりの生地を軽くつまんでいた。それだけなのに、ハスキーの大男が苦しんでジタバタしてる。

「な、なに?どうしたの?」

「小さな大将、この技の奥義は深いぞ。極めれば君は何キロも先の糸の先に命を吹き込み、繋がってさえいれば布でも岩でも樹木でも操ることができる」

「うわぁ、じゃあこれはザンパノおじさんのどこを結わえてるの?」

「ズボンのとある部分を少し、だな。シャツの方は生地が別だから何もできんが…」もう片方の手でシャツの裾をつまむ。と、ハスキー人の顔色が青黒く濁ってきた。「ほら、ここから喉を締め上げることだってできる」

「…っお、おやっさ…し、死ぬ…」

 おおすまん、やり過ぎたな。鳥人はゆったりと犬人を開放する。

「とんでもないとこ締めつけやがって、潰れたらどうしてくれんだよ…」

 ザンパノさんはひょいひょいと妙な腰つきで脂汗を流していた。

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