きみに会うための440円

新巻へもん

マルセイユへ

 島津大輔の髪の毛は逆立っていた。日頃は温厚で声を荒らげることもない。使用人が土ぼこりをおさめるため水撒きをしているときに、大輔にうっかり全身にぶちまけたときでも、笑ってすましたほどだ。

「うん、涼しくなった」


 その大輔が血相を変えて怒っている。歯を食いしばりながら一字ずつ押し出すように言葉を叩きつける。

「どうして、そんな勝手なことをしたのです。叔父上とはいえ、事と場合によっては容赦いたしませぬぞ」


 叔父の清志郎ほか一族の者たちは、日頃見せぬ大輔の気迫に圧倒されながらも、なんとか言葉を紡ぎだす。

「お前も島津本家の跡取りだ。その役目は分かっておろう」


「そのことと、エリスの件と何の関係があるというのです?」

「だからな、島津家に迎えるにはそれなりの家格というものが必要であろう。いくら裕福とはいえ、一介の商人。ましてや、えげれす人など……」

 大輔の怒気が膨れ上がる。


 エリスというのは、横浜のジェファーソン商会の支配人マクダネルの娘である。エリスが野犬に襲われて難儀しているのを大輔が助けて以来、大輔はマクダネルの家に招かれて客になり、二人は親密さを増していった。仕事の休みの日に、新橋から陸蒸気で横浜を訪ねていくのが大輔の楽しみになっている。


 エリスの秋空のような青い瞳を思い浮かべるだけで、若い大輔は煩悶として寝付けなくなることもあった。もちろん、二人きりで出かけることなど、ほとんどないし、手を握ったことすらない。それでも、大輔の心は決まっていた。我が伴侶を選ぶならば、この人しかいない。


 その胸中を誰かに語ることは無かったが、しょっちゅう横浜にいそいそと出かける大輔の気持ちは周囲に伝わっていた。公用で出張している大輔の留守中に、清志郎達がマクダネルとエリスを屋敷に呼びつけ面罵し、追い返したのだった。


 事情を聞いた大輔は、叔父達を難詰することに無駄な時間をかけることの無益さに思い至り、郵便局へ駆けつけエリス宛の電報を打った。

「モウイチドダケアッテハナシガシタイ ダイスケ」


 その返信が届き、大輔は紙面に目を走らす。その内容は大輔を落胆させるに十分だった。エリスは傷心のまま、既に帰国の途についたという。大輔は書斎の戸棚の一番上の引き出しを開けると、今まで貯めた給金を引っ掴む。その足で日本初のヨーロッパ便、マルセイユ行きの便があることを新聞で読んで知っていた船会社に駆け付けた。


 440円、約2年分の給金に相当する金額をカウンターに乗せ、大輔は係員に言う。

「マルセイユまで一等船室をお願いします」

 大輔の心は早くもエリスの元に飛んでいた。


 ***


 そして、120年後。


 横山健吾は改札を通り抜ける。自動改札の表示は残金1260円。元々1700円入っていたので、440円が引かれた計算だ。改札を出たところで、由紀が出迎える。今日は由紀の祖父に挨拶に行くことになっていた。


 ちょっと歩いて広壮な屋敷の前で立ち止まる由紀に健吾は絶句する。

「えーっと」

「なに怖気づいてんのよ。大丈夫だって。おじいちゃん、優しい人だから」


 客間に通されて、挨拶をする。由紀の祖父、島津大樹は100歳近い年齢だったがまだ矍鑠としていた。

「由紀さんとの結婚、お爺様にも祝福していただきたく参上いたしました」

 古めかしい言い回しになったが仕方ない。相手は大正生まれだ。


 大樹は厳しい顔をした。

「もし、許可せぬと言ったらどうなさる?」

「その場合でも、私の意志は変わりません」

 時代はもう令和だ。相手の親族の許可をもらいに来るというだけでかなり時代錯誤感はある。それでも健吾は、由紀の敬愛する祖父にも祝って欲しかった。


 日本人としては色素の薄い瞳を細めて、大樹はくつくつと笑う。

「私の父は、母を妻に迎えるためにはるばるヨーロッパまで出かけたそうです。周囲の反対を押し切って」

 一度目を閉じた大樹は再び目を開く。


「いいでしょう。あなたの覚悟、私の生ある限り見届けさせてもらいます。孫娘をよろしく」

 喜色を浮かべる由紀と健吾に大樹は穏やかな視線を向けていた。いつの時代も好きな相手への真剣な思いは変わらない。元号が変わろうとも、貨幣価値が変わろうとも。


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