揺れる心

第227話

「けじめ……?」


 アルフェが小首を傾げて聞き返したのは、彼女が世間知らずで、「けじめ」という単語の意味が理解できなかったから――ではない。冒険者として放浪しているあいだ、アルフェはその単語を何度も耳にした。冒険者組合にも、破ってはならない「掟」や「しきたり」を破った者に、組合の面子をかけて「けじめ」を取らせるという風習がある。


「……そうだ。あの女は我々の一員だ。つまり、あの女の命は我々のものだ。無条件で解放できるはずがない」


 アルフェの前に立っている男は、陰気な声で呟いた。


「なるほど……」

「…………」


 この暗い下水道の中では、向かい合って喋っているはずの相手の表情すらよく見えない。しかし、男の返答を受けた瞬間、アルフェの小柄な身体が、二回り以上も大きくなった気配がした。

 そんなアルフェの口から、一言一言、やけに丁寧な言葉が発せられる。


「つまり……あなた方は……、これでも、まだ、足りないと?」

「ぐ――ゲっ!」

「うごっ――!」


 鳥がひねられたような奇声を漏らしたのは、アルフェの正面にいる男ではない。それは、その男とは別の――アルフェに喉首を捕まえられて、下水道の煉瓦壁にめり込むくらいの力で押し付けられている男と、アルフェの足元にうつぶせで這いつくばり、彼女の靴底に心臓を背中から踏みしめられている男の悲鳴だ。

 ――今日は、穏便に交渉するはずじゃなかったのか。明らかに怒っているアルフェの背後で、そこに控えているフロイドは、心の中でこめかみを抑えた。


「……ア、アル、お、お、お嬢様…………」


 フロイドの隣では、死霊術師のメルヴィナが狼狽している。なんだかんだ、フロイドはアルフェのこういう行動に慣れているが、メルヴィナはそうではない。


 ここは、帝都の地下に張り巡らされた下水道の一角だ。アルフェたちはそこで、浮浪者じみた格好の、十人以上の男たちと対峙している。いずれも下水の匂いが染みついた襤褸切れを身にまとい、全身が垢にまみれている。どう見ても本物の浮浪者としか思えない。この男たちが、あの暗殺者ギルドの構成員だとは、事前に聞いていなければ、とても想像がつかない。

 本日の“会談”は、ゲートルードの事前交渉によって実現した。話し合いの目的は、アルフェが帝都の路地裏で助けたノインという女を、正式に暗殺者ギルドから脱退させることだ。

 しかし、そもそも暗殺者ギルドには、表のギルドと違って「脱退」という概念が存在しない。構成員が組織を抜けられるのは、死んだときだけ――。勝手に組織を抜けようとする者には、息の根を止めるまで追手をかけるのが彼らのしきたりだ。話し合いがすんなりいくとは、アルフェも考えていなかった。


 ――ですが、正面きって敵対するのは避けたいですから。くれぐれも、短絡的な手段に訴えるような真似は慎みましょう。わかりましたね?


 交渉が始まる前、フロイドにそう釘を刺したのもアルフェだ。そのはずだったのだが――


「ならいっそ……そんなに“けじめ”とやらが欲しいなら……、いっそこのまま、最後まで私が……」


 交渉の途中で激昂したアルフェは、瞬く間に数人のギルド構成員を叩きのめし、この通りの有様になっている。壁と地面にめり込んだ男たちから、ミリミリと骨が軋むような音が漏れる。それが致命的な響きに変わる前に、フロイドがアルフェの前に出た。


「――貴様らの要求を叶えれば、もうあの女に手は出さんと誓えるか?」

「――――!」


 膨れ上がる一方だったアルフェの闘気がしぼんでいく。下水に満ちていた「圧」が、いくらか柔らかくなった。それと同時に、アルフェに踏みつけられていた男が、ゲホゲホと激しくむせた。どうやら、一時的に呼吸が止まっていたらしい。

 自分が我を忘れていたことに気付いて、アルフェはうろたえた表情をしている。そんな彼女を交渉相手の男から隠すような位置取りで、フロイドは敢えて強い口調で喋った。


「誓えるなら要求を呑もう。貴様らは何を望む?」


 フロイドの背中に隠れて、アルフェは頭を振り、冷静さを取り戻そうと呼吸を整えている。


「――ただし、貴様らの代わりに、誰かを闇討ちしてこいとかいう願いは御免被るがな。それを要求するなら、我が主の言葉通り、最後までやり合うことになるぞ」

「…………」

「――返答は? さっさと答えろ」



 フロイドが低い声で凄むと、しばし考えるそぶりを見せたのち、正面の男が口を開いた。



「ごめんなさい、フロイド……」

「…………」


 下水の暗闇を抜けると、待っていたのは夜の暗闇だった。

 暗殺者ギルドとの交渉を終え、酷い匂いのする下水から這い上がると、開口一番、アルフェはフロイドに謝罪した。フロイドは言葉を選んでいたが、やがて肩をすくめると、軽い調子でとぼけてみせた。


「はて、俺は何か、貴女に謝られることがあったかな?」

「さっき、私が……」

「――さっき、誰か暴走した娘がいた気がするが、その娘が勢いに任せて突っ走るのは、毎度のことだしな」

「…………」

「それに俺が振り回されるのも、毎度のことだ。もういい加減、慣れた」

「……怒っていますか?」

「――ん?」


 フロイドは軽口を止め、アルフェのほうを見た。アルフェはしょげていると同時に、フロイドの顔色を窺うような眼をしている。その瞳の中に、アルフェの「不安」を読み取ったフロイドは、回りくどい言い方をせず、正面からはっきりと口にすることにした。


「怒っていない。本気で迷惑だと思うなら――きっと俺は、とっくの昔にここにはいない」

「……本当に?」

「ああ」

「……ありがとうございます」


 少しだけ表情を和らげると、アルフェはフロイドに礼を言った。「どういたしまして」とフロイドが言うと、アルフェは微笑んでみせた。だが、彼女はそれからすぐに沈んだ表情になり、ぽそりと呟いた。


「最近、気持ちが思うように抑えられないんです。色んなものが、すぐに胸から溢れそうになって。……我慢しなければならないと、わかっているのに」


 さっきの暗殺者たちとの交渉の中で、アルフェが突然我を忘れるくらい激昂してしまったのも、胸に溢れる怒りが止められなくなったからだという。今日のことに限らず、アルフェの感情の振れ幅が徐々に大きく、不安定になっていることは、フロイドも感じていた。それはやはり、彼女にかけられていた心術の枷が弱まっている証拠なのかもしれない。


「怖いの……」


 普段は恐れを口にしないアルフェが、自分自身の感情の揺らぎに対する恐怖を呟いた。心なしか、肩が細かく震えているような気さえする。それに対し、フロイドが何かを言おうと口を開いたところで、二人の横から別の人間が割って入った


「あ……あの……」


 メルヴィナだ。彼女は今まで、そのやり取りの内容が聞こえない距離で、アルフェとフロイドの様子を黙って見守っていた。しかし、ここは下水道の入り口で、いつまでも立ち話をする場所ではない。痺れを切らして話しかけてきたのだろう。


「――ごほっ」

「…………」


 フロイドは軽く咳払いをし、アルフェは目を伏せて黙り込んだ。なんとなく、バツの悪い空気が流れる。


「……も、申し訳ありません」

「別に、申し訳も何も……。そうですね、取りあえず、この場を離れましょうか」


 そう言ったときのアルフェは、既に普段の調子を取り戻したように見えた。

 “敵側”の捕虜であるはずの彼女を、何を思ってか、アルフェはこんなところまで連れ回している。一応は「逃亡を防ぐため」という理由を付けていたが、それこそ本気だろうかとフロイドは疑っていた。では、それ以外のどんな意図があるかと問われると、それは分からないのだが。

 それからアルフェたちは、何者かに尾行されていないか警戒しつつ、拠点にしている家に戻った。家にはゲートルードとノインがいて、アルフェたちの帰還を待っていた。


「アルフェお嬢様、フロイド様、お帰りなさいませ」


 侍女の格好をしたノインは、出迎えの言葉に続いて、「お風呂の用意はできております」と言った。下水道に長時間滞在すれば、どう気を付けても臭気は残る。そして、その臭いで、ノインはアルフェたちがどこへ何をしに行っていたのか悟ったはずだ。しかし、彼女は何も聞こうとはしなかった。この件に関しては、彼女はアルフェたちを信頼して、全てを委ねてしまうと決めたようだ。


「ゲートルード、何か変わったことは?」

「特には。……いえ、そう言えば、パラディンのロザリンデ・アイゼンシュタインと、シモン・フィールリンゲルが、近々婚約披露のパーティーを開くそうです」

「まあ、それはおめでたいことですね。他には?」

「他には何も」


 そんな風にアルフェとゲートルードが話している傍で、フロイドはノインに話しかけた。


「気になるか?」


 全てを委ねるといっても、ノインの目には、やはり不安の色があった。だからフロイドは、ノインの肩を柔らかく叩いて、落ち着いた声で言った。


「大丈夫だ、上手く行く。心配しなくていい」

「フロイド様……」

「私は先にお風呂をいただきますね」

「あ――」


 アルフェがやけにはっきりとした声で宣言したので、「お世話いたします、お嬢様」とノインが言った。


「要りません。子どもではないですから。それよりフロイド、あとで私の部屋に来てください。今日の件について相談があります」

「わかりました」


 そして、浴室のほうに向かったアルフェに続いて、フロイドとノインも自室やキッチンのほうに移動した。



「ちょっと意外でしたね。あの人たちが何を要求してくるかと思えば、お金とは」


 自室のベッド脇に腰掛けながら、アルフェは首を傾げた。彼女の髪は、まだ完全には乾いていない。髪を灰色に染めていた染料が落ちて、濡れた銀の髪が眩しいほどに輝いている。


「確かに、それは俺も思いました。金でケリをつけさせてくれるなら、それに越したことはないが……」


 フロイドが言う。彼はドアのすぐそばに立って、簡素な部屋着姿のアルフェを見下ろしている。浴室で下水の臭いを落としたのは、フロイドもアルフェと同じだが、彼は主人と違い、しっかりと服を着こんでいる。

 結局、脱走したノインを見逃すのと引き換えに、暗殺者ギルドがアルフェたちに要求したものは、それなりにまとまった額の足抜け金だった。それを聞かされたときのアルフェたちの感想は、次のフロイドの言葉に集約されていた。


「てっきり、金や命より、面子を優先する奴らかと思っていた」

「それも金額の多寡による……、ということでは?」

「それにしては額が少ない」


 少ないと言っても、その額は、例えば娼館に売り飛ばされた女を身請けしたりするときよりずっと多い。平民や、並みの冒険者では到底稼ぐことができない金額だ。しかし、それが御伽噺にもうたわれた闇のギルドのプライドと引き換えにするに足る金かと考えると、首を傾げざるを得ない。アルフェもその点は同意した。


「まあ……そうかもしれません。なら、それはどうして?」

「俺が考えるに……」

「考えるに?」


 一度は言いよどんだが、アルフェに先を急かされて、フロイドは続きを喋った。


「俺が考えたのは、奴らは帝都を捨てる気なんじゃないかということです」

「捨てる? 帝都を?」

「飛躍した発想かもしれないが、そんな気が」

「……根拠は?」

「ノインによれば、そもそも奴らの――暗殺者ギルドの中で内紛が起こっているという話だった。前の頭が死に、その後を巡って混乱が起きていると。それでノインは脱走を決意したわけだが……、今日話したあいつらも、逃げ出したい気持ちはノインと同じなんじゃないか? そんな気がした」

「つまり、私たちがお金を渡せば、あの人たちはそれを、帝都を脱出するための逃亡資金の足しにすると?」

「悪名高いギルドの構成員にしては、今日の奴らは妙に弱気だった。それは貴女も感じたのでは?」

「…………」


 アルフェはあごのあたりに手をやって、確かに、という顔をしている。


「本当のところがどうなのかは、想像するしかないですが。だがいずれにしても、この件については、早く片を付けたほうが良いと思う。悪戯に長引かせれば、貴女の本来の目的にも差し支える」

「……そうかもしれません」

「それとも、金を渡して奴らの利になるのは、やはり躊躇われるとか? しかし、それはある程度は仕方ないと思うんだが」

「……まあ、そうですね」

「――? アルフェ? 大丈夫か?」


 フロイドがそう言ったのは、彼がアルフェに普段と違う雰囲気を感じ取ったからだ。いつもなら、決めるべきことはさっさと決断してしまう娘なのに、今夜は妙に歯切れが悪い。


「大丈夫です」


 そう答えはしたものの、やはりアルフェは上の空というか、視線が宙をさ迷って、どこかぼんやりしている。フロイドが、本当に大丈夫なのかと問おうとしたとき、アルフェは上の空の表情のまま、ぽろっと呟いた。


「……そんなに、早くあの人を安心させてあげたいんですか?」

「…………は?」

「…………え?」

「…………」

「…………え?」


 それはアルフェがいつも発する皮肉と同じようで、何かが違っていた。フロイドはもとより、アルフェ自身も、自分がどうしてそんな台詞を口にしてしまったのか、わかっていない様子だった。


「ち、違います、今のは――」


 アルフェは慌てて取り繕おうとしたが、適切な言葉は見つからなかったようだ。彼女は悄然とした様子で項垂れると、「忘れてください」と、蚊が鳴くような声で呟いた。

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