後編
「でも、あれは事故だったんだ。あの日、ケージの鍵が開いていたのは本当だよ。現にあいつは脱走して、家の前の道路に出てた。俺は部活を終えて帰ってくるところで、疲労と薄暗さでそれに気づくのが遅れたんだ。で、変な感触を感じたときにはもう遅かったよ。避け切れずに、ボッシーを轢いてしまった。アスファルトの上で、あいつの首やら足やらは変な方向に向いてた」
「仮に、その話が本当だとして。じゃあ、あの腹の傷はなに」
「焦ったよ。ボッシーを殺してしまった。俺だってそれなりにかわいがってたし。だから、やってるときはすごく辛かった。佳枝のためだったんだよ。知らない誰かが、例えば車に乗った誰かが殺したってほうが、気持ちや恨みも収めやすいだろ。優しいお前のことだから、俺がボッシーを殺したやつって知ってしまったら、発散できなくなってそれに押しつぶされると思ったんだ。だから俺は『すごい事故感』を出すために、筆箱に入ってたはさみとカッターで」
隆が優しく私の頭をなで、なにかをこちらにささやいている。内容はなにひとつ頭に入ってこない。口腔から放たれる肉じゃがの残り香だけが、ぼやけた意識の中で鮮明に輝いている。
昔の思い出。つらい思い出。忘れたい思い出。経験としてしまい込んでいたはずのそれに、新たな意味が染み込んでいく。気がつくと私は、隆の腕を床に叩きつけて立ち上がっていた。今度は、私の影が彼をすっぽりと覆っている。なんだ、私だって結構、身長高いじゃないか。
「なんだよ。なんだよなんだよその顔は。たしかに黙ってたのは悪かったよ。佳枝、動物好きだもんな。飼育小屋のにわとりが死んだときも号泣してたし、クラスの男子がアリとかカブトムシの足をちぎって遊んでたときも本気で止めに入ってたしな。でもさ、だからこそだよ。こうするしかなかった。こうするしかなかったんだよ」
彼の必死の言い訳を聞いても、なにも話す気が起きない。倦怠感が、ふわふわと頭を覆っていた。その場に立ち尽くしたまま、私は視線だけを机上のボッシーに移す。彼女だって、こんな汚い姿をずっと見られていたくはないだろう。私は段ボールに手をかけた。
「そうか、そうなのかよ。そういうことなんだな、そうなら」
その動作が、隆の中のなにかを刺激したらしい。ボッシーの傍らのおがくずめがけて、彼の腕が伸びてきた。まるで最初からそこになにかが埋まっているのを知っているかのような手つきで腕が動くと、彼のてのひらがなにかを引き上げてきた。あっ。それを見て、思わず声が漏れた。
「じゃあ、これはどういうことだよ。さっき端っこがちらりと見えたんだけどさ」
隆が掴むおがくずまみれの写真には、私と、隆ではない男が写っていた。お互い中学の制服を着ている。地元のショッピングモールのフードコートで撮影されたものだった。『このあとは、オタノシミ♡』という下品な文字が、その上にペンで書かれていた。
「なあ、お前彼氏は俺が初めてって言ってたよな。なのになんで、なんでよりによって」
お前と俊平が、付き合ってたんだよ。隆の顔が、ボッシーに触れたときとは別の質感に歪んでいく。私の胸に去来していた怒りと倦怠感が、一瞬でどこかへと消えていった。自分の背も、少しずつ縮んでいく感覚がした。
「俺、そんなふうに見えたか。別に俊平と付き合ってたのがいけないって言ってるわけじゃないんだよ。それは人生経験だろ。俺だってあるし。でもさ、なんで嘘ついたの。『初めてなの』って。処女じゃなきゃ、俺が嫌がるとでも思った? 気持ち悪がるとでも思った? なんか、なんかさ、そういうのってさあ。頼む、答えてくれ」
「ち、違う。違うの。あ、あああっ、なんか気持ち悪いねこれ、ふふ、ねえ早く捨てないこれ。もう嫌だ。こんなの一秒も置いておきたくない、家に。ああでもその前に、あいつんちにこれ、送り返さないとか」
「答えになってない」
「ふ、不安だったの。隆はそんな人間じゃないって思ってたよ。でも男って、そういうこと気にするのかな、って考えたら止まらなくなって。隆の、ためだったんだよ。だから」
「お前が気持ちよくなりたかっただけだろそれ。自分のせいじゃない、相手のせいだって、お前の頭の地獄勝手に擦り付けて。そんなの、話してくれればよかったんだよ。俺に」
テーブルの上にそっと写真が置かれる。かりかり、というかすかな音。隆が俊平の顔を、爪で激しく引っかいていた。彼の顔に刻まれていく凹凸が、照明に照らされ浮き彫りになっていく。
「隆、そんなこと言っちゃうんだ」
彼がゆっくりと、こちらを向く。私の放った言葉が部屋に溶け切る前に、私たちはほぼ同時に動き出していた。ボッシーの死体と私の写真が宙を舞う。女の腕と男の腕が、それぞれ段ボールの中をほじくり返し始めた。
「お互い様だろそんな」
「そうだよお互い様だよ。同じだよ」
いつもなら決して外に出てこないような汚い言葉をぶつけ合いながら、私たちは一心不乱に箱の中を掘り続けた。行けなかった遊園地のチケット。どこかのレストランの領収書。昔私がはまっていた小説。隆がいきがってむせながら飲んでいたウイスキーの瓶。いくら掘り返しても車海老は姿を見せず、出てくるのはどこかで見覚えのある物品ばかりだった。かき出されたおがくずの山が机に乗りきらなくなり、床にこぼれ落ちていく。それでも、箱の底はまったく見える気配がない。むしろ、どんどん深くなっている気がした。隆が、肩の辺りまで腕を突っ込んでいるのが見える。私もそれに負けじと腕を突っ込むと、中で皮膚と皮膚が触れ合った。その雄の肌に、私は思い切り爪を立てて下に引いた。
ちまちまと腕を突っ込むより、もういっそ中に入ってしまったほうがいいかもしれない。そう考えたのは彼も同じだったようで、私たちは机の上にのぼり、お互いに足をおがくずへと埋没させた。しかし大の大人二人が胸に抱えられるほどのサイズしかない箱の入口を通れるはずもなく、太ももの辺りがぎちぎちに詰まってしまった。
「隆、どいてよ」
「佳枝がどけよ」
おがくずの中で、私たちはお互いを蹴飛ばし合った。箱の端がたわみ、徐々に亀裂が生じ始める。
しかし、私たちはそこではっと我に返った。怒りがしぼんだわけではない。玄関のチャイムと、扉をノックする音が聞こえた気がしたのだ。
「ねえ、今」
蹴り合いを中断し、お互いに顔を見合わせる。罵声がやむと、部屋はとても静かだった。気のせいだったのかもしれない。そう考え直した瞬間、今度ははっきりと「あの、ごめんください」というくぐもった声が聞こえた。私は箱から足を抜くと、おがくずを払いながら急いで廊下を駆け、ドアを開けた。だがそれは、腕一本が通るか通らないかぐらいまでしか開かなかった。なにかがつっかえてしまったかのように、いくら押しても手ごたえがない。まるで、誰かが向こう側から押さえつけているかのようだった。
「あ、すみません夜分遅くに。あ、別にお迎えいただかなくて結構ですんで。ええ、ドアですドア。そのままでいいですから」
妙に元気そうな女性の声が、扉の隙間から玄関に差し込んでくる。聞き覚えのない声だった。
「あの、失礼ですがどちら様で」
「あ、ああすみません、私としたことが。下の階に住むものです。初めまして」
「あ、ああ、これはどうも、初めまして。あの、それで」
お名前は? そう聞こうとして、私は言葉を詰まらせた。ドアノブを握る手の横に、突然女の顔が姿を現したのだ。ドアの隙間のぶんだけ細切りにされたそれには、脂ぎった鼻、やたらに赤い唇、ぎょろぎょろとよく動く目玉が備えつけられていた。
あ、こちらは私の夫です。彼女の口がうごめくと、今度は頭の上に男の顔が現れた。どうもこんばんは。抑揚のない声がくすんだ色をした唇から発せられる。鼻の頭はかさついていたが、目玉だけは彼女と同じく妙に水分を湛え、せわしなく動いていた。
「いや、本当にごめんなさいねこんな夜分に。あの、これを渡したくって。作り過ぎてしまったの」
タッパーを持った腕が、震えながら差し込まれてくる。ためらいながらも受け取ると、中には表面に黒い粒がまぶされたえんじ色のものが入っていた。
「ビーフジャーキーです。赤身ブロックが安くてね、ここ数日は天気もよかったし作ってみたの。自作できるんですよ。奥さんはご存知かしら? でも、私も夫も大好物とはいえちょっと量が多かったみたいなの。だからおすそわけ」
ここ最近は、ずっと雨が降っていたはずでは。その言葉を飲み込みながら、私は笑顔でタッパーを受け取った。薄くカットされた肉の塊が、手の動きに合わせてかたかたと揺れた。
わざわざありがとうございます。後日、またお礼に伺いますんで。そう言ってドアを閉めようとしたが、タッパーを手放した彼女の腕はまだ扉の隙間に居座っていた。男のほうの腕も、ぐねぐねと動きながら差し込まれてきた。双方の目玉は、水音が聞こえてきそうなほどに激しく動いている。苦笑いしながら後ろを振り返ると、いつの間にかリビングやダイニングに通じるガラス戸は閉じていた。隆が閉めてくれたのだろう。そのことに少し安堵する。
「すみません、うるさかったですよね。ギャーギャー騒いで」
「あ、ええ、ええ? そんなことはありませんでしたよ」
「いや、でもけっこう床をどたばたやってしまいましたし」
「そんな、そんなことなかったわよう。私たちはただ、ビーフジャーキーを。ね、貴方ね」
「はい」
「いえいえ、本当にすみません。その、実家のほうから活き車海老が送られてきまして。私も夫も初めての経験で、海老が暴れまわったり箱から飛び出してきたりしてびっくりしてしまって。今後、こういうことはないように致しますので……」
「あ、車海老、ですか。なるほどね、車海老。車海老か……そうなんですね。いやあすみません、夫が勝手な勘違いを。ちょっと聞いてくださる奥さん、この人ったら『喧嘩してるに違いない』とか言い出すもんですから。本当にこの馬鹿は」
「すみません」
「ははは」
彼女たちの目や腕は、話している間もずっとうごめいていた。私のズボンに残ったおがくず。乱れた髪の毛。ガラス戸の向こう側。そこに示されたものをなんとかして掬い上げようと躍起になっていた。
「ごめんなさいね、本当に。ほら最近多いじゃない、ドメスティック、あの、ほらあれよ、ドメスティックなんとか。奥さんがそれに悩まされているのだとしたら嫌だなあって。奥さんが、ね。こんなに線がほっそりした方が、男に勝てるわけがないのよ。それにしても細いわね。ちゃんと食べてるの」
「は、はあ」
「あらいけない。長居してしまったわ。勝手な勘違いで、本当にご迷惑をおかけしました。活き車海老だけどね、てんぷらにして食べるのがいちばんおいしいわよ。生はなんか気持ち悪いからおすすめしないわ。一度、お腹を壊したことがあるの。あなたたちもきっとそうなると思うわ。では、失礼いたしましたおやすみなさい」
先ほどまであんなに粘着していたのに、返事をする間もないまま、彼らの目玉と腕はドアの向こう側に消えていった。僕のせいにするなよ。うるさいわね。言い争う声がしばらく聞こえていたが、それもじきに薄まっていった。扉を閉め、チェーンと鍵をかけてダイニングに戻る。箱から足を引き抜いた隆が、無表情で椅子に座っていた。机上の写真は、いつの間にかびりびりに破られていた。
「なんだったの」
「知らない。変な人」
「そう」
机上のおがくずを手で払い、私は椅子に座って携帯を開いた。ツイッターを開き、沼の底のような文章をひとしきり眺めた後、私は台所に行って冷凍庫を開けた。製氷皿の氷をボウルに落とし、そこに水を張って持っていく。
「なにそれ」
「隆が帰ってくる前に調べてたの。下ごしらえする前に活き車海老は氷水につけて仮死状態にするんだって」
「え。食べんのこれ。てか本当に入ってるの車海老」
彼はけだるげに椅子から立ちあがり、箱の中をのぞき込んだ。ゆっくりとおがくずを払っていくと、あれだけほじくり返しても出てこなかった縞模様の殻は、あっさりと姿を現した。
「こんなふうに入ってるんだ」
「え、面白いなこれ。俺にもやらせて」
私の手と隆の手が、それぞれ車海老を掘り起こしていく。宝探しみたいで、なんだか新鮮な驚きがあった。すべてを掘り出して氷水に漬け終えると、箱の中はおがくずのみになった。端のほうには、箱の底ものぞいていた。
「うまそうじゃん」
「生で、食べようね」
「うん」
なんか疲れたな、お風呂入ってくる。隆はそう言い残し、軽やかな足取りでお風呂場へ向かっていた。その背中を見送り、車海老に視線を移す。みずみずしい緻密な肉と濃厚な甘みを思い浮かべて舌なめずりをすると、私はソファーの上に携帯を放った。二回ほどバウンドし、クッションの陰にそれは落ちる。窓を覆う砂色のカーテンを引き開けると、切れ切れの雲が浮かぶ夜空を、月明りが薄くコーティングしているのが見えた。
車海老の家 大滝のぐれ @Itigootoufu427
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