車海老の家

大滝のぐれ

前編

 気がつくと、クイズ番組は終わりに差し掛かっていた。有名人やお笑い芸人を乗せたトロッコが、ゆっくりと谷底に落ちていく。ゲームオーバー! というナレーションと共に『ゴールドコースト』という単語と地図が画面端に現れ、芸人のひとりが「そっちかー」と言って頭を抱えた。なにを問うていたのかは、景色のようにぼんやりと眺めていたせいで思い出せない。考えることを諦めてテレビを消し、私はダイニングテーブルの上のお皿を台所へと運んだ。


 菜の花のお浸しや肉じゃが、もち麦ご飯や納豆。それらが入っていたいろいろな形状の器を、ぬるいお湯と洗剤の泡へ順繰りにさらしていく。時刻は二〇時に差し掛かるころだろうか。あと一時間半もすれば、不潔で淀んだ電車の臭気を背負いながら、残業を終えた隆が帰ってくる。今しがた座っていた席の向かいにどっかりと腰をおろし、襟を締め上げるネクタイを緩めて息をつくその背中に、私はお帰り、お疲れ様と声をかける。それがいつもの流れだった。でも今日は、その光景を想像するたびに体が粘つくように重くなった。お湯をかけて指で強めにこすればすぐに落ちる納豆の糸を、私は引き伸ばすかのごとくゆったりとした動作で洗い流していた。そんなことで、彼の帰宅が遅くなったりなくなったりすることはないのに。


 別に、隆のことが嫌いなわけではなかった。でもとにかく、今日だけは玄関のドアがいつも通りに開いてほしくなかった。


 しかしそんな願いもむなしく、きっかり一時間半後に彼は帰ってきた。ただいまー、という声の後、足音がこちらへ迫ってくるのがわかった。私はなめこのお味噌汁をかき回しながら、ダイニングへと吸い込まれる彼に「お帰り、お疲れ様」と声をかける。鍋の様子を見ながら目をやると、いつも通りくたびれた様子の彼が定位置に座っていた。営業の仕事をしているため髪やひげはきちんと整っていたが、顔や立ち振る舞いには隠し切れない疲労の色が濃い。もともとのきつい目鼻立ちも相まって、『前科者』と言われても信じてしまうような気がした。


 瞬間、私は自分でしたその想像に動揺し、思わずお玉を取り落としてしまった。お味噌汁が少しだけ跳ね、てのひらにかかる。熱っ。小さな声が歯の隙間から漏れた。


「ちょっと佳枝大丈夫」

「うん平気。ちょっとお味噌汁跳ねちゃっただけ。もうすぐご飯できるから待っててね」

 安心させるようにそう言うと、彼は座った際に点けたテレビに視線を戻した。またクイズ番組のようだった。前科者。無意識とはいえ隆の姿をそう表現したことに、一抹の不安を覚える。


 先ほど食べていたものの残りと、新たにこしらえた西京みそ味の鮭の切り身とお味噌汁を、器に盛りつけダイニングへと運ぶ。うわあ、今日もおいしそうだね。彼の弾んだ声を背に受けながら、私は台所へ戻ってインスタントのチャイを淹れる。甘ったるくて香ばしい湯気を吸い込みつつ、すでに料理へと箸をつけ始めている彼の前に座る。血色のいい唇が、もごもごと動いていた。


 私と隆が結婚して、もう三年が経とうとしている。最初は分担して日替わりでおこなっていた料理も、私の転職を機に完全にこちらの担当になってしまった。かたや家から十五分歩いた場所で定時退勤。かたや一時間も電車に揺られ、ほぼ毎日残業。不満がないわけではなかったが、まあ妥当だろうなとは思う。でも面倒くさいという気持ちは完全には拭えず、隆が遅くなる際は自分の晩ご飯は昨日の残りものやインスタントラーメンなどで適当に済ませていた。生活サイクルの異なる人間ふたりのご飯を別々に作るための精神力は、私にはない。そのことに関して彼に文句を言わせるつもりもない。


 同じテーブルに着いたこの状態で、私たちはいつも他愛のない話をする。内容はお互いの職場の愚痴や見聞きしたニュースについての話題がほとんどで、例に漏れず今日もそんな雰囲気で食事の時間は過ぎていった。だが、私はその間中、ずっと落ち着けずにいた。隆が食物を飲み込む合間合間でなにかを話しているのに、その光景は無声映画のように映り、動作のみが頭に残った。そのため、先ほどのテレビと同じように、私は内容を思い出せないまま食器を洗うはめになった。


「なに、じろじろ見て」

「な、なんでもないよ」

 そう言って、慌ててダイニングから目をそらす。台所で作業しつつも、彼のことを視界から外さずにはいられなかった。いつ彼が『そのこと』について言及してくるのか、気が気でなかった。そうしたら、私は説明しなくてはならない。事の経緯を、話さなくてはならない。それは大変に苦痛を伴うことだろう。


 食器を片づけ終えると、私は先ほどの席に戻って携帯を開いた。ツイッターのアプリを立ちあげると、いくつもの配偶者に対する罵詈雑言が帯状に連なっていた。『賞味期限切れの卵をこっそり食わせたら、お腹痛いって言ってる。ざまあみろ』『ゴミ出し、洗濯物の取り込み、息子の送り迎え。やってるからって偉そうにすんなよそんなの当たり前だから』『誰かこの大きな粗大ごみを早く回収しに来てください』。結婚してすぐのときに取得したりんごさんという名前のアカウントは、こういったツイートをただ眺めるためだけの装置と化していた。かといって、自分がこういうことをつぶやきたいとも思えない。それなのになぜか、名前も知らない誰かの無軌道な怒りに私は体のあちこちを掴まれ、はりつけにされていた。心のどこかほったらかしにしているところをぐりぐりといじられるような感触が、同時にすることもあった。


「俺、着替えてくるね」

「お風呂湧いてるよ。もしあれなら先入っちゃえば」

「いや、いい。もしあれだったら佳枝先に入ってもいいよ。疲れてるでしょ。それに今日は入浴剤入れる日だし。一番風呂、どうぞ」

 隆が横を通り過ぎ、部屋着のしまわれた寝室へと向かっていく。私はそちらには目を向けず、隣に置かれた同じ形の椅子を引き、その上に乗ったものを凝視した。どうしよう。今のうちにちゃんと隠してしまおうか。というか、隆が帰ってくる前に片づければよかった。本当に、こういうことに関しては昔から頭が回らない。お言葉に甘えて、お風呂に逃げ込もうか。いろいろな考えが浮かんでは消える。隆が帰宅する前に抱いていた不安感が、再びむくむくと膨らんできた。とにかく、行動を起こさなくては。


「そう、それ。さっきから思ってたけどなんなの」


 自分の周りがすべて静止した気がした。しかしそれはほんの一瞬のできごとで、次の瞬間には堰を切ったかのように顔の毛穴という毛穴から一気にぬるつく汗がにじみ出た。隆の影が、座り込む私を飲み込むかのように覆いかぶさっている。


「こ、これは」

 言い訳が頭の中でいくつも組み立てられ、そして消えていく。どれもお粗末すぎて、隆が信じてくれるとは到底思えなかった。もう、観念するしかなかった。私は椅子の上に載っていたそれを机の上に移動させ、その勢いのまま隆のほうを振り返った。彼のくっきりとした二重と、墨を塗りつけたかのような隈と目が合う。喉につっかえるようなものを感じつつも、やっとの思いで口を開く。


「荷物が、届いたの。これなんだけど」

 私が指差した机の上には、海の上にかかる大きな橋がある光景と、氷の上にあげられた車海老の写真がそれぞれ印刷された段ボールが置かれていた。その上にはでかでかと『活き車海老』という筆文字が躍っている。


「なんだよ、ただの車海老じゃん。晩飯で出してくれればよかったのに」

「ごめんなさい」

「俺、生の車海老って食べたことないんだよね。明日出してな。よろしく。あ、ところで誰が送ってきたの?」

「それが、わからないの」

 自分で発した言葉のはずなのに、自分で出したとは思えないような無機質な声色だった。これが届いたのは仕事から帰宅してすぐのことだったが、差出人の欄は空白のままだった。気づいたのは宅配便の人が行ってしまった後だったため戻すわけにもいかず、なぜか何度も運送会社のほうに問い合わせの電話をかけても、話し中の状態が永遠に続いていた。そのため、しぶしぶここに置いていたのだ。


「え、なんだよそれ。お隣さんと間違えたんじゃないの。あ、でも住所はうちだな……」

 隆の骨ばった手が箱の表面をなでるのを、ため息と共に眺める。正体不明の人物からの荷物というだけで終わっていれば、ただ単に車海老を捨てるだけでよかった。


 でも、そうではないのだ。私はこのことについて、語らなくてはいけない。いや、彼に、質問しなくてはならない。


「どうして」

 段ボールは、住所はうちだし、ということで好奇心に負けた私がすでに一度開封していた。そのため、隆のてのひらは難なく蓋を開けてしまう。その中に収められていたものを、ダイニングに出現させてしまう。呆けている彼に、私はにじり寄っていく。


「ねえ。本当なの、これ」

 おがくずにまみれた、うさぎの死体。潰れたように裂けた腹から内臓がはみ出し、首や足があらぬ方向に折れ曲がっているそれの傍らには、罫線つきのメモ用紙にピンクのマーカーで書かれた文章が添えられていた。


 ワタシは、隆くんに、殺されたんダヨ!


「答えて。ボッシーを殺したのは、隆なの」

 段ボールから目を離し、彼はこちらを見た。黒い穴が二つ、ぽっかりと開いていた。




 ボッシーは小学生から中学三年生のころまで実家で飼っていたうさぎのことだ。我が家にやってきた日にたまたま浮かんだ単語を、私がよく考えずにそのまま名前にしたのだ。だが、適当なわりには結構呼びやすくて、家族ともども気に入っていた。でも、隆ただひとりにだけは「ダサい」と言われ続けていた。


 彼と交際を始めたのは高校を卒業する年になってからだったが、彼自身は物心ついたときからすでに私の隣にいた。家が隣同士。同い年、同じ病院の生まれ。お互いの母親が同じバンドを追いかけている。その他にもいろいろな偶然があり、半ば必然的に私たちは一緒にいるようになった。そして長い時間やできごとを経て、その関係は愛へと転じていくこととなった。だが、その過程でボッシーは成長して年老いていき、ある日事故で亡くなった。庭に置いていたケージの扉がなにかの拍子で開き、道路に出たところを、車か自転車かに跳ねられてしまったのだ。


 と、そう思っていた。つい、先ほどまで。


「知らないよ。てかボッシーは事故死だったろ。殺した、なんて」

 隆の目がひっくり返るようにして元に戻り、てのひらが段ボールの蓋の端を掴んだ。私は慌てて箱のほうに駆け寄り、閉じられようとするそれの間に手を挟んだ。その行動によって再び開いた箱から手を引き抜くと、おがくずと白い毛が指や爪の隙間にまとわりついていた。今しがた触れたボッシー自体は、温もりというものが完全に抜け落ち、中に鉄の骨組みが入ったぬいぐるみのような質感をしていた。


「なんだよ怖いな。そんな急にマジになるなよ。あ、ていうかさ佳枝。駅前に半年前くらいにできた中華料理屋知ってる? 俺この前、ほら佳枝が高校の同窓会行ったときよ。そのときに俊平と行ったんだけどさ、覚えてるだろ。中学のとき同じクラスだった。で、そこの麻婆豆腐が超うまくて。激辛じゃないんだよほら今さとにかく辛いもの、辛いものをってマウント取ってくるやついるじゃん。俺あの流れ大嫌いでさ別にお前の舌とか味覚のすごさとかこんなに我慢してまできついもの食べれるのすごいでしょみたいなのいらねえよ求めてねえよって思うの俺は。佳枝もそう思わない? そんなにつらい思いをするんだったら食べなければいい。んでねえ、そこの麻婆豆腐はなんていうか、時代に逆行してるでもおいしいみたいなのでさ」

「ふざけないで」

「人も全然入ってなくてさ。全部の席がボックス席になってるからなんかへたな個室居酒屋よりも個室っぽくって話が弾んだの。俊平は今大学時代にできた彼女、四人目だって、と結婚したらしくて。すっげーその愚痴聞かされた。結婚は人生の墓場だって一日に何千人と言ってそうなこと言ってた。俺が働いた金でローン組んで家建てたのに休日に寝てれば『こいつ早くどっか行かねえかな』って目で見られたりお小遣い制にされたり、自分はずっと家にいるのにまつエクとかネイルサロンとか行ってんのに死ね死ね死ねって。笑ってたよあいつ。こんなに苦しんでも誰も俺のこの苦悩を憎しみを拾ってくれない残してくれないってさ生きてる意味あんのかなって。さ。あ、お風呂入るね」


 声の高さも音量もリズムもめちゃくちゃな言葉をまき散らし、隆は妙にすっきりとした顔でダイニングを出ようとした。待ちなさいよ。隆の手首をぎゅっと掴む。血流を感じる間もなく、私のほっそりとした手は振り払われてしまった。


「やめろよ。この話は終わり。知らないし」

「なにを言ってるの? 質問に答えてないでしょ。答えてよ。隆は、本当に」

「だから殺してないって」

「じゃあ、これはなんなの」

 私は彼の手を掴み直すと、箱に詰められた砂色の上に横たわるボッシーに無理やり触れさせた。密に生えた毛が私の皮膚をもくすぐる。視界の中で、隆の表情が歪む。瞬間、手首に鈍痛が走った。私の手を逆につかみ返し、思い切り机に叩きつけたらしい。衝撃で震えた箱の隅から、ほろりとおがくずがこぼれた。


「いい加減にしろよ。ありえないだろこんなのいつの話だと思ってんだよ中三のときだぞ中三のとき。それがなんで今になって。これだってボッシーじゃないだろ絶対。お前だって知ってるだろ一緒に庭先に埋めたじゃんか。お前んちの。それを掘り返して持ってきたってのか。物理的に無理だろ。持ってこれたとしてもせいぜい骨だろ」

「再現して誰かが送ってきたのかもしれないでしょ。隆のことを、告発するために」

 は。そういうこと言うんだ、お前。隆の冷たい声が降り注いだ。辺りの酸素が薄くなったような気がして、私はその場にへなへなと座り込んだ。この高さからでは彼の足しか見えない。黒いビジネスソックスに包まれた指が、ぴくぴくと動いている。


「信じないんだ、俺のこと」

「そうは、言ってない。私はただ、ボッシーを殺したかどうかが知りたいだけ。お願い、本当のことを言って。言って」


「ああもうわかったよ。そうだよ。俺が殺した」


 座り込んだまま、顔をあげる。蛍光灯に照らされた隆の姿が黒く塗りつぶされている。こんなに背が高かっただろうか。

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