第2話 冬の誘い
秋が終わりを告げ、冬がやってきた。厳しい冬である。しんしんと降る雪は見た目には美しいが、触れば茨のように痛い。誰もが外出を減らし、家で薪を燃やす。町を雪が覆っていく。春まで、土や花とはお別れだ。
冬が深まってきたある日、凍死した少女の死体が見つかった。粗末な衣服はあちこちがすり切れ、靴も履いていなかった。着の身着のままで投げ出されたようだった。
虞宝には、その少女に見覚えがあった。死体が見つかったと聞いたとき、虞宝は思わず天を仰いだ。雪を乗せた雲が、地平線の果てまでのしかかっていた。
視線を戻す先に、縄で張られた一角がある。死んだ少女の家が、かつてそこにあった。ごくごく平凡な家で、豊かではないが貧しくもない、働き者の一家だった。
秋の終わり頃、その家は突然に役人と兵士によって打ち壊された。なんの咎もあるはずがない。家長は必死に訴えたが、聞き入れる者などいなかった。何やら大仰な巻物を広げ、胸を反らせてだみ声をあげる役人が家長を足蹴にした。違法に手に入れた土地に勝手に家屋を建てた罪だとかで、家財の一切を没収するとの沙汰だった。
無体な話である。
合法的に手に入れたはずのものが突然に違法となる。恐らくは法が変わり、締め付けが厳しくなったどさくさに紛れて強引に遡及適用したのだろう。即ち、間違いを犯しているのは一家の方であり、役人たちは適切に法を遵守したという体裁なのだ。
打ち壊される家を見て、家長は激高した。素手で殴りかかる家長を、兵士たちがよってたかって串刺しにした。妻と娘が気が狂ったような悲鳴を上げたが、役人共は素知らぬ顔で正当防衛を告げた。
これからの生活をどうすればいいのか。家財の一切を没収された二人に、未来はなかった。絶望する母を見かね、娘は役人たちに申し出た。自分のことは好きにしていい。その代わり、当面の生活を援助して欲しい。交渉に使える材料は、自分の体だけだった。役人たちはその取引に応じ、娘を招き入れた。
招き入れた直後、役人たちは娘の母を殺害し、荒野に埋めさせた。約定を守るつもりなどなかったのである。気の済むまでの辱めを娘に与え、空気も凍る寒空の中へ、役人たちは娘を放り出した。
あまりのことに、虞宝は吐き気を抑えきれなかった。これほどまでに人は邪悪になれるのか。そして、なぜ自分は手をさしのべなかったのだ。
少女の死体があった場所で、虞宝は己を恥じた。己の身可愛さに、一家を見殺しにしたのだ。これほどまで、残酷なものなのか。保身に走る人間という者は。無残な死を遂げて、ようやく気づくことしか出来ないのか。
(田虎、方臘とやらの気持ちがよくわかる)
会ったこともなければ顔も知らない。単なる義侠心からの乱ではないかもしれないが、虞宝は乱を起こす者の気持ちの一端を知った気がした。
王慶が、突然に虞宝の自宅に押しかけた。
練兵中のような殺気をみなぎらせていた。王慶の肩に積もった雪が溶け、蒸気となる。まるで王慶そのものを沸騰させているようだった。殺気を向けられるとは、こういうことか。肌に粟を立てながら、虞宝は直立して友人を迎えた。
王慶が深く呼吸した。樽のような胸が更に膨らむ。吐き出す息にすら、怒気が混ざっていた。
「虞宝」
「ここではまずかろう。外套を貸してやるから、外で話そう」
友の声は普段と変わらなかった。だが、何が起こるかわからない。虞宝は妻に外套を取ってこさせ、自宅を出た。町の端にある、関帝廟まで歩いた。
雪を踏む音が町中に響いているように思えた。真後ろを歩く友が、いつ血に飢えた獣となって襲いかかってくるか。虞宝はその時の覚悟だけはしていた。
王慶は、激しく怒っていた。役人に対する義憤だ。王慶は役人ではなく、棒術師範として招かれている武客である。故に、役目に縛られることはない。手当は出ていても、国に仕えているわけではないのだ。
怒りの源は考えるまでもない。あの少女の一件であろう。役人に対する怒りが、虞宝に向いているのだ。何もしなかったのだから、同罪と断じられても仕方あるまい。
二人は足を止めた。虞宝は天から降りてくる雪を見やった。いい夜ではないか。
この町の関帝廟はひどく簡素なものである。都のものとは比べるべくもない。だが、それでも関羽を祀る場であることは間違いなかった。燦然と輝く関羽の生き様を祀った廟で、義憤に駆られる友と語らう。
歩いている間に、王慶の熱が引いているようだった。怒気は衰えていないが、理性が甦りつつある。
「虞宝、愚かだとは思わんか?」
「それは俺のことか?」
「お前が?何を言う。愚かな奴はそんなことは言わん」
王慶の口元に笑みが浮かんだ。見慣れた人なつっこい笑顔である。何もかもが吸い込まれそうな暗闇の中でも、不思議と王慶の姿ははっきりと見えた。闇に浮かぶ星のように。
虞宝は目を閉じた。降りゆく雪は星と同じく大地を照らそう。積もる雪は天からの光を受ける。天も地も変わりはない。その狭間にいる人など何をか言わんや。
漢詩の師がことあるごとに言い聞かせた詩である。なぜこんなときに思い出すのか。
ふと、虞宝は肩の力が抜けていることに気づいた。王慶の怒気は彼の器によって包まれ、不思議な輝きを発している。
雲間が開き、月の光を得た雪が蛍のように瞬いた。舞い降りる光の群れが、王慶の周りをひらひらと舞う。闇の中にあって、彼の姿が少しも闇に溶けないのはそういうことか。
「王慶、天意を得たな」
「なに?」
「事を起こすならいまかもしれん」
虞宝が言うと、王慶はしばらく押し黙った。そして抑えきれぬように、笑い声を上げた。虞宝の心を洗い流すほどのすがすがしい笑い声だ。
「気づいたのか?」
「たったいまだがな」
「心腹の友は欺けんものだ。まったく、お前には参る」
心腹の友と言う言葉が、虞宝を震わせた。知らぬ間に拳を固く握りしめていた。
「いまのいままでな、お前と腹を割って話したいと思っていたのだ。先の娘の一件で、お前は何か感ずることはなかったか、愛想を尽かさなかったか、とな」
「そうだったのか?家に来たときのお前は、俺を殺しかねなかったぞ」
「苛立っていたのだ。保身に時を費やした俺自身にな。まあ、八つ当たりだ」
「殺されてもやむを得んと思っていたがな」
驚くほどに口が軽い。いままで、酒を飲んでもこんなに口が軽くなることはなかった。言葉に羽が生えたように飛んでいく。
「事を起こすならば、腹を割れる仲間を探すことだ。独りではどうにも出来ん」
「『悪筆な上に帳簿も満足に付けられんお前だからな』か?虞宝」
「違うな。日記も書けんお前だからな、だ」
「ならば、能筆で日記も帳簿も付けられる仲間を探すとしよう。なあ、虞宝?」
王慶の問いかけを受け、突然虞宝の口は鉛を含んだ。真っ先に思い浮かぶ、家族の姿。妻と子はどうする。己一人のことではすまない。
「少し意地が悪かったな。無理には誘わん。俺は身軽なものだが、お前はそうはいかん」
虞宝は、ただ黙って頷くほかなかった。家族のことばかりが頭をよぎるようでは、足手まといにしかならない。
「俺の誘いを蹴ったのだ。妻と子をないがしろにしたら、俺の仲間がお前の首を取りに行くぞ。未亡人になったお前の妻は、俺がもらってやる」
「……大宋国も終わりかもしれん。お前まで乱を起こすのだからな」
ようやく絞り出した言葉だったが、心の底からの本音だった。
王慶が多数の無法者を従えて軍の厩舎を襲撃し、馬や牛を根こそぎ奪っていったのはそれからほどなくしてだった。
――続く
乱に至るまで 志村亨 @johnmunch2002
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