乱に至るまで

志村亨

第1話 虞宝と王慶

 夏が去って行く。

 虞宝は竹簡の匂いが好きだった。竹の香りはとても清廉なのだ。人々が竹簡に物事を記すのは、使いやすさの他に竹の香りを好むからなのかもしれない。かつて同門の書生たちにそう言ったら、腹を抱えて笑われた。

「虞宝は変わり者だ」

「別に俺は書ければ豚の皮でも構わんぞ」

「左様。書ければそれでよいのだ」

 否定はするまい。事実そうであるし、竹簡が用いられる最も大きな理由は簡単に手に入るからなのだ。紙がもっと容易く手に入れば紙を用いるだろう。そんなことは知っているが、偶然であるにせよ、竹というものを選択した先人たちには、やはり頭が下がる。

 記録を終え、虞宝は筆をそっと戻した。墨が乾くほんの少しの間が、充実感で満たしてくれる。くるくると綺麗にたたみ、上役の元へ持って行こうと廊下を歩いていると、脇から大きな人影がひょいと飛び出した。

「飲まぬか、虞宝」

 既に顔を赤くした王慶が酒瓶を片手に笑っていた。練兵を終えた後なのか、王慶の逞しい体からは湯気が立っていた。先日、兵隊長の身でありながら臨時棒術師範に抜擢されたばかりである。王慶の脇には空になった酒瓶が一本打ち捨てられていた。

「まだ仕事がある。夕餉であれば付き合うぞ」

「構わんだろう。木っ端役人に任せればいい。どうせ上役に見せに行くだけだろうが」

「その通りだが、仕事は仕事だからな。そうもいかんのさ」

「つまらん男だ、お前は」

「そのつまらん男を酒に誘っているお前は、いったい何なのだ?王慶」

 これには王慶は言い返す言葉もなく、口をへの字に曲げるだけであった。書き物が苦手であることは百も承知だが、軽んじるのはよくない。

「おおかた酒手もないのだろう。手当が出るまでは、酒を控えた方がいいのではないか?」

「連れんことを言うな。虞宝よ、たまには女房子どもを忘れて、酒を肴に朝日を拝むのもいいものだ」

「もう少し歌ってみれば、詩になるかもしれんな」

「ああ?」

「酒を肴に朝日を拝す。お前らしい、いい詩じゃないか」

「続きを聞きたくば、酒に付き合え!つまらんのだ」

「ならばお前が我が家に来ればいい。土産でももってくれば、酒と肴は出してやるぞ」

 ぱっと王慶の顔が明るくなったが、オジギソウのようにしぼんでしまった。何やらぼそぼそと続けているが、どうにも聞き取れない。

「どうしたのだ?」

「お、お前の息子に泣かれてしまう……」

「あれから何年経ったと思うのだ」

 息子が生まれて十日あまり経った頃、王慶は祝いに来てくれた。だが、その時は息子の機嫌がどうにも悪く泣いてばかりだったのだ。あれから五年も経ったというのに、未だに王慶はそのことを気にしているらしい。

「しかし……」

「はじめは泣くかもしれん」

「ほれ見ろ!」

「それは仕方あるまい。お前のような大男が来れば、はじめは泣く」

「泣かれるのはなぁ……」

「女を泣かせるのは気にせぬお前が、たかが男児一人泣かせるのが嫌か?」

 痛いところを突かれたのか、ますます王慶は小さくなった。煮え切らない王慶とのやりとりがしばし続いた。役目の途中でもあったことだし、虞宝は王慶を自宅に招く約束を強引に取り付け、上役の元へと向かった。

 王慶の言ったとおり、ただ書簡を渡すのみの極めて形式的な仕事を終え、虞宝は家路に着いた。季節が秋に染まっていく。日暮れと共に涼やかになってゆく夜長に、虞宝はぼんやりと薄紫の空を見た。





 ひどく緊張した王慶を出迎えることになった。どうも王慶は子どもが苦手らしい。泣かれることが多いからかもしれないが、子どもがいると仏頂面になってしまう。二枚目ではあるため、女にはとにかくもてる。気がよく、とにかく楽しいことが好きな王慶の周りには女たちが常にいた。そんな男が、子どもを相手に話すことが出来ない。虞宝は、子どもは酒が飲めない上に、行動が読めないからだろうと思っている。王慶自身が子どもだからなのかもしれない。

 そんな男が、練兵となると途端に悪鬼羅刹のごとくである。

 特に得意とする棒術の練兵は過酷の一語。練兵場の隅から眺めたことがあるが、ほとんどの兵が仰向けに天を仰いでいるか、王慶に突き飛ばされているかのいずれかだった。練兵場は常に、兵たちの血と汗と涙で濡れていた。

 練兵中の王慶は、怒りをぶつけているかのようだった。兵たちが見せる武芸の型と、王慶が見せる型には、気迫の違いが明白だった。兵たちを鍛えながら、己を鍛えている。兵に教える武芸の型は、そのまま王慶の反復練習となる。

 自分に武芸の心得があれば、王慶と組み手でもして気晴らしにつきあえるのだろうが、生憎と虞宝は武芸の方はからっきしだ。馬には乗れるが、それもたしなみ程度であり、早駆けや遠乗りは出来ない。

 友人が心をさらけだすのは酒の場ではなく、自らを鍛え上げる武術の中でのやりとりだろう。

 窓から星が見えた。夜の空気が一段と冷え始めていた。

 虞宝は、卓に付きやや緊張している王慶に杯を渡した。本来であれば、酒瓶ごと渡すところであるが、妻の目がある内には避けるべきだろう。王慶の名誉のためにも。

 妻が酒と肴を持ってきた。肴は下女が作った茹でたガチョウの冷菜と、冬瓜の漬け物である。

「痛み入ります」

「夫がいつもお世話になっています」

「いえ、その……突然に押しかけまして」

「いいえ。夫から丁重にお迎えするようにと。この通りの人で、家に人を招きたがらないものですから」

「余計なことを言うな」

「はい。それでは、ごゆっくり」

 妻はそのままぱたぱたと奥へと引っ込んだ。王慶が漬け物をぱりぱりとつまみ出した。脇に置いた細長い包みが何であるかは気になったが、とりあえず王慶に酒を注ぐ。

「子はもう寝たのか?」

「ああ。近所の子と散々遊んでくたびれたらしい。すまんな」

「いや、別にいい。うまいな、これは」

 ガチョウの冷菜を食べ、王慶は杯の酒を飲み干した。妻も奥へと行ったことだし、もう王慶にちまちまと酒を注ぐこともあるまい。虞宝は、酒瓶を一本、どんと卓に置いた。

「この方が飲みやすいだろう?」

 王慶はしばし考えたが、酒瓶から直に飲み始めた。漬け物一口、酒一口。楽しげではあるが、時折陰鬱な気が混ざる。この快活な男に後ろ暗いことでもあるのか。聞き出そうとも思ったが、本人が打ち明けるまでは気づかぬふりをするのがいいだろう。

「虞宝よ」

「なんだ?」

「妻子を持つというのは、どんなものだ?」

「どんな、と言われてもな。まあ、いいものだろう」

「そうか」

「嫁でも世話して欲しいのか?」

「馬鹿を言え。女には不自由しておらん」

「泣かせるばかりで、笑わせていないらしいな」

「大げさに話が伝わっているぞ」

 至る所で王慶の話は聞く。気のいい男だが、女癖が悪く、女からの恨みもかなり買っているらしい。それはまあ、当人が魅力的であることの裏返しだが、虞宝から見ても確かにこれは女が放っておくまいと思えた。

 だが、王慶が妻帯するとは虞宝にはどうしても思えなかった。家庭を持ち、いずれ元服した子に家督を譲り、隠居を決め込む姿がどうにも想像出来ないのだ。

 ふと虞宝の頭に、河北の田虎、江南の方臘の名が浮かんだ。大宋国の北と南で乱を起こしている大罪人である。淮南の辺境であるここには直接の害も無ければ、制圧の要請も無い。ただ噂話だけが延々と流れ込んで来るのみである。なぜそんなことが突然に頭に浮かんだのか、虞宝は背筋に寒気が走った。

「下らん話はさておいてだ、虞宝。これをお前の子に贈りたい」

 ほろ酔いになってきた王慶が、脇に大事そうに置いていた包みを、どんと卓に置いた。開けてみろというので、虞宝は包みをほどいた。中には小ぶりながら、一目で業物とわかる剣が一振りあった。

「王慶、これは?」

「俺が昔に使っていたものだ。親父からもらった代物で、最初に振った記念すべき剣だ」

「そんな大事なものをもらえん。お父上から譲り受けたものなら、お前の子に贈るのが筋というものだ」

「俺には妻帯など出来ん。もらってくれぬか?俺が振るにはもう小さすぎてな」

「王慶、人の縁はわからぬものだ。お前もひょんなことから妻をめとる事だってあるかもしれん」

 言いながら、虞宝はさきほどの嫌な寒気が抜けきらないことに気づいた。虫の知らせという奴かもしれない。

「虞宝。俺はこれでいいのだ。お前の子にいずれ稽古を付けてやりたい。その為の物だと思ってくれ」

「俺の子では筋が悪い。武芸など出来ん」

「人の縁はわからん、と言ったのはお前だぞ、虞宝」

「意味が違う。あいつは腕白なだけでからっきしだ。先日など馬を見たら泣き出した」

「俺もそうだったさ。馬を見て大泣きしてた俺が、いまでは棒術師範だ。時が経てば強くなる」

 王慶は酔っているらしかった。ほのかに赤らむ顔で、王慶は闊達に笑った。憂いなく笑っている。虞宝もつられて笑った。笑わずにいれなかった。おかしくてたまらない。

 今夜は、酒が進む。冬瓜の漬け物も、ガチョウの冷菜も、既に皿になかった。


――続く

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