ある晴れた日の午後17時30分

タッチャン

ある晴れた日の午後17時30分

 これから奇劇が始まる。そして、幕が上がる。


 垣内は壁に掛かっている丸時計を見た。針は16時50分を指していた。彼は椅子から立ち上り、「お先です」と誰に言っているのか、両隣や向かいに座ってまだパソコンの前に佇む仕事仲間は彼が発する言葉を聞こえたのか、分からない声で言った。そして誰も彼を見ようとはしなかった。

 彼はタイムカードを押す。ガチャンと不機嫌そうな音を聞いた後、また丸時計を見た。時計の針は16時52分を指していた。

 市役所を出た垣内の足は自然と速くなる。表情は少しだけ緩んでいた。そして頬は薄紅く染まり、これから起こる幸せを感じて胸の中は高まるばかりであった。毎日を機械の様に働く彼は、何年間も自分の人生の意味を探していた。そしてその答えが目の前にある様な気配を確かに感じていた。

 人の波を掻き分けて目的地を目指していると、男とぶつかる。男は転ぶ。垣内は慌てて言った。

「すみません、大丈夫ですか?」と。男は何も無かったかの様に立ち上り、そのまま歩いて人混みの中へ消えて行った。垣内は男の背中を見続けていた。人混みの中へ消えて行くまで。彼は腕時計に視線を移した。17時1分だった。彼は視線を上げてまた歩き出す。そして目的地に着く。

 垣内はレストランのドアを開けて店内を見渡すと、一番奥の窓際の席に座る彼女を見つけた。彼の目にはその場所だけが光輝いている様に見えた。

 彼女の向かいに座ると、愛しい笑顔を彼に見せてくれる。その瞬間、垣内の心は震え、喜び、溢れ出てくる愛情に支配されていた。

ワインをグラスに注ぎ、祝杯した後、他愛のない会話をしながら壁に掛けられているお洒落な時計に視線が行く。17時30分を指していた。

 彼は胸ポケットから小さな箱を取り出し、中身を彼女に渡す。彼女の目は涙で溢れる。そして彼は言う。「僕と結婚して下さい」と。彼女は言う。「はい」と。今この瞬間、垣内は答えに辿り着いた。彼女こそが彼の生きる意味なのだと。

 突然、窓の外から悲鳴が上がると、一瞬にして群衆が出来上がる様子を垣内と彼女は窓際から幸せを携えて見つめていた。


 狭いアパートの中は食べ終えたコンビニ弁当が散らかり、空になったペットボトルや紙パックのゴミが、名前も、出身も、生い立ちも分からない女性の隣で踊っている様に、杉本には見えた。頭から血を流して倒れる裸の女性を見下ろして、彼は右手に持っている、血がついた丸くて分厚いガラスの灰皿をゴミ山に投げた。ゴトン、という音が部屋の中で響くのを彼の両耳は確かに聞いた。

 彼はテーブルの上に置いてある小さなデジタル式の目覚まし時計を見た。16時50分を表示していた。

 シワだらけの服を着て、アパートを出る。行き先はまだ決めていないが、彼はこの場所から一刻も早く離れたかった。空を見上げると雲一つない気持ちの良い青空が広がっているのを見ると、彼の心は後悔と懺悔に襲われた。名も知らぬ売女を乱暴し、殺した事実が彼の心を激しく揺さぶり続けた。「俺の人生は後悔の連続だ。くそみたいな人生だ」と呟いた。そして、彼の目的地は決まった。

 人混みの中を歩いていると若い男とぶつかり、転けてしまう。若い男に「すみません、大丈夫ですか?」と声を掛けられるが、杉本は気にも止めずそのまま歩き出して行く。背中に刺さる視線を感じながら。

 市役所を通りすぎると小さな交番があった。杉本はドアを開けて中に入ると、警察官が一人、椅子に腰掛け、書類をぱたぱたとめくっていた。

 警察官は杉本の存在に気づかず、まだ書類を眺めていた。「…すみません」と杉本が声をかけると、体をビクッと震わせ、顔を上げる。

 「すみません!お待たせしました。どういったご用件で?」と警察官は慌てて言った。杉本は壁に掛けられている時計を見た。17時30分だった。

 彼が口を開いた瞬間、外から悲鳴が聞こえてきて、警察官は杉本を押し退けて、外に飛び出した。


 「ユイちゃん、頑張るねえ。次の人で3人目だよ」

唐沢は後部座席に座る1番人気の風俗嬢に声をかける。

 「…疲れるけど仕方ないよ。稼がなきゃだし」

彼女の声は本当に疲れきっていた。唐沢はハンドルを握り直し、信号が赤から青に変わるのを待っていた。腕時計の針は16時2分を指していた。

 「休み取りなよ?体壊してまでやる事かな?」と唐沢は言った。だが彼女から反応は無い。彼女はただ外を眺めていた。信号が青に変わり、車は目的地へ走り出す。

 「ユイちゃん、着いたよ。2階の一番奥の部屋だから、疲れてるのは分かるけどさ、お客さんに失礼が無いようにお願いね。あの…聞いてる?」

 「ボーイの癖にうるさい。分かってるから」

「ごめんごめん。45分コースで、延長は無しだって言ってたよ。今から始めたら17時には終わるから」

 「はいはい、行ってきます」と彼女は呟くと、後部座席のドアを開けて2階へ上がっていった。唐沢は腕時計を見た。16時15分になりかけていた。

 彼はいつもしているように、運転席の座席を倒し、横になり、目を閉じる。勤務中に寝るのは気が引けるので、妄想をして時間を潰す。退屈な仕事の合間に、彼は頭の中でどこか遠い国で悠々自適に過ごす自分を思い浮かべる。何者にも縛られず、思い煩う事も無い楽園を作り上げる。だが彼は目を開ければ辛い現実が彼を睨み付け、待っている事を誰よりも知っていた。それでもこの一時だけは遠くへ行ってしまいたかったのだ。

 シワが目立つ服を着た男が2階から降りてきて、唐沢が乗る車の前を通りすぎ、人混みの中へ消えて行くのを彼は見ていなかった。彼はまだ楽園を探し求めていたのだ。

 彼は目を開けて、腕時計を見た。17時15分だった。ポケットから携帯電話を取り出し、彼女に電話を掛ける。だがいくら待っても出ない。痺れを切らした唐沢は運転席から降りて2階へかけ上がる。一番奥の部屋のドアを叩くが反応はない。彼の心と比例して、ドアを叩く音は大きくなっていく。

 ドアノブに手を掛け、回してみるとドアは彼を招き入れるかの様にゆっくりと開いた。部屋の中へ入ると、至る所にゴミが散らばり、悪臭が存在感をしっかりと出していた。そして彼は見つける。血を流して横たわる裸の彼女を。テーブルの上に置いてあるデジタル式の目覚まし時計は17時30分を表示していた。

 混乱と恐怖と非現実的な出来事が唐沢を襲い、彼は慌てて外に出た。そして、遠くから悲鳴が微かに聞こえて来た。


 「25年間、何にも良いことが無かったな」と、20階建てのビルの屋上で小山は呟く。申し訳程度に建てられた金網のフェンスをよじ登り、向こう側へ降り立つ。「もう耐えられない」と囁きながら。

 後一歩踏み出せば自由になれる。小山の黒く濁った心は、自分自身に言い聞かせる様に何度も何度も耳元で囁く。誕生日プレゼントで両親から就職祝いで貰った、綺麗な腕時計に目をやる。17時25分だった。

 「あんたのせいで俺は死ぬんだ」と呟き、小山は果てしなく遠い地上を見つめていた。

 「あんたが俺の上司じゃなかったら俺の人生、どうなっていたのかな」と、また呟くと腕時計を見た。お父さん、お母さん、本当にごめんね。親孝行出来なくて。でも分かって欲しい。これは俺のせいじゃないって事を。全部、あいつのせいなんだ。と心の中で最後の懺悔をし終えた彼は、腕時計を外して、飛び降りる。

 フェンスの近くに置かれた綺麗な腕時計は17時30分を指していた。

 地面は果てしなく遠い場所の様に思える。小山は重力に逆らわず、ゆっくりと落ちていく。目を見開き、景色を堪能する。全てが逆さになった世界はなんとも不思議で、そして美しい。

 ふと目に入ったレストランの窓際に、若い男女が互いに優しく微笑みながらワインと幸せを飲んでいた。彼は嫉妬する。激しく。俺も幸せになりたかったと囁くと、鈍い音と共に目の前が暗くなる。そして悲鳴が上がる。その声の持ち主を小山は誰よりも知っていた。彼が憎む女上司に見せつけてやったのだ。彼は笑っていた。


 悲鳴を聞いた警察官は、野次馬を掻き分けて、若い男が血を流して倒れている姿を見下ろす。手足はぐにゃりと曲がっていて、それはまるで糸を切られた操り人形の様であった。彼は心の中で悪態をつく。

 「自殺かよ。こんな人通りの多い所で何やってんだよ。勘弁してくれ、後処理大変なんだよ。ほんと退屈だな。こんな事より殺人事件とか担当してみたいよな」と。良く晴れたある日の午後の出来事。


 これにて終演。そして、幕が下がる。

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ある晴れた日の午後17時30分 タッチャン @djp753

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