インド洋海戦②

 あの時飛車を切って勝負に出ていればと、ふいに零は思った。それすら成算がある訳ではないが、大事に抱え込んだ飛車は結局最後まで特大のお荷物にしかならずこちらの負担が増しただけ、いつまでも踏ん切りをつけられなかった結果が今回の手痛い敗戦であり、作戦会議への代理出席という特大の罰ゲームを受ける事となった理由なのである。

 長門艦内艦隊司令部会議室。第一・第二艦隊併せて四十余名の将校が一堂に会し意見交換をする席だと志波からは聞かされているが、浮かぶ後悔の念から意識を逸らす為に会議に集中してみれば耳に入ってくるのは水雷屋と鉄砲屋の下らない意地の張り合いときた。滅多に袖を通さない一種の詰襟も、会議室に漂う政治的な空気も、参加者から見え隠れする下らない意地の張り合いも、零には全くもって肌に合わず、その効果の程は速効性の催眠術でもかけられたのかと疑いたくなるほどだった。

「遠距離砲撃では小回りの利く敵艦艇に正確な打撃を与えられない、必ず取り逃がす」

「しかし水雷戦隊では打撃力に欠く。敵艦隊には例の二十万トン級も予想されている」

 制空隊の仕事など、侵攻か防衛かの違いはあれど、敵機を落として航空優勢を確保することに尽きるのだから、敵艦を水雷で叩こうが艦砲で叩こうが関わり無い――そんなことを考えながら口を一文字に結んで欠伸を噛み殺した、その時だった。

「トップエース殿は随分と眠そうだな」

 二水戦司令官の楠木潔。先ほどから不穏な空気を周囲に撒き散らし、会議を紛糾させている筆頭人物である。

「折角だ、第一航空戦隊オブザーバーとしての意見を言ってみろ。尉官で席に着いているのだ、それなりには出来るのだろう」

 皮肉のように上品なものではない。出来る人間でなければ殴り飛ばすと言わんばかりの物言いはまるで喧嘩の押し売りだ。しかも挑発の相手は零であって零ではない。発言の途中から、楠木の眼光が射抜く相手は零ではなく一航戦司令官西岡少将になっている。

 視線で伺いを立てると西岡もこの態度に据えかねていたのだろう、間を置くことなく首肯された。

 ボスの許可を得た以上相手に遠慮する必要もない。敢えて息を整えるような真似もせず、零は静かに立ち上がる。

「本作戦においては友軍の航空戦力および潜水艦隊により十万トン以下の敵艦艇を掃討することを第一段階に置き、然る後に残存が予想される敵大型艦艇に対しては長門および二〇センチ砲以上の砲火力を持つ大型巡洋艦による打撃を加える事が有効と考えます」

 真っ直ぐ、楠木の眼光にぶつけ返しながら、彼の主張をぶった切った。

「理由は主に三点。第一に、敵艦隊には航空火力および水雷戦では打撃困難な巨大艦艇の存在が想定されること。第二に、水雷戦隊が打撃を与え得る十万トン級以下の艦艇であれば友軍が有する航空火力にてより安全に殲滅可能であること。第三に、第一、第二条件下で行われる本作戦においては水雷戦隊の突入を援護するための航空リソースが非効率的であること。以上です」

 零が語り終えると室内の将官は一同呆気にとられたように沈黙した。跳ね返りの若造が上官に反抗する程度のものではない、相手のメンツを真っ向から叩き潰したに等しい物言いだ。楠木と言い争っていた鉄砲屋の将官すら目を丸くするこの状況、飛行隊員に共通する気質――即ち、売られた喧嘩は相手が誰でも必ず買う――を熟知している原田と西岡を除けば、平然としていられる将官など一人とていない。

「また、本作戦では沿岸諸国らによる陸上基地からの大規模な航空支援を受けることができます。UNSA(United Nations South-east Asia東南アジア連邦)やインド、国連軍および中東連合らによる陸戦七〇〇・陸攻五〇〇機余りが既にスリランカ島航空基地に待機しており、敵の小中規模艦艇を殲滅するには十分な戦力です」

「彼らの軍は対ノイマン兵装で大きく遅れている。NOISEとの戦闘では数に入らん」

 激高するのではなく、地の底から躙り寄るような重々しい声。殺してやるぞと脅すのではなく、無言のまま、そっと相手の喉元に刃を添えるような圧力。机上で戦闘を行いがちな将官クラスからは滅多に感じることがない、現場を知る者に同属意識を感じさせる場の制し方だ。

「仮に彼らの航空戦力が多少なりともアテにできたなら、この海の戦況は劇的に違った。我々の艦ももう少し綺麗な格好だったろうよ」

 零もまた例外ではなく、直線的な圧力をかけられる程に楠木潔という男の魅力に気付かされていた。

「楠木少将のおっしゃる通りです。ですから彼らに直接戦果は期待しません。量的飽和が目的です、数が増えればこちらの攻撃隊の精度が上がります」

 だからこそ言葉を続けた。楠木という男は政治的な下らない報復を考えないと直感したからだ。後で半殺し程度に殴られる覚悟をしてでも、普段飛行隊員を相手にする時と同じように、本気をぶつけるべきだと感じた。

「最後に、我々第一航空戦隊が一出撃あたりで記録する平均戦果、航空機一三〇〇・艦船十六万トンという数字を申し添えて、発言を終わります」

 そうでなくてはこの男には通じない。利に依らない男を動かす方法はどの時代でもそれしかないのだ。

 発言を終えた零が席に着いてから実際には数秒であったろう、濃厚に圧縮された無音の間を置いてから、

「二水戦は砲艦突入時の空母直衛に就く」

楠木は短く答えた。


 会議が終わると零は足早に部屋を去った。同じく加賀へ戻る西岡を待つべきかも知れなかったが、議場で目立ってしまった以上長居をしたいものでなかったし、西岡もそれを察して先に出る事を許してくれた。

 長引いているように感じられた会議だったが、時計を確認してみればむしろ予定より三〇分早く終わっていた。

 長門の廊下を行きながら両手を組んで真上に伸びると、関節からペキペキと乾いた音が鳴り、おぅ、と老けた中年男性のような呻き声が漏れた。

 疲れた。その一言に尽きる。さっさと加賀に戻って飛行隊員と馬鹿話でもしよう、などと考えていると、不意に声をかけられた。

「お疲れ、かな?」

 柔らかな、甘い香りの、良く知った声。

 脊髄につららが突き刺さったような冷たさを感じると、心臓が淡い痛みを伴って跳ねた。同時に何故か動揺を見られてはならない気がして平静を装ってしまう。

「嫌いなんだ、こういう席」

 自身の見え透いた虚勢が何より情けなかったが、それでも声が震えることはなかった。

「知ってる。けどこれから先増えるよ、特進が内定したから」

「何それ」

 視線を合わせることが怖くて、悟られないように、相手の眉間を見つめる。眉間に視線を向けていれば相手にそっぽを向くことはない。上官と折り合いを付けるためのコツを教えてくれたのも目の前の彼女だった。

「軍務大臣通達三六八号。日本皇国海軍少尉吉川零においてはその勲功抜群につき功五級金鵄勲章に推挙するとともに二階級の昇級をもって大尉に任ずる……文書はもう原田長官の手元にあるはずだから、この作戦が終わり次第貴方に届くと思う。一般のメディアにも公開されるはずだから、帰港したら会見ね」

「よく知ってるな」

「文面、私が作ったから」

 悪戯っぽく笑うソフィアがそこにいた。

「時間あるでしょ。食堂行きましょ、長門の食堂は絶品なんだから」


 ティラミスにフォークを入れるソフィアを眺めながら、コーヒーを啜る。

「食べないの?」

「随分洒落たものがあるなと思って」

「私が入れたの。女性の勤務環境向上の一環」

「さいですか」

「偶には上が喜ぶような、可愛げのある提案もしておかないとね」

 平然とした風に語るソフィアからはおよそ縁遠く聞かれるが、女という立場で軍務省という男の職場を渡り歩くにはそれなりの腹芸も必要ということなのだろう。いずれにせよ前線勤務の零には関係のない世界だ。

 さっきの特進の話だけどさ、と零は話を切り出した。

「戦死した訳でもないのに?」

「太平洋の空は加賀の二人で保つ、なんて本局では大真面目に言われているから。大衆に解り易い英雄が欲しいのよ。お空の英雄様」

「二人ってことは、俺と直?」

「うん、廣澤少尉は三六九号」

「基準はスコアか」

「不満?」

「正直言えば有り難い話ではあるけど、個人の戦果なんて結果論だからさ。評価されるべきは隊としての戦果じゃないのかなって、現場の人間としては思うんだよ」

「今回のこれは完全に大臣マターの案件だもの。大本を辿れば官邸や与党大物の名前も出てくる。個人や隊の思想なんて関係無い、政治の話よ。さっきも言ったでしょ、皇国として、人類として、NOISEに対する英雄が必要ってこと」

 政治という言葉を聞いた途端に潮が引くように零の関心は失われた。そっか、と一言で返すと、それきりその話題を続けようともしなかった。

「そういう所、相変わらずね」

「だって、俺にどうこうできる話じゃないから」

「どうこう出来てもする気がないでしょ、少しは大人になりなさいよ」

「皇軍の頭脳に分析されちゃ否定できないな」

 子ども扱いを隠さないソフィアの物言いに拗ねた零が返すと、それは彼女を喜ばせただけだった。

「そんな高尚なものじゃないよ。ただの彼女としての感想」

 至って自然な流れで紡がれた言葉。だからこそ、零は身構えないまま、無防備な状態でその言葉を聞いてしまった。

 飲んでいたコーヒーが気管に入り、むせる。

「ちょっと、大丈夫?」

 言葉とは裏腹にケタケタと笑うソフィアの表情を見て零は確信した。

「わざとだろ」

「そりゃあそうだわよ。でも、今ので許してあげる」

 何を許したの――零はそう続けようとして、目が合ってしまうと言葉が出なくなった。謝らなければならない立場であったはずなのに、許されてしまうとその機会も失われた。そうして、やはりソフィアはサディストだと思った。

 深い息を一つ吐いてから、目の前のティラミスにフォークをぶっきらぼうに突き刺して食べる。おいしいと思わず漏らすと、すかさずにソフィアはそうでしょうと笑った。まるでここがソフィアの部屋で話題のお菓子を買ってきて二人で食べている時のような、そんなひどく懐かしい風景と錯覚する。そうさせる笑顔だった。

 零は何かに抵抗する事を諦め、そうして思いつくままの言葉を口に出した。

「どうして出てきたの?」

 本音の言葉で語るようになると、不思議とソフィアの表情をまっすぐに見つめられるようになった。

 ソフィアは零の瞳を見返しながら、

「どうしてそんな事を聞くの?」

そう言った。

「だって危ないじゃん」

「軍人だもの、危なくて当然でしょう」

「軍属でも学者じゃん、わざわざ前戦に出る必要はないだろ」

「研究者としてNOISEの思考パターンを知る為に現場に出てきた。何もおかしな事はないでしょ?」

「ソフィー、ふざけてないよね?」

 深刻になりすぎないようにと気を使った訳でもないが、長門のティラミスがあまりに絶品だったせいで、真剣な話題と裏腹にフォークは口に甘味を運び続けている。

 そうしてカルーアの苦みを帯びた甘さを味わっていると、ソフィアからの答えはそれまでのどんな応答よりも直球だった。

「あなたの側に来たかったの」

 あまりにも直球過ぎて反応できない、正真正銘の直球。

「それっていけない事かしら?」

 なおも問うソフィアに零は何も答えられず、無言でティラミスを口に運び続けた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空の英雄 尾和次郎 @owatarou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ