温もりだけ。
名取 雨霧
1つ、また1つと──
先日、隣の部屋に越してきたという老夫婦が菓子折りを持って挨拶に来た。終始穏やかに微笑む彼らの表情は、一人暮らしに疲れ切った私の心を微かに癒す。頼れる存在が近くにいる安心感がここまで大きなものだったとは。
ひと通りの世間話を終え、それではと背を向けた彼らに聞こえないよう、私は静かに「ありがとう」と口を動かした。
「ふふ、何がだい?」
私の背後から、男性にしては少し甲高い声が通り抜ける。ちょっとした悪寒がして振り向くと、黒いパーカーを羽織ったジーパンの男の子が無邪気に笑いかけていた。
驚きで身体が動かない。
いつの間に部屋に入ったんだろうか、一体何者なのか、何をするつもりなのか。疑問が噴水のように湧き出す一方で、不思議な直感が脳を過ぎった。
「ごめんね、そんな驚かないでよ。僕、何もしないし」
「......もしかして、さっきの夫婦のお孫さん?」
「そうだよ!だから挨拶しにきたのさ」
男の子は、何故か得意げな様子で腰を手に添えている。素性が分かったことで解けた緊張は苛立ちへと変わり、その矛先はもちろん彼に向いた。彼の目線に合わせて少しだけ身を屈め、彼をたしなめようと試みる。
「ねえ、あなたさ」
「ユウって呼んでよ」
「ユウ君は人の家を勝手に土足で入ることが挨拶だと思っているのかなあ?」
「......あ、いけね」
「まず謝れ」
「お姉さんなんでそんな怒って......あいたたたたたたあ!」
私は両手をグーにして呑気な彼の頭を挟み、ぐりぐりと刺激を与える。これは暴力じゃない教育だ。躾のなっていない子にお仕置きをしているだけ。そう言い聞かせて正当化していると途端に罪悪感を感じて、彼を解放した。
「いい?これから人の家に入るときは、玄関で靴を脱いで、お邪魔しますの一言を言ってから!それくらいしっかりしなさいね」
「へへ、はーい」
私の説教を思いのほか素直に聞き入れ、男の子はすたすたと部屋を出て行った。そこでふと私は気づいた。外は雨だったにもかかわらず、土足で入ってきたはずの彼の足跡が全く湿っていなかったことに。
──じわじわと薄気味悪い感覚が広がる。
この日から、私の寝不足生活は始まった。
※
「お邪魔します、お姉さん。今日は少し眠そうだね」
翌日、件の男の子は飄々とした様子で私の部屋に足を踏み入れた。
「ユウ君......土足は駄目って昨日言ったよね?」
私は彼の頭を昨日より若干強めにぐりぐりした。睡眠不足で苛立った脳みそは、手加減というものを知らないのだ。
「はは、お姉さん、いたい、いたい」
一見悲痛にも聞こえるその訴えを聞いてもなお、拳の握りを緩めなかった。その理由は他でもない、彼の様子が心なしか楽しそうに見えたからである。きっと彼がもっと小さい頃に、悪戯をして怒ってくれる大人がいなかったからではないだろうか。そう考えると少し可哀想になってくる。あれこれと想像を巡らしている間に、集中力は弱まり、やがて拳の動きは完全に止まってしまった。
ややあって、表情を崩していたはずの彼は、遠い目をして消え入るような声で呟く。
「......お母さん」
栗色のつぶらな瞳が微かに揺れる。多分、私の想像は間違っていなかったのだろう。叱られて、ぐりぐりされて、ちゃんと自分を見てくれる母親のような人間がいる気がして、たまらなく嬉しいのだ。私には彼の感情が不思議なくらい上手に感じ取れる。きっと子供の頃の私もそうだったから。
私はグーだった掌をパーに変えて彼の頭の上に優しくポンと置いた。それから彼の目線に合わせてしゃがみこみ、わざとらしくむっとした表情を作って告げる。
「ユウ君、もうしないね?」
彼は大きな瞬きを二回して、ゆっくりと頷いた。その様子を見るや否や、私はにこっと彼に笑いかける。
「もう、分かればいいんだよ」
そう言って私は戸棚から先ほど手作りしていたチョコクッキーを取り出し、ユウ君の掌の上に乗せた。
「いいのかい......?」
「いいわよ。ただし、それを食べるからには、私の言うことちゃんと聞いてね」
「うん!約束するよ」
そう言ったユウ君は、さっきの曇った顔からは想像できないくらい幸せな顔をしていた。そんな福笑いを見送り、私は静かに玄関を閉めた。六畳間に残ったのは、嵐のあとみたいな静けさだけ。
──最近やっと寂しさに慣れてきたというのに、これじゃ逆戻りじゃないか。私は小テーブルに飾っている写真をちらりと覗いた。二人仲良く肩を並べ、陽だまりのベンチで和やかに微笑む両親の写真。私の前では一度だってそんな顔しなかったくせに。一度もしないまま、私を置いてどっか逝ったくせに。
ねえ、なんでよ。なんで......。
やるせない悲しみは一晩中私の胸の中でうずくまり、結局その夜も眠りにつけなかった。
※
「お姉さん、今日もお邪魔します。あ、凄く良い匂いがする!」
「あー、いらっしゃい......あら」
ユウ君の成長に少しだけ驚いた。昨日まで土足侵入者だった彼が、玄関にきちんと靴を揃え、行儀良く気をつけの姿勢でお邪魔しますと一声かけてきたのだ。なんだ、私の言うことちゃんと聞いてくれてるじゃない。そう考えて目の前の少年がより一層愛おしくなり、その愛情をハグに込めて彼にぶつけることにした。
私は持っていた人参と包丁を一旦まな板に置いて、目の前の彼を抱き寄せた。ちらほらと筋肉もつき始めている反面、全体的には華奢な身体でホッとした。ついでに最近の一人暮らしの寂しさも打ち消せるようぎゅっと力を入れてしまったが、これくらいはどうか許して欲しい。ほら、彼も笑ってるし。
「そういえばお姉さん、何作ってたの?」
「あったかいスープだよ。この季節にぴったりのやつ」
「そっかぁ。スープか......あのさ、もし良かったらなんだけどさ」
もじもじと小柄な身体をくねらせる少年の気持ちが、なんとなく理解できる。私は腕の束縛を解いて、代わりに手を彼の両肩に置いて告げた。
「ふふ、分かった。今作ってあげるから待ってて」
「はい!」
どうやら正解だったみたいだ。ユウ君の輝いた目が何よりの証拠である。
煮込みが終わった後は温かいコーンスープを二人で飲みながら、ゆっくりとお話をした。両親が亡くなってから長らくこんな時間を過ごしていなかったからか、なんだか幸せだ。その温もりに浸っていたら、頬の緩みをユウ君に指摘されてしまった。ふふ、あなたも人のこと言えないのにね。
私は彼から色んなことを教えてもらった。昨日のクッキーが本当に美味しかったこと、水族館で色んな魚を見るのが夢ということ、夏休みの宿題を学校がある今も出しそびれていること、クラスに気になる女の子がいたこと。
初々しい話に耳を傾けながら、うんうんと頷く。懐かしい気持ちに胸を躍らせていた私に不意打ちへの耐性はない。だからだろうか。
──スープの味が一切分からないこと。
思わず持っていたカップを落としてしまった。
そんなはずはない。彼にスープをよそるとき逆に濃すぎるのではと心配したくらいだし、何しろ私も飲んではっきりと味がしたのだ。つまり、明らかな味覚障害が出ている。
私は急いで隣の部屋のインターホンを押した。はあいよ、とおばあさんの穏やかな返事が聞こえたが、年寄りだからかなかなか出てこない。この子にはもう時間がないかもしれないのに。そんな焦りが抱き抱えていたユウ君に伝わったようで、彼はギュッと私の手を握ってきた。
「お姉さん落ち着いて。僕は大丈夫なんだ」
幼さに見合わない冷静な声音と諭すような一言。私がその真意を尋ねようとした途端に目の前の扉は開いた。
「おりゃ、お隣のお姉さん。どうかしまし......」
「ユウ君が大変なんです!さっきあげたコーンスープの味がしなかったみたいで」
「孫の勇吾のことですかい?」
「はい!お孫さんです、早く救急車を──」
「お姉さん、いったいなんの冗談ですかな」
「え......?」
なぜ、私の抱きかかえる少年の姿に目もくれないのか。なぜ、必死に訴える私の声に耳も傾けないのだろうか。冬なのに、大粒の汗が頬を伝って滴り落ちる。ゆっくりと、ゆっくりと顎の下で勢力を増やし、十分に重くなったその身体が私の首元から離れ落ちる。
「勇吾は二週間前に死んだわ」
その言葉を聞いたのは、雫がユウ君をすり抜けて地面に落ちたのと同時だった。
ユウ君が涙目で捉えていたおばあさんの瞳に、彼の姿は映っていない。
部屋に戻り、ユウ君から改めて自分のことを話してもらった。
彼の両親はもともと家を開けることの多い人だった。学校から帰ってきても、おかえりと返してくれる人などいない。出来立ての料理だって食べたことがないし、週末のお出かけだってしたことがない。それに少なからず寂しさを感じながらも、仕方ない、と飲みこんでいたのだ。
「でも、お母さんもお父さんも、どっか行っちゃたんだ。僕を置いてさ」
淡々と話すユウ君を見るのが辛くなってきた。大人でも出来ない人が多いのに、寂しいだとか悲しいだとかを全部抜き出して、事実だけを伝えようとしているからだ。
「僕はもうどうしたらいいか分からなくなって、色んなとこに電話したんだ。おじいちゃんおばあちゃん家にもお仕事するところにも。そしたらふたりともすぐ帰ってきてくれたんだよ」
少しだけ嬉しそうに言いながらも、彼の目は虚空を見ていた。
「そしたら今まで聞いたことないくらい大きな声で怒鳴られちゃったんだ」
嘘でしょ。待って、その先は言わないで。蓋をしていた記憶が次々と浮き出る。お母さんのまるで親の仇を見るような表情を、お父さんの冷ややかな無表情を、どうしようもなく想像してしまう。私は瞼を固く閉じながらも、口を動かした。
「「あんたのせいだって」」
その台詞が重なると同時に、私は彼を強く抱きしめた。
「なんだ......お姉さんも一緒だったんだ」
彼は一粒、また一粒と泣き出す。
「一緒だよ。本当に哀しかった。やるせなかった。それでも大好きだったの。大好きだったのに、大好きって言えずにお別れしちゃったの」
「な、なあんだ。僕と全くおんなじ......」
「そう。だから、辛かったね」
私も涙を止められない。もう手遅れだってことは分かってるけれど、お互いに行き場のない想いをぶつけられる場所があって良かった。きっと彼が幽霊になって出てきたのも、胸の内に溜まった理不尽を吐き出すためだ。
今は思いっきり泣こうよ。
小声でユウ君の肩に私は語りかけた。
しばらくして、私は腕の力を抜いた。
「......ごめんね。痛くなかった?」
彼はぼそりと呟く。
「大丈夫。もう、痛みとか感じないんだ」
痛覚がなくなったのは昨日の私から説教を受けて幸せを感じたから。味覚がなくなったのも、昨日食べたクッキーで満たされたから。つまり幽霊は幽霊らしく、未練がなくなったら消えて無くなるということなのだろう。きっと感覚も同じ扱いというだけだ。
「たぶん、お姉さんの作るスープの匂いを感じるのも今日で最後だと思う。さっき匂いをかいで胸がいっぱいになったからね」
「そっか」
一つずつ、感覚が失われてしまうのは怖いことだと思う。けれど精一杯笑おうとしている彼を見て、私はその背中を押してあげたいと思った。明日からも、さよならに近づく彼を支えてあげなきゃ。
決意や寂しさが入り混じった感情が、今日も私を快く寝かせてくれなかった。
※
「お姉さん!水族館ってこんなに綺麗なんだね。夢みたいだよ。ほんっとうにありがとう」
「ユウ君人から見えないし、あなたの分は無料だから全然大丈夫よ」
「へへ、幽霊のゆうこうかつようだね!」
「その通り」
今日は彼が行きたいと話していた水族館に出かけている。これできっと、色々なものを目に入れることが出来ると思う。もう、何も見なくていいやって感じるほどに。
※
今日は廊下で尻餅をついている彼を私が迎えに行った。
「本当に真っ暗なんだ。覚悟はしてたけど、怖くてたまらないよ......」
「今日は家でゆっくりしてなよ」
「うん......」
彼にはCDプレイヤーを貸してあげた。洋楽からJ-popまで色んな楽曲を詰め込んだディスクだから、何かいい曲を見つけてくれるといいけれど。
私は大学のレポートをやりながら流れてくるCDに耳を澄ました。バンプオブチキンのプレゼントが流れ終わったあと、明らかに楽曲とは違うピアノ演奏が始まった。
「お姉さん、これはなに?」
「私が小学生のときのピアノ演奏会のときの録音じゃないかしら。どうして入ってるんだろう」
私は当時のことを回想する。ピアノの先生も不在の市のコンサート。発表することが決まったのは前日。当然、これを知ってるのは先生と──親くらいだ。
「ちゃんと来てくれてたんだ」
あんなに仕事で忙しいと言っていたのに。私は今更嬉しくなって、ユウ君に引っ付いて演奏を聴くことにした。目を閉じながらゆっくりユウ君と左右に揺れる。ゆったりなワルツが包み込むような優しい時間を届けてくれた。
「なんだか、この曲が一番好きだなぁ」
ユウ君はぼそりと呟く。
※
ユウ君は私の部屋で日付を越した。
耳も聴こえない、目も見えない状態になると思ったからだ。彼が不安を感じないように、ずっと手を繋いでいた。彼にはきっとその感覚すらないだろうけれど。
ユウ君はいま、透明になりつつある。
「もうこれで、ほとんどの感覚がなくなっちゃったから。お姉さんとはさよならだ」
私は最後に何も言わず優しく抱きしめた。
「未練がなくなったら成仏できるってお姉さん言ってたけどさ」
私はいつの間にか泣いていた。今まで短くも辛く、苦しい人生を送ってきた彼に対して、私はよく頑張ったね、なんて呟いてみる。
「この温もりだけは、もっともっと感じてたかったな」
にこっと一瞬笑って、彼は消えた。
「私もだよ」
同じ境遇の彼を励まして救っていたのと同時に、私も彼に励まされて救われていたんだ。そのことを噛みしめながら私は深い眠りについた。
※
あの不思議な日々から一年が経った。
大学を卒業して、仕事に邁進する毎日。変わりばえのないように見えるけれど、両親の死をちゃんと乗り越えた後の日々はとても輝いている。
今はこんな私を愛してくれる恋人ができたんだよ。自慢したいから、またいつでも遊びにきてね。だなんて叶わない願い事を口に出しながら、私は今も最期の笑顔を思い出す。
彼の残してくれた温もりに想いを馳せて。
温もりだけ。 名取 雨霧 @Ryu3SuiSo73um
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