羽成す街の中で
***
「最初からお祖母さまの『未言字引』の可能性に気が付いていた?!」
ひしゃげたカエルのような声で、琴音は叫んだ。
千秋は申し訳なさそうに、「うん、実は」と頬を掻く。
街には夕暮れが近づいていた。
灯りがつくにはまだ少しだけ早い、やや陰ったアーケードの下を、二人はゆっくりと歩いていく。
「ただ、そっ祖母の家は、若干、きょ、距離があったし、な――何より今は、べっ別の人が管理している、からね。も、もう少し先で、いいかなっ、て」
先延ばしにしていたら思った以上に時間がたってしまったのだと、千秋は語った。
「早く言いなさいよ! 今までどれだけ私が苦労してきたと……あぁ……」
がっくりと腰を折った琴音を、千秋は支えた。
(これ、「君と話がしたくて」とかほざいたら絶対殴られるやつだ……)なんてことを思う。
しかし琴音は瞬時に、「待って。ひょっとしてそのお祖母様のお宅に伺えば、まだ他の資料が手に入る可能性は?」と顔を上げた。目つきが怖い。
「じゅ、十分にあるね」
千秋の言葉に、瞳が輝く。
「行きましょう! 行きましょう絶対行きましょう何処だったかしら大分? 高速バスね、予約を取るわ来週時間空けておいてくれる?」
ほぼ一息で言い切った彼女に、千秋が「う、うん」と押され気味に返す。
不気味な笑みを浮かべ始めた琴音を横目に、千秋はやれやれ、と首を横に振った。横断歩道を渡り、街路樹の立ち並ぶ大通りに出る。
(大分って、日帰り厳しいんだけどなあ……)
そんなことを考えながら次の一歩を踏み出そうとして、
「うわっ」「は?」
軽い音を立て、視界がアスファルトでいっぱいになる。
盛大に蹴躓いたのだと理解するのに、数秒かかった。
「…………」
「………………」
「………ふはっ」
最初に噴きだしたのは、琴音の方だ。
遅れて千秋の顔が赤くなっていく。折角格好つけたのに、とでも言いたげだ。
「ひっ、ふふ、なに、何転んでいるのよ、何もないところで、っふ、はは」
「そ、そっそんなにっ笑うこと、な、ないじゃないか、っは、ふは、ああ、もう」
道のど真ん中、大勢の人が振り返りながら、彼らの前を通り過ぎていく。
「ま、まったく」と悪態をつきながら立ち上がった千秋は、街路樹に何かがくっついていることに気が付く。
「……アゲハ蝶だ」
呟く千秋に、琴音は「蛹? よく知っているわね」と返した。
友人から受けた知識をそのままの言葉で話そうとして、千秋は一度口をつぐんだ。それは、確かに彼自身の言葉ではなかった。
自然と人差し指と中指が首筋をなぞる。
受け取った鼓動のテンポは少し速い。
口元がふっと緩んだ。
(さて、なんて言おうかな)
街は夜を迎え入れていく。
ひとつ、明かりがついた。
蛹の中では、新しい命が動き始めている。春になればその殻を割り、縮れていた羽をゆっくりと広げ、やがて空へと飛び出すだろう。
でもそれは、もう少し先の話。
これは、とある物語の前日譚。
やがて羽成す世界がどうであれ――変人ふたりの日々は、酷く平凡だ。
平凡でちょっとおかしな、そんな物語だ。
羽成す街の中で 桜枝 巧 @ouetakumi
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