ほんとう
***
簡単な話だ。
月行燈、慣れ足、虎めく、継ぎ風、月の環――これらは、祖母の本棚から見つかった『未言字引』第一期に記載されているものだ。
その内、慣れ足と継ぎ風、月の環は、千秋がSNS上に投稿した作品で使ったことがあるもの。
フィルターか何かでそれが未言であるという事実が隠されていたとしても、記憶力のいい琴音なら「見たことが」あるはずだった。
精度を高めるため、高校時代に投稿したものだけを集めた。そこに、未だ使ったことのない月行燈や虎めくを混ぜ、反応を窺う。
しかし、そこまでの罠も、必要がなかったと言える。琴音本人は、千秋が何を言いたいのか、途中で気が付いたのだろう。
結果は、分かりやすいものだった。
かあ、と琴音が耳まで赤く染まっていく。
眼鏡の奥の目は最大限に見開かれ、震えていた。「あ、ああ、あ」
今にも逃げ出しそうな彼女の腕を、千秋は掴む。
「ひっ」
「に、逃げない、で。……ぼっ、僕は山崎さんと、は、話がしたいだけ、なん、だ」
浮きかけていた腰を落ち着かせ、珈琲を薦める。琴音はひとつ歯を食いしばると、静かに座った。
「ご、ごめん。こういう、時に、上手い言葉を、いっ、言えれば良いんだけれど。ぼっ……僕には、できない、から」
「……ばか」
初めて彼女の口から出た言葉に、千秋は戸惑う。
「ごっごめん?」と、もう一度謝った。
彼女は苛だたしそうに、目下に涙を浮かべながら答える。
「違うわよ、何故貴方が謝るのよ――軽蔑したでしょう、気持ち悪いでしょう。こんな、こんな。研究だなんて、言って、私――」
そこで、言葉に詰まってしまう。
鼻をすする音だけが、店内の音楽に混ざり合っていく。
千秋は立ち上がると、テーブル越しにゆっくり彼女の頭を撫でた。
思った以上に柔らかく、細い髪だった。
(……確かに、東京から九州のこの街まで、僕の為に、なんて考えると、ちょっと重い、かなあ)
そんなことを、他人事のように考える。
(でも)
千秋は尋ねる。
口が回らないのが、酷くもどかしい。
「やっ――山崎さん。こ、こっ、言葉は嫌い?」
「……っ、嫌いなわけがない」
「みっ、未言は、嫌い?」
「大好きよ! 確かに、きっかけは貴方だった、でも、未言の研究は、今や私にとってかけがえのないものだわ、それは本当のこと、でも、でもっ」
「僕が綴った、こ、言葉は――嫌い?」
琴音は黙り込んだ。
掴んだ彼女の手までが赤くなっているのを見ながら、千秋は返事を待つ。
自身の心臓の音は、最早聞こえてすらいなかった。ただ純粋な熱だけが、彼の全身を巡っていた。
やがて、小さな声で、言葉は放たれる。
「……私の人生を変えたのは、貴方よ」
千秋の中で、何かがはじけた。
ひゅっと音を立てて息を思いっきり吸う。そうでもしなければ、呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。
脊髄が熱い。何かが這い出てきそうな感覚に襲われる。今ならなんだってできてしまいそうな、そんな気がした。
彼の言葉を、ずっと聞いてくれていた人。
彼の言葉を、ずっと好きだと言ってくれた人。
その人が今、目の前にいる。
「変なやつでしょ、私」と呟く琴音の頭を、千秋はもう一度くしゃりと撫でた。
(傲慢にもほどがあるけれど――僕の言葉で人生が変わったなんて、やっぱり、嬉しいじゃないか)
千秋は唇を開いて、そこで初めて自分の喉がひりひりと疼いていることを知る。二、三度咳をしてから、やっと「ああ」と声を漏らした。
琴音が顔を上げる。
「に、人間って、みんな、へ、へんなやつばっかり、だから。……こ、これは、その、さっ、佐伯の受け売り、だけど」
千秋の頬が、さらに染まっていく。
声はもう出るはずなのに、いつも以上に言葉がうまく出てこない。
舌が回らない。
「うぅ」だの「あー」だの、擬音ばかりが増えていく。
人差し指と中指で自分の首筋を引っ掻いてから、ようやく千秋はそれが元々琴音の癖だったことを思い出した。思わず苦笑してしまう。
呆然としたままの琴音に近づき、膝をつく。
見上げれば、その目に映るのは、たった一人の女の子だけだ。
ほんとうに自分の言葉で伝えるのは、難しい。
しかし、だからこそ、千秋は口を開いた。
「ぼ、ぼっ、ぼく、僕も、へ――変なやつ、だから」
山崎琴音さん、のこと、好きだよ。
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