それから

探偵見習いは魔術師の夢をみるか

 甘やかな匂いがする。たぶん、ミルクティーの匂い。

 それにカチャリと聞こえる、硬質な音。


「……ん」


 目を開ければ、ぼんやりと映る本棚。扉。見慣れない、此処はどこだろう。半身を起こして、寝台ベッドから起き上がると足もと。床には履き慣れたシューズがあって。

 そこではた、と気が付いた。


「そ、だった」


 御影みかげは消えて、“ひだまりの家”もなくなって。師匠せんせいの自宅の一室を間借りして寝起きしている。

 それを思い出してから、僕の一日が始まっていく。



  *    *    *    *



 身支度を整えてキッチンに行けば、テーブルに向かい。亜麻色の長髪を結った師匠せんせいの後ろ姿があった。


「おはようございます、師匠せんせい


 回り込めばちょうど、二人前のミルクティーを注ぎ終えたところだった。


「今日もいい香りですね」

「おはよう、ナナミ君。ふふ、今日はディンブラを使ったミルクティーだよ」

「それは楽しみです。……トースト焼くので待ってください」


 真新しいオーブントースターに有無を言わせず食パン二枚目を突っ込めば、代わりにむぐ、と師匠せんせいから息の詰まった音が聞こえた。


「き、今日も朝ご飯を食べるのかい……?」

「食べます。それが普通というものですよ」


 一枚は厚切りでもう一枚が薄切り。この薄切りですら食べるのをためらう理由が分からない。というのもこの師匠せんせい、今までなかなか不健全な食生活を送っていたらしい。

 まず、朝ご飯は抜き、飲み物中心で紅茶や珈琲を飲んで済ます。昼食はいわゆる携行食。野菜類はスムージーで摂取し、まともに食すのは晩御飯のみ。どうかと思う。


「そんな顔をして、どうしたのかな?」


 とんとん、と自身の眉間を指で叩くようにしてみせる師匠せんせい。そっと触れてみると、どうやら無意識に皺を使ってしまっていたらしい。


師匠せんせいの食生活を改善せねばと決意に満たされていたんですよ」

「いや、あの、……慣れてしまうと楽でね? 理由はただ、それだけだったんだよ?」

「じゃ、これからは新しい食生活に慣れてもらわないとですね」


 そこでチーン、とトースターが鳴って知らせる焼き上がり。それぞれ平皿に乗せてテーブルへと持っていけば、ティーセットと色んな味のジャム瓶が並べられていた。今日はイチゴとオレンジと、ブルーベリーらしい。


「何味にするんです?」

「イチゴとブルーベリーをミックスしようかな。そういう日があってもいいだろう?」

「そうですね。じゃ、オレンジにしよっと……」


 瓶のふたをぐっとひねり開け、ジャムナイフでオレンジのジャムを食パンへと塗り伸ばしていく。ジャカジャカと表面が擦れる音が、子気味よく響いているのがどことなく朝っぽいな。

 よし、できた。


「いただきます。……ん、おいひ」


 口に広がる甘酸っぱい柑橘類の味と、サクサクとした触感。鼻にほんの少しだけ抜けるさわやかな香りが、目覚めを促しているみたいだ。

 なんて考えていれば、赤と紫のツートンカラーに染まった食パンを持ち上げたまま。くすりと笑みを零す師匠せんせいと目が合う。


「どうしました?」

「美味しそうに食べるなあ、と思ってね」

「美味しいですもん。……どんなときだって」


 ——御影市こきょうが文字通り消えてから、はや二週間。

 あれから、夜明けまで戦い抜いていた僕は相当疲れていたらしく、師匠せんせいの腕の中で眠ってしまったらしい。そこから保護という名目で師匠せんせいの庇護下に置いてもらった僕は、現在進行形であの月花つきはな探偵たんてい事務所じむしょに住んでいる。

 急変した環境。失った生活。

 それでも驚くべきことに、僕の舌はご飯を美味しいと思える感覚が残っていた。食事は喉を通り、御影市いままでの生活と同じように生きていくことを肯定していく。


「まだ、彼女が夢に出てくるかい?」


 その言葉に、咀嚼していた顎の動きが止まる。

 もう一度咀嚼を初めて、最後はミルクティーでごくり、とパンを飲み込んで。


「はい。……でも」

「でも?」

「もうここには来ちゃダメだって、怒られました」


 ニッと笑みを作って見せる。

 ずっと、御影市の夢を見ていた。御影タワー。『珈琲ブラックアンド砂糖シュガー』。イツツもり御影中みかげなか中学校。“ひだまりの家”。どこか鮮明で曖昧な、誰もいない世界で。アイツと二人、散歩をするだけ夢。

 だけれど、夢の中のくせにアイツは、僕にとうとう歯向かってきたのだ。覚えているのは言葉くらいで、どんな風に怒ってきたかさえも今となっては思い出せないくらいだけれど。

 ぱくり。最後のひとかけを食べる。仕上げにティーカップ片手に飲み干して。


「ご馳走さまでした」


 両手を合わせて、ほんの少しだけ頭を下げた。まだ食パンの半分以上を手に、もしゃもしゃと噛んでいる師匠せんせい。これはこれでどこか面白味があるけれど、眺めている訳にもいかない。使った食器類をまとめて、流し台へと持っていかねば。

 本当なら洗うまでしたいけれど、師匠せんせい曰く洗い物はまとめてやった方が節約になるとのこと。という訳で朝は専ら、僕が朝食を作る係、師匠せんせいが洗い物係という訳だ。


「あ、そういえばね、ナナミ君」

「はい?」


 振り返りテーブルを見ると、残り三分の一の食パンと口元にパンくずを付けた師匠せんせいがこちらを見ていた。


「きっと今日はお客さんが来るよ」


 君も知っている人さ、と続ける師匠せんせいに、ただただ首をひねる。こんな身の上で、誰か知り合いがいるだろうかと記憶を辿るけれど、全くと言っていいほど思い至らない。


「だから、寝癖を直しておいで。後ろ髪が跳ねているからね」

「そういうことは早く言ってくださいよコンチクショウ」


 天然もののつやつやストレートっぽい人にはわからない悩みだとしても、配慮はあってもいいと思うんだよね、師匠せんせい




 髪の毛をいったんビショビショに濡らして、ドライヤー片手に乾かしながらセットする髪型。どうしても見えない後頭部にできる寝癖ほど、悪質なものはないと思う。

 櫛で絡まりをほどきながら、毛の流れを作り、最後は軽くワックスで仕上げて。


「よし」


 完璧に寝癖を退治したことを合わせ鏡で確認。

 使ったもろもろの道具を手早く洗面所の収納へとしまっていく。ふと、鏡の中の自分と目があえば、それは見慣れた青い色の瞳をしていた。


(これが、僕の魔力の色)


 まるで海外の人みたいな鮮やかな青は黒髪とはミスマッチなようで、それでも見慣れてしまった自分からしてみれば違和感なんてものはなくて。なんだか今までよりの少しだけ明るくなっているように見えたその色は、いつか師匠せんせいの言っていた空色という言葉がしっくりきた。


 洗面所を後にして、自室ということになっている部屋に戻る。


 たったの二週間だけれど、ふわりと漂う花の香りも、窓から差し込む日の明るさも。棚や引き出しに置かれた数少ない私物の存在もが、ここを自分の居場所だと感じさせる。それもこれも師匠せんせいが家具の配置などを“ひだまりの家”の僕の部屋を模倣してくれていることもあるんだろうな。本人は何も言ってなかったけど。

 部屋の隅にある勉強用デスクの上には、木製のリングケースが一つ。ぱか、と開ければ、花咲く指輪が収めてある。


(『真実の友情』、『思い出』、『真実の愛』、……そして)


 取り出して、左の人差し指に着ける。なんだかしっくりこないその慣れない感覚に苦笑いしていると、リンゴーン、と西洋風のベルの音が聞こえる。来客を報せるチャイム音だ。師匠せんせいの予感はやはり当たるらしい。

 ばっと部屋を出て、廊下に叫ぶ。


「僕が出ます!」

「うん、よろしく頼むよー」


 たぶん応接間にいるだろう師匠せんせいの声を聴きながら、玄関へとぱたぱた急ぐ。鍵を解錠して、がちゃりと開く扉から顔を覗かせて。


 ——思わず、息を飲んだ。


「な、んで。ど、うして、ここに」


 いかつい面立ちに、がっしりとした大きな体躯たいく。それでもどことなく優しさや柔らかさを感じる、その存在感に泣きそうになる。


「……元気そうだな、七海ナナミ君」


 聞きなれたその威厳の孕んだ低い声に、何も言えなくて笑って見せる。

 インターホンを鳴らしたその人は、御影市で利用していた魔道具屋の。御影市と共に消滅したはずの『壊れた神秘Broken Mystery』の店主オーナーだった。


「やあやあ、遅かったじゃないか」


 応接間に通すと、やっぱり予想通りそこに師匠せんせいがいた。ローテーブルに朝食のときとは異なる揃いのティーセットが置かれているのを見る限り、予見してもてなし準備をしていたらしい。立ったまま手に持っている籠には、今回のお茶請けとなるクッキーが並べられている。


「……相変わらず口だけはよく回るようだな」

「ふふふ、それが取り柄でもあるからね。いやはや遠路はるばるよく来てくれた」


 卓上へ籠を置いた師匠せんせいの手招きで、店主は足元へと荷物を置くとソファに座る。それを見計らい、正面向き合う形で師匠せんせいと一緒にソファへと腰掛けた。


「いろいろと整理していたら遅くなってしまった、すまなかったな」

「いいや? 特に問題はなかったから気にすることはないさ。ナナミ君にとっても、必要な期間だったと思うしね」


 じっとこちらに集まる視線にぴくりと身動ぎする。

 確かに探偵事務所へ移ってすぐの頃は少しだけ荒れていたというか、魂が抜けているかのような生き物だったときもあったと思う。肯定も否定もせずにいると、心配そうにじっと見つめ続けられているのがわかり、店主へにこりと笑って見せた。


「大丈夫ですよ。それなりに、立ち直りましたから」

「そうか」

「それよりも、店主はどうしてこちらに? 無事だったことはとても嬉しいんですけれど、僕はてっきり店主も、その……」


 消えてしまったかと思っていた人が、ひょっこり帰ってきた。僕からすればそんな気分なのだから、食い気味に聞いてしまったのは許してもらえると有難い。


「そうだな、まずどうして無事なのかという点から話そう」


 こくり、と頷いて続きを促すと、店主は視線を外して少し逡巡するような素振りをしてから口を開いた。


「私は、御影市の魔道具屋として雇われた存在だった。君にアンチ魔力術式の道具を提供するための、だ」

「そう、だったんですか」

「……魔道具自体、通常は取り扱い販売すること自体に許可が必要な代物だ。流石にその規則を掻い潜って、君に提供することは難しいと判じたのだろう」

「それにアンチ魔力術式の道具は、彼らでは手に取ることすら危うい部分もあっただろうからね」


 師匠せんせいの言葉にぐ、と息が詰まる思いがする。


「よって、私のお店と君の街の扉を繋げ、街唯一の魔道具屋として君に武器を卸すことになった。今までにもそういったことはしていたから、特に疑問には思わなかった」

「繋がりが断たれるのみで済んだ、ってことですね」

「そうだな。ある意味、君にとっては最も非情な関係者になるのかもしれん」

「そんな、まさか!! 無事で、よかったです。本当に……」


 確かに、そういう見え方もできるかもしれない。けど心の中に広がるのはまた会うことができたという喜びと、店主が生き残っていてくれたという安堵しかない。店主も会う回数こそ少ないものの、長い付き合いのある人であることに違いはないから。


「では、次に。何故この探偵事務所を訪れたかという話についてだが……」

「——それは君に足りていない、残った最後のピースを嵌めるためさ」


 引き継ぐように含みを持った言い回しで続けられる言葉。こういうのがとても師匠せんせいらしいな、と思う。助けを求めるように店主を見遣ってみたけれど、気まずそうに視線を逸らされてしまった。

 こうなれば仕方がない、と再度師匠せんせいへと視線を戻す。


「ナナミ君、私がどうして御影市に来たのかを覚えているかな」

「はい。御影市に伝わる逸話について詳しく調べる為、でしたよね」

「そうだね。そしてそれは御影市という存在の謎を解き明かして欲しいという依頼によるものだった」


 初めて出会った、探偵見習いとして師匠せんせいと御影タワーに上ったあの日。あの時はぼかして伝えられていたようなものだけれど、今ならはっきりとその意味が理解できる。


「……ナナミ君、わかるかな」

「何が、ですか?」

「依頼は、ひとりでに湧いてくるものではない、ということだ」


 店主の低い声にハッと目を見開いた。呆然としながら、ゆっくりとその目が訪問中のお客さんへと向かう。自然発生的に依頼が生まれることはない。つまり、依頼をされたということは、した者がいるということ。


「俺が、その依頼主——いや、その依頼を実際に彼へとした者だ」

「……その本当の依頼主は、絢香アヤカ、という名でしょうか?」

「わからない。が、おそらくは、君のいう人物と同一だと思われる」


 頷きで返す店主に、すっと吸った息を肺に留める。


「彼女とは、基本的に手紙でやりとりをしていた。店の扉に挟んで。だが繋がりが断たれる直前に『壊れた神秘Broken Mystery』に来て、初めて彼女と話をした。それまでは男か、女かさえもわからなかった」


 凛とした声の女性だったよ、と告げる店主に、きっとアイツだと確信する。

 リスクを避けるためか、街の外側の存在である店主との干渉を極力減らすためなのだろうか。大方、その依頼が引き起こす事態に思い至らないように、及ぼす結果に気に病まないように、手元に残る情報を減らしていたんだろうな。


「……アイツは、なにか言っていましたか」

「俺に今までの礼を告げるとともに、最後の願いだといって君に、これを」


 店主がローテーブルに置いたのは、コンパクトな四角いケースのようなものだった。ぱかりと開ければ、銀製の指輪が一つ収められており、それがリングケースであることがわかる。


「……これは」

「少々調べさせてもらったが、これは魔力で構成された“御影市なる世界”のシミュレーションデータ群だ」

「っ!!」

「へえ、そんなものを」


 小さくきらめく、指輪が一つ。住んでいたはずの御影市こきょうは、飛び出してみればそのくらいの大きさでしかなかったということか。


「どうするのかは君に任せる、と。俺はこれを渡すために来たんだ」

「……てっきり、報酬を渡すとかだと思っていたんですが?」

「いいや、報酬はもう既にもらっているんだ。勿論、報酬に満足したかを訪ねに来たというのもあるとは思うけれど、ね」

「その様子だと、満足はしているようだ」


 報酬に何をもらったのか、じっとりとした目で問いかけてみたが、簡単に流されてしまった。

 再度、目の前に鎮座する故郷だったものを見据える。


「時間は待ってはくれないが、君にはまだたくさん残っている」

店主オーナー……」

「……そう急くことはない。思うままにするといい」


 そう言うと、いそいそと荷物を持って立ち上がる店主。


「おや、もう行ってしまうのかい? 折角紅茶を淹れたのに」

「少し野暮用があってな。また顔を見せに来よう。それまで達者でな、七海君」

「あ、はい! 僕の、いえ絢香のために、有難うございました」

「どういたしまして。では失礼する」


 そそくさと応接間を出る店主を玄関まで見送って、部屋へと戻る。師匠せんせい一口ひとくちも手を付けられていなかった紅茶を一人ひとり寂しく楽しんでいた。


「行ってしまったかい?」

「はい」


 なんだか隣に座ることも憚られて、店主が座っていた方のソファに腰掛ける。

 小さな箱に残された世界の記憶の形。手を伸ばして箱ごと取ると、その中身に指先でそっと触れる。

 ひんやりとして、すこし温かい気がして、どこか輝きを帯びる銀の指輪。


「これって、魔力の塊なんですよね?」

「そうだね。不思議なものだよ、形があるのに確かに魔力なんだもの」




「じゃあ師匠せんせい——いいえ、月花の魔術師。お願いしてもいいですか?」




 ケースごと師匠せんせいへ向けて差し出す。きっとこうするのが一番良い、だってきっと持ち続けているよりも、壊すよりも、ふさわしい結末だと思うから。

 じっと待ち続けていれば合点が行ったらしい。ふわりと笑みを浮かべて師匠せんせいは受け取る。


「君が望むのならば。どんな花がいいのかな」

「とびきり素敵な、勿忘草わすれなぐさを」

「……お任せあれ」


 パチン、と指を鳴らす。花の香りと漂う魔力が、うねりを見せて指輪を包む。

 ケースを飛び出して宙に舞う指輪から、内包されていた魔力が引き出されて作り変えられていく。それは植木鉢になり、土になり。そこから芽が出て、茎に、葉に、蕾を付けて花開く。大輪の、青く小さな花々となる。


「はい、どうぞ」


 差し出される鉢に、咲き誇る勿忘草。きっとこれでもう、忘れることはない。小さく香る花の香を胸いっぱいに吸い込んでから、尊敬する魔術師を見遣る。


「……師匠せんせい

「なんだい?」

「一人前の魔術師になるまで、どうかよろしくお願いしますよ?」

「嗚呼、——勿論だとも。我が弟子!」


 きっともう、夢で絢香アイツに会えない。いや、会わない。

 だって僕のみる夢は——いずれ叶える、魔術師になるためのものだから。

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探偵見習いは魔術師の夢をみるか 蟬時雨あさぎ @shigure_asagi

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