5.覗いてごらん

「うげぇぇぇぇ!」

 解剖学実習室に加賀見かがみ先生の叫び声が響いた。

 先週から二年生の解剖実習が始まった。今日は馬の解剖で、加賀見先生が消化管を説明しながら胃を開いたところだった。

 先生の手もとを覗きこんだ学生たちが口々に悲鳴をあげる。興味津々で近づいたお手伝い要員のユーシンも、やっぱり「うひゃあ」と顔をひきつらせ、そそくさと戻ってきた。

「なに。なんかあったの」

「いやぁ、むりむり。むりだよ、かなりん」

 銀色の解剖台にがくりと手をつき、ユーシンは深刻な面持ちで言った。

「虫。丸っこいのが、びっしり」

 ああ、それは……むりだわ……。

 獣医学科の二年生のカリキュラムには、二週間にわたる解剖学実習がある。実習にはわたしたち解剖学研究室の室員も総出で参加するし、とくに大がかりな牛と馬の実習では男手を求めてよその研究室にも声をかける。今日の実習に臨床繁殖学教室りんぱんのユーシンがまぎれているのはそういう理由なんだけど、それはさておき、さっき彼が口にした“虫”というのは単なる昆虫のことじゃない。

 寄生虫だ。

「先生、それ、なんの虫ですか?」

 いくらか耐性のあるらしい二年生の女の子が尋ねるも、加賀見先生はそれどころではない。

「わ、分かんないぃ。俺、こういうのダメなんだよぉぉ」

 悲壮感すらただよわせ、それでも加賀見先生は講師の威信をかけてひたすら馬の胃の内容物を取りだす。ときおり思い出したように「うげぇぇ」とか「おえぇぇ」とか叫びながら、虫のついた部分の胃壁を解剖刀で切りとり、すばやく水道ですすぐ。最後に「おぇ……」とつぶいやいて、先生はげっそりした顔で空のバットに虫つきの胃壁を横たえた。

「かなりん。これ、プレゼント」

「い、いらないです」

「いや、あなたにじゃなくて。秋庭あきば先生のとこに持ってってあげて。たぶん喜ぶから」

 

 手もとでうごめく不気味な生命体を極力見ないようにして、わたしとスズ、ついでにユーシンの三人で研究棟の階段をのぼる。作業用のツナギは脱いだものの、三人とも解剖特有の強烈な生臭さを体じゅうにまとわせている。運悪くすれちがう人たちが異臭にふりかえり、バットの中身にギョッと目を見ひらいては何も見なかったという顔で足早に去っていく。なにもかもが申し訳ない。

 一階から三階へ上がり、ロの字型の廊下を進む。扉にかわいらしいフタトゲチマダニのマグネットを貼っているのが寄生虫学研究室だ。ご丁寧に吸血前のスリムな姿と吸血後の膨れあがった豊満なボディの二種類を貼りつけてある。どこで買うんだ、このマグネットは。

「失礼しまーす」

 ノックして扉を開けると、

「はぁい」

 涼やかな声がして、おなじ学年の寄生虫学研究室室員、香月笹寧かつきささねさんが迎えてくれた。

「あら、かなりちゃんにスズくん、それにユーシンまで」

 ストレートの黒髪に半月型の目をした笹寧さんは、品と知性を兼ねそなえた和風美人だ。だれに対しても優しくたおやか。そのあふれ出る品の良さから、ほとんどの同級生が彼女を笹寧と呼ぶ。だれに対しても。そう、彼女の慈愛のこころはあらゆる生物の垣根を越えて寄生虫をも包みこむ。

 案の定、笹寧さんはバットを覗きこみ、

「あら、まあ」

 と、両手を頬にあてた。かわいい。キュンとするほど可憐なしぐさだ。その対象が馬の胃壁にがっちり食らいつく無数の虫であることに目をつむれば。

「馬の解剖中に出てきたんだけど……その、もしよかったらもらってくれないかなぁ、って」

 おずおずとバットを差しだすわたしに、笹寧さんは、

「えっ、いいの?」

 と、顔をかがやかせた。

「すこし待って。いま、秋庭先生を呼んでくるから」

 長い髪をシャンプーのCMのようになびかせて、笹寧さんは弾んだ足取りで研究室の奥へ消えていった。ユーシンがため息をつく。

「いいなぁ、俺も笹寧さんにほほえまれたい」

「じゃ、ユーシンがこれ持ちなよ」

「うへぇ。それは勘弁」

 ほどなくして、白衣姿の秋庭先生が笹寧さんとともに現れた。

 バットを覗きこむなり、秋庭先生は広いおでこをぺちんと叩いた。

「いやはやぁ~!」

 悲鳴ではない。感動の叫びだ。

「これはウマバエの幼虫ですね」

 うぞうぞ身じろぐ虫たちを満面の笑顔で矯めつ眇めつ眺め、秋庭先生は語りだす。

「晩秋、お母さんバエが馬の前肢やたてがみに産卵し、馬がこれを舐めるわけです。すると、温度変化によって卵が孵化し、幼虫は馬の口腔から胃へ移行する。お母さんバエは冬には死んでしまいますが、この子たちは温かい馬の胃のなかで冬を越し、春先から初夏にかけてうんちと一緒に排出されて、サナギを経て成虫となるんですね。いやぁ、愛する母との別れ、きょうだいと身を寄せあって過ごす幼少の冬、なんともはや、涙なしには語れませんよ」

 目頭を押さえる秋庭先生と、となりで深くうなずく笹寧さん。なんだろう、感動ドキュメンタリーを観たようなこの空気は。スズまでが痛ましい顔で「波乱万丈ですね」などとコメントしている。取りこまれるのが早い。

「先生、ハエの幼虫も寄生虫って括りなんですか?」

 わたしの肩越しにユーシンが質問する。

「広義的に言えば、寄生虫です」

 不勉強を咎めることなく、秋庭先生はにこやかに説明してくれる。

「寄生虫とは、その一生の一部または全部を他の生き物に寄居よりいして生きる動物のことです。狭義の寄生虫は、原虫類とぜん虫類。原虫は単細胞の、顕微鏡でなければ見えない小さなもの……人ではマラリアや赤痢アメーバが有名ですね。一方、ぜん虫は多細胞で大きく、線虫類、吸虫類、条虫類などが属します。魚に寄生するアニサキス回虫、犬でフィラリア症を引き起こす犬糸状虫しじょうちゅう、キタキツネでよくみられるエキノコックス条虫などが挙げられますね。これらの分類に加えて、広義の寄生虫としてダニやハエといった衛生動物が含まれるのです。ちなみに、ウマバエの幼虫はタケノコに似ているのでタケノコ虫とも言われます」

 タケノコが食べられなくなるような情報は聞きたくなかった。

「いやぁ、大変よいものをいただきました。何もお返しできず申し訳ない」

「いえいえ、そんな大層なものでは」

 恭しくバットを受け取る秋庭先生と、恐縮するわたしたち。はたから見ればお中元のやりとりのような会話だが、手渡しているのは素麺でもゼリーの詰め合わせでもなくハエの幼虫である。

 嬉しそうな秋庭先生の目を、そのときふと、わたしは無意識に覗いた。ほんの数秒、さりげなく。

 なにもいない。

「それでは、失礼します」

「はい、ありがとう。加賀見先生によろしく」

 寄生虫学研究室をあとにして、わたしたちは廊下を戻った。階段を降りながら、スズがぽつりと言った。

「やっぱりいなかったね」

 ユーシンもうなずく。

「もうどこかに行っちゃったんじゃねえの、さすがに」


 秋庭先生の右目には、東洋眼虫とうようがんちゅうが棲んでいる。


 都市伝説、学校の怪談、七不思議……そういう類のひとつのように、学生たちの間でまことしやかに伝わるうわさだ。

 まるきりデタラメというわけではない。むしろ紛れもない事実から始まった話だ。なにしろその虫を寄生させたのはほかならぬ秋庭先生自身なのだから。

 東洋眼虫は、主に犬の眼に寄生するひょろ長い線虫だ。まれに猫や人間にも寄生する。すぐさま命に関わるような虫ではないけれど、眼球の表面にいるのだから異物感やかゆみは出るし、放置すれば結膜炎などを引き起こす。

 どういう経緯があったかは知らない。ただ、そのとき、秋庭先生は活きのいい東洋眼虫を手に入れていた。これはぜひ写真に撮りたい、できれば眼虫らしく犬の眼のうえをひょろひょろ泳いでいる姿を収めたい。そう考えた秋庭先生は、けれど、すぐに思い悩むことになる。

 この眼虫を眼に入れさせてくれる犬が見当たらないのだ。

 いや、犬そのものはむしろたくさんいる。なんといってもここは獣医大学。附属の大学病院では献血犬を数頭飼っているし、研究室によっては実験犬を飼育しているところもある。保護犬を飼育する学生サークルもあれば、自宅の愛犬を連れ歩く先生や学生もいる。キャンパス内を歩けば出会わない日はないくらい、この大学では犬に事欠かない。

 問題はそこではない。これは倫理の話だ。ほんの数分、たった一匹の眼虫であったとしても、健康な犬の眼に虫を寄生させるのは犬の尊厳に関わる。いくら犬そのものがたくさんいようと、故意に虫を寄生させていい犬など存在しない。第一、異物が目に入ってかゆがるワンちゃんなんて見たくない。そんなのはかわいそうすぎる。

 かくして、秋庭先生は決断した。当時の室員にカメラを渡し、件の東洋眼虫を一匹ピンセットでつまむと、自らの眼に入れたのだ。そう、寄生虫学者がやりがちな「自分の体で試す」を行使したのである。

「いやはや、目の中に入れても痛くないということわざがありますが、東洋眼虫も小さいのを一匹くらいなら大した刺激ではありませんでしたよ。ときどき、視界にちらっと映るのが気になりましたが」

 文字通り体を張って撮影した眼虫とのツーショット写真を授業スライドに載せ、秋庭先生はほくほく笑った。しばらくはそのまま飼いつづけたらしいが、いつのまにかいなくなってしまったという。おそらく目から落ちたか、ごみと一緒に涙で流れたのだろう、と名残惜しそうに語っていた。

「まあ、現実的に考えればそうなんだろうけど」

 なにげない口調で、スズが言った。 

「でもさ、だれも見てないんだよね、眼虫が落ちたところを。秋庭先生本人も」

 階段の途中で足をとめ、三人そろって顔を見あわせる。

 いやいや、まさか、江戸川乱歩の短編小説じゃあるまいに。

 でも、そう。だれも見ていないのだ。眼のなかに入れた一匹の虫が、その後、どうなったのか。

 もしかしたらいまも、まぶたの裏に。

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