4.スズのこと
スズは、近所に住むひとつ年下の男の子だった。初めて会ったのはわたしが小学一年生のころ。わたしの姉である
「わたしも弟がほしかったな。あんな小憎たらしい妹じゃなくてさ」
もちろんわたしは全然おもしろくなかったけれど、鈴木
「歳の近いもん同士、なかよくやりな」
ひとしきりスズをお人形扱いすると、葉月は体よくわたしに遊び相手を押しつけ、かよちゃんとふたりで自分の部屋(わたしの部屋でもある)を独占するか、自転車で外へ出かけてしまう。はづきのばか。わたしだって、こんなお姉ちゃんいらないよーだ。
とはいえ、実際にスズの面倒を見ていたのは、わたしではなく金成家の愛犬、マロだった。
マロはシベリアン・ハスキーで、この犬種にありがちな凶悪な般若顔ではなく、焦げ茶色の目をした優しい顔立ちの女の子だった。目のうえの模様がお公家さまみたいだからマロ、という安直なネーミングではあったけれど、性格もまったりまろやかで、人間のこどもを嫌がらなかった。
「ケンちゃん、なにして遊ぶ?」
そう聞くと、スズはいつも、
「マロと遊ぶ」
と言って庭へ出ていき、ボールを投げたり追いかけっこをしたり、わたしが飽きて家のなかに入ってしまっても、ずっとマロと一緒にいた。なぁんだ。結局、いつもわたしだけ仲間はずれ。じゃれあう男の子と大きな犬を窓越しに眺めながら、わたしはリビングでひとり、冷めた紅茶とちょっと高級なクッキーをばりぼり食べた。
「いっちゃん、僕んちも犬飼えることになった!」
小学五年生の冬の日の朝、わたしが登校班の集合場所へ着くなり、スズはぴょんぴょん跳ねながらそう報告してきた。いったいいつから待ってたんだろう。いつもは集合時間ギリギリまで来ないくせに、その日はほっぺがりんごみたいに赤かった。
「へえ、よかったね」
わたしは犬を飼っている先輩として、クールにそう返した。そのころには、わたしはもう彼のことをケンちゃんとは呼ばず、彼の同級生たちにならってスズと呼んでいた。
「保護犬だったら飼ってもいいよってお父さんが言ってくれたんだ。だからね、今度の土曜日、みんなでジョウト会に行くの。僕、マロみたいな大きい犬がほしいなぁ。お姉ちゃんは小さいのがいいって言うんだけど。気に入った子がいてもすぐにはもらえないんだって。一度捨てられた子たちだから、もう二度と捨てられないように時間をかけてちゃんとした飼い主を選ぶんだって」
よっぽど嬉しかったんだろう。みんなで列になって学校へ向かう道すがら、スズはわたしの赤いランドセルめがけてずっとしゃべりつづけていた。
数週間後、わたしは鈴木家の犬のお披露目会に呼ばれた。柴犬の血が混じった、ちいさな雄の成犬だった。
「ヒロだよ」
人間じみた名前をつけられて、犬はスズの腕のなかで尻尾を振るでもなくじっとこちらを見ていた。あんまり犬らしくない犬だな、と思った。マロの方が、ずっとかわいい。
「大きい犬がよかったんじゃないの?」
意地悪でそう言ってみたけれど、スズは、
「うん。でも、ちっちゃいのもかわいい」
と頬ずりなんかしちゃって、新しい家族にすっかり夢中だった。
姉同士が進学とともに疎遠になっても、わたしとスズは「犬と遊ぶ」という名目で互いの家を行き来していた。とはいえ、思春期のこどもほど傲慢なものはない。中学校に入学したとたん、わたしはスズとの交流が急に気恥ずかしくなった。すこし大きいセーラー服に袖を通し、新しい友達と新しい通学路を歩く。変化の波になんだか自分が一段も二段も格上げされたような気がして、同時にまだ黒いランドセルを背負っているスズがとてもこどもっぽく見えた。小学生の、それも男の子と遊ぶなんて。高慢チキなガキのわたしにとって、それは「ダサい」以外の何物でもなかったのだ。
「もううちに来ないで」
と突っぱねたとき、スズはもちろん、
「なんで?」
と反抗した。
「べつにいっちゃんに会いにいくわけじゃないし。マロと遊ぶだけだし」
おとなしいスズにしてはめずらしく強い口調で、わたしはちょっとひるんだ。それでも結局、他人の気持ちを優先させてしまうスズだから、それ以来、彼が金成家に寄りつくことはなかった。わたしはというと罪悪感なんて欠片もなくて、これで煩わしい幼馴染の縁が切れると清々していた。
スズが中学を休むようになったのは、わたしが三年生に上がってしばらく経ってからだった。学校帰り、スズのお母さんが愛犬ヒロの散歩をしているところに出くわし、図らずも彼の登校拒否を知ることになった。
「ま、全然想定してなかったわけじゃないのよ、こういうことは」
息子が不登校だというのに、スズママはずいぶんあっさりしていた。でも、途方に暮れられるよりずっといいかも、とわたしは思った。もしわたしが学校に行かなくなったとして、母がわたしの友達相手に深いため息なんてついてたら、絶対、死にたくなる。
「マロがスズに会いたいって」
週末、わたしはスズに電話をかけた。電話口では生返事だったくせに、スズはすぐにうちへ来た。
「マロ、もうあんまり耳が聞こえないんだね」
ずいぶん白くなったマロのひたいをくすぐり、スズはそうつぶやいた。以前は人の足音が聞こえるや玄関へ飛んでいったマロは、もうすっかりおばあちゃんになって、一日のほとんどを寝て過ごすかぼんやりひなたぼっこをするばかりになっていた。
「いっちゃん、僕って、変?」
マロのおなかを撫でながら、スズはそんなことを聞いた。
「変ってなにが」
「ナヨナヨして、気持ち悪い?」
「スズがオラオラしてる方がよっぽど気持ち悪いよ」
「動物が好きなのって、女みたいなんだって」
「はぁ? なにそれ。女にも動物にも謝れよ、そいつ。ねえ、マロ?」
おまえもそう思うよね、と顔を覗きこむと、マロは「おぉん」と上手に相槌を打った。
「言っとくけどね、オラつくのがかっこいいと思ってる男子、ちょーぜつダサいから」
ビシッと言ってやったつもりだったのに、スズは表情ひとつ変えず、マロを撫でつづけた。そして、
「人間なんて嫌いだ。昔っから」
と、ぽつりと言った。
数か月後、マロが亡くなった。冷たく硬くなったマロのまえで、スズは誰よりも泣いた。肩を震わせるスズの後ろ姿に、わたしも葉月も、もう涙は出つくしたと思っていたのに、また瞼が腫れるほど泣くはめになった。次の日、ペット霊園で火葬をした。ものごころつく前から一緒だった、動物病院へ連れていくと先生ふたりがかりで診察台にあげてもらっていた大きくて温かいマロは、つるりとした骨壺のなかに収められ、わたしの腕に抱かれて帰ってきた。わたしたちは、庭のモクレンの老木のもとにマロの白い骨を丁寧に埋めた。
スズはまた学校に通いはじめた。スズがどんな学校生活を送っていたのか、受験生のわたしには知ろうとする余裕はなかった。無事に受験を終え、高校に入学するとさらに毎日が目まぐるしくなり、たとえ近所でもスズと顔を合わせることはほとんどなくなった。一年後、スズは遠くの高校に合格し、町を離れた。今度こそ本当に縁が切れたみたい。スズの家のまえを通るたび、わたしはぼんやりそう思っていた。
……はずだったのに。
「ユーシン、ちょっと見てよ、僕の肺のレントゲン写真」
「おまえの肺みたいに言うな」
「ねえ、これどこに異常があるの? 肺に白い影もないし、心臓も気管も正常じゃない? それともこのへんのモヤモヤが異常なの? これ血管だよね? もうさ、何が正常なのかも分かんないよ」
「よっしゃ、スズちゃん、とりあえず俺のレントゲンを見て肺の正常像をおさらいしようぜ」
「ありがとう、ユーシンは優しいなぁ」
「あ、ごめん、俺のやつ股関節だったわ」
「ユーシンは馬鹿だなぁ」
まさか大学で毎日顔を合わせることになるなんて。
「人生って本当に何が起きるか分かんないな」
「いきなりどうしたの、いっちゃん」
なんでもないよ。ねぇ、マロ? おまえもそう思うよね。
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