3.ユーシンと画像診断

「カネナリカズキさん」

 はい、と返事をして、なにくわぬ顔で課題を受けとる。放射線学教室の時田ときた先生は、今日も眼鏡の奥の目がちょっと気だるげ。この適度にやる気のない眠そうな目がレントゲン写真を前にすると一転、どんな小さな異常も見逃さない鋭い観察眼に様変わりする。顎に手をあてて画像を読み解く姿から、ついた異名は『放射のガリレオ』。ただ、人の名前を覚えるのは苦手みたい。

「さて、プリントをもらってない人はいませんか? 全員に同じ課題を出してもつまらないのでね、今年はひとりひとりに違う症例を当ててみました」

 教室が「おー」と「うぇー」であふれかえる。学生たちの反応に、

「そんなに喜んでもらえるとは」

 と時田先生はうすぼんやりほほえむ。

「プリントを読んでもらえば分かると思いますが、飼い主の稟告、臨床症状、レントゲン写真などから考えうる疾患とその機序、追加でやるべき検査や治療法についてまとめ、来週の金曜日までに提出してください。とはいえ、八十症例も探すのはさすがに僕も骨が折れますからね、ほとんど同じといっていい症例もけっこう混じってます。そのあたりは、似ている症例のお友達同士で自由に話しあってかまいません。ただし、与えられた症例の交換はなしです。この課題は後期の臨床実習でも役立つでしょうから、みなさん、積極的に取り組んでくださいね」

 


 午後の講義を終えて解剖実習室の前室へ戻ると、ユーシンが黙々と週刊少年ジャンプを読んでいた。

「またあんたは、うちの室員みたいな顔して……」

「お、かなりん。おつかれー」

「かなりん言うな。そして居座らない。リンパンへ帰んなさい」

「カナリちゃんよ、そろそろ俺を解剖の準室員として認めてくれてもいいんだぜ」

 ユーシンは、臨床繁殖学教室、通称リンパンの室員だ。本来ならよその研究室に出入りしてくつろぐなんてなかなかできないんだけど、うちの解剖学教室には実習室のみならず前室なんていう学生がたむろするにはうってつけの閉鎖空間があるから、ほかの研究室の室員たちが堂々と入り浸ってしまう。

「かなりん、今日、時田先生に名前まちがえられてたっしょ」

 漫画のページをめくりながら、ひひひっと笑うユーシン。

「言えばよかったのに。カネナリカズキじゃなくて、カナリイツキですって」

「べつにいいよ、名前なんて」

 金成一樹かなりいつきという名前を正しく読んでもらえたことは、二十四年の人生で数えるほどしかない。小学生のころは金のなる木なんて言われてからかわれたし、字面から男子とまちがえられることもしょっちゅう。まあ、「かなりん」なんてかわいい響きのにあう女でもないから、そこはあんまり気にしてないけど。

「放射の課題、かなりんのはどんなのだった?」

「心臓疾患。たぶん、僧帽弁そうぼうべん閉鎖不全だと思うんだけど……」

 レントゲン写真の載ったプリントを手渡すと、ユーシンはまじまじと写真を見つめ、

「ほんとだ。心臓、まん丸じゃん。なになに……元気消失、発咳、心雑音あり。おまけに犬種がチワワかよ。こりゃほぼ確定だね」

「だから、追加の検査として超音波で弁の動きとかを見て……治療法は調べる」

「これ、肺水腫も起こしてるっぽいね」

「あ、そっか。肺、見てなかった」

「ほら、ここ。心臓が気管を圧迫してんじゃん。だから咳出てるんじゃね」

「すごい、ユーシンがちゃんとレントゲン読んでる」

「惚れちゃった?」

「ユーシンの課題は?」

 無視かーい、と大げさにのけぞってから、ユーシンはごそごそとかばんを漁った。

「俺のはね、楽勝。マジ、ちょー楽勝よ」

 そう言って手渡されたプリントには、腹側から股関節を中心に撮ったレントゲン写真。一見なんでもないように見えるけど……。

「なんか、寛骨臼かんこつきゅう大腿骨頭だいたいこっとうの間がもやもやしてる……?」

「え、すげえ、寛骨臼とかパッと名前出てくるんだ」

「解剖ですから。えーっと、股関節形成不全?」

 わたしの答えに、ユーシンは「せいかーい!」と長い腕で大きく丸を作った。

「というわけで、治療法は大腿骨頭切除か人工関節! はい、おしまい!」

「でも、この犬、大型犬で歳とってるよね。手術に耐えられるかな」

「げっ、そこ突っ込む?」

「絶対突っ込むでしょ、時田先生は」

 うえぇー、と机、もとい、解剖台に突っ伏すユーシン。わたしはその肩にぽんと手を置いて、

「まあ、レントゲンの画像自体は難しくなくてよかったじゃない」

 となぐさめた。

「うう、そうだよね。肺の疾患に当たらなかっただけマシと思えば……」

「そうそう、肺は分かんないよ」

「うん、肺は分かんないわ」

 そのとき、準備室の扉が勢いよく開き、わたしもユーシンもびくりとして顔をあげた。スズが無表情で立っていた。右手にレントゲン写真のプリント、左手には赤いリード、そして、かすかな犬のにおいと息遣い。ちょうど解剖台に隠れて見えないけれど、どうやらまひろを連れているらしい。

 凍りついていたスズの表情は、けれど、わたしたちを見るや、電子レンジに入れたチーズみたいにふにゃふにゃ溶けていった。

「いっちゃぁん、ゆーしぃん……」

 なんとも情けない声をあげ、冷たい解剖台に頽れたスズは、レントゲン画像のプリントをぐしゃりと握りつぶして叫んだ。

「肺が分かんないよぉー!」

 あちゃー……。

 絶望に打ちひしがれる飼い主を、何も知らない犬のまひろが笑顔で見あげていた。

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