2.タキさんと骨格標本

 解剖実習室のドアを開けたら、タキさんが床に這いつくばっていた。

「……びっくりしたぁ」

 解剖台の下に潜りこんだまま、タキさんはちらりとわたしを見あげる。

「カナリちゃん、第四指骨だいよんしこつ、見なかった?」

「タキさんの薬指なら両手にくっついてます」

「洗濯ネットに入れたはずなんだけどねぇ。洗うとき水道に流しちゃったかな」

 お世辞にも衛生的とは言えない床にすれすれまでほっぺを寄せるタキさん。解剖台の上には、無数の骨がいくつかのグループに分けられて置かれていた。まだ分類の途中なんだろう、傍らの銀色のバットのなかで、残りの骨たちが仕分けされるのを辛抱強く待っている。

「弱ったなぁ。指が一本ないのはやっぱり恰好つかないよねぇ」

 タキさんの独り言を無視して、わたしは腐りかけのコンロの上でぐつぐつ煮立っている寸動鍋に近づいた。

「こっちは何を煮込んでるんですか」

「おんなじやつだよ。月齢がちがうだけ」

「今度はなんの生き物ですか」

「カナリちゃんがよく知ってるやつ」

 鍋のなかを覗きこむと、強烈な生臭さが鼻を刺した。おえっ。目の奥までツンとする。洗濯ネットに入れられた骨たちは、ぼこぼこ沸きたつ気泡にもまれ、押しあげられ、入れ替わり立ち替わり何かを叫んでいるように見える。

「まあ、いいや。そのうち出てくるでしょ」

 指骨探しをあきらめたタキさんは、解剖台の下からもそもそ這いあがると残りの骨を分類しにかかった。薬品に漬けこんで真っ白になった骨たち。大人数のアイドルグループさながらに似通った顔立ちのそれらを、タキさんは地図を描くようにひょいひょい並べていく。

 思えば、私が解剖学の研究室に入ろうと決めたのも、タキさんの骨格標本作りを見たのがきっかけだった。バラバラになって正体をなくした骨を黙々と繋ぎあわせ、いつのまにか見覚えのある生き物が姿を現す。魔法みたいだと思った。

 タキさんのことを本名の瀧田たきたさんと呼ぶ人はあんまりいない。丸顔に坊主頭、丸い眼鏡という風貌が音楽家の瀧廉太郎にそっくりだから、みんなタキとかレンタローとか呼んでいる。タキさんの方もケータイの着メロをしれっと『荒城の月』にしているあたり、まんざらでもないらしい。

「カナリちゃん、卒論の研究、進んでる?」

「まぁ、ぼちぼちですね」

「五年生のうちに進めといた方がいいよ。六年になると意外と時間取れないから」

 耳の痛い話だ。わたしは解剖台を挟んでタキさんの向かいに座った。散らばった骨のうち名称の分かるものをなんとなく指さしてみる。

頭蓋骨とうがいこつ

「うん」

肩甲骨けんこうこつ

「うん」

「あ、これ、第三頸椎だいさんけいつい。エヴァの顔みたいだから」

「そういう覚え方?」

大腿骨だいたいこつ

「さて、右足と左足どっちでしょう?」

「えー。まって、ここが大腿骨頭だいたいこっとうで……」

「うん。で、大転子だいてんしは?」

「大転子は……ここ。あ、だから、こっち側が後ろにくるから……分かった、左足だ」

「正解」

 適当にわたしをあしらいながら、タキさんはグループ分けした骨を今度は組み立てにかかった。ワイヤーに第一、第二と頸椎を通していく。一見すると似たり寄ったりの椎骨たちも、この人にかかれば着々と正しい順番に連ねられ、やがて緩やかな美しいカーブができあがる。 

「タキさんは、卒業したらどうするんですか」

 なにげなく大腿骨をつまみあげてそう尋ねると、タキさんは骨のひとつひとつをつぶさに観察しながら、

「地元の公務員獣医」

 と答えた。

「地元って埼玉ですよね。けっこう倍率高いって聞いたような……」

「まあ、首都圏だから人気ではあるよね」

「採用試験は?」

「六月」

「いいんですか、こんなことしてて」

 先輩相手につい真顔で問いただしてしまった。タキさんは「まあ、息抜き、息抜き」なんて飄々としている。息抜きに骨格標本作る人なんて、うーん、いるんだなぁ。

「公務員かぁ。意外だな。タキさんは、そのまんまこういう仕事に着くのかと思ってました」

「こういう仕事って?」

「大学に残るとか、博物館の研究員とか」

「いやぁ、無理、無理」

 見当違いなことを言ったつもりはなかったのに、タキさんはわたしのことばを愉快そうに一蹴した。

「研究者はさ、よっぽど頭よくて情熱と忍耐がないとつづかないよ。先生たちの給料聞いたら、あんまりアレすぎてさ」

 笑いながら肋骨を並べるタキさんに、「ふうん」なんて相槌を打ちながら、すこし寂しくなった。こんなにも知識と技術がある人でさえ手を伸ばせないのか。情熱と忍耐。でも、きっとそうなんだろう。情熱と、忍耐。

 ふと、足もとに米粒のような白いかけらが見えた。

「タキさん、これって」

 拾いあげたかけらを目にするや、タキさんは大きくのけぞって、

「あったー! 第四指骨!」

「よかったですね、見つかって」

 ちいさなちいさな骨のひとつを、タキさんは丁寧にピンセットでつまみ、指骨のグループに加えた。仲間と合流できてよかったね、なんてほほえましく眺めるも、混ざってしまえばもうどれが迷子の骨だったのかも怪しくなる。それくらいささいな、直径数ミリの指のさき。けれどもタキさんの言うとおり、あるとないとじゃやっぱりちがうのかもしれない。恰好つかない。そうだ。それってけっこう大事なことなんじゃないか。

「あ」

 ふいに見えた。この形、この大きさ。解剖台の上に見慣れた生き物が錯視のように浮きあがる。

「ラットだ」

 おもわず声をあげたわたしに、タキさんは顔を上げることもなく、ただ丸眼鏡の奥の細い目をいっそう細め、「正解」と言った。

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