転
田舎の夜は怖いほど暗い。
ほんの一メートルさきも見通せない。
星空なら美しいのだろうが、あいにくの天気のせいで、空もよどんで気味が悪かった。
道わきの樹木が黒く立ちならび、おびただしくかさなりあう。関東とは植物相が違うのか、見なれない木が多い。もっともシルエットでしか認識できないせいかもしれない。やけに影がいびつに見えた。
そこに闇以外の何かがひそんでいたとしても、まったく区別はつかない。
何よりも歩行に困る。
竜児の手にした一本の懐中電灯だけが頼りだ。
静寂には厚みがあり、そのなかに多くの生き物を内包することを告げていた。
虫の声は妙にさみしく、遠くのほうから、さらに奇妙な声が聞こえた。ホウホウというのはフクロウだとしても、ときおり、声のぬしの想像がつかない悲鳴のような声がして、純夜たちの神経をおびやかす。
「……ヤダなぁ。暗くてよく見えない」
純夜が言うと、竜児は鼻で笑った。
「ころんだって、すり傷になるだけだ。あっ、ここがわかれ道だ。じゃあ、お堂はこっちかな」
詩織が話していた、二股のところまで来た。
お堂に続く細道に入ろうとしたとたん、何かが近くで「ギャアギャア」と鳴き声をあげた。バサバサと鳥の羽ばたきのような音がして、遠ざかっていく。
正直、心臓がとびはねた。
まるで、そっちへ行くなと警告されたような、イヤな感じがする。
「なんだよ。おどかすなよなぁ。鳥のぶんざいで」
竜児の心臓は鋼鉄なのか文句を言っている。
しばらく歩くと、竜児が言った。
「水の音がするな」
「うん」
水音には純夜も気づいていた。
小川のせせらぎだろうか。
夜のしじまのなかで聞くと、やけに耳につく。
水音が高まるごとに、道が細くなっていった。
ほんとうに、こっちでよかったのだろうかと不安になりかけたころ、お堂が見えた。
高さ一メートルほどの巣箱みたいなお堂。
いちおう、神社の形にはなっている。
不謹慎に竜児が笑いだした。
「えっ? これ? ちっせ!」
緊張して夜道を歩いてきたぶん、気がぬけたのだろう。
「まあ、小さいほうが百周するのにもラクだしさ。やってみる?」
「五分で終わるよな」
「五分はムリだろうけど、三十分もかからないだろうね」
「ここまで来たんだし、やってみるか」
そういう相談になった。
「お百度詣りはお堂の壁に手をつけて歩くんだ。竜児、懐中電灯持ってるんだし、さきに行ってくれよ」
「ああ」
巣箱みたいなお堂だから、手をあてて歩くためには、肩がぶつかるほど密接しなければならなかった。
まわりには木がおいしげり、行く手をさえぎるので、ジャマになってしょうがない。柊だろうか? 葉が尖っていて、薄着の腕を傷つける。けっこう痛い。
「イッテ! これ、前のほうが損じゃね?」
「だって、明かりがないと進めないよ」
「そうだけど」
茂みをかきわけ、ほんの一メートルも進むと、最初の角に来た。純夜の前でまがろうとした竜児が、とつぜん悲鳴をあげて、あとずさってきた。つきとばされて、純夜は尻もちをついた。
「何するんだよ? 痛いだろ?」
「それどころじゃねぇよ。あ……あぶね。死ぬとこだった」
竜児の声がふるえている。
純夜は立ちあがり、竜児のうしろから、そのさきをのぞき見た。
なるほど。茂みのきれめが急に崖になっている。それも、かなり高い。崖下まで十メートルはある。落ちていれば、かるいケガではすまなかった。
懐中電灯の光を受けて、底のほうが鈍くきらめくのは、崖下に川が流れているせいらしい。暗闇が物質のようにわだかまっていて、なんだか、そこから別世界のように見える。
暗いということは、これほどまでに恐怖をつのらせるものなのか。そこに特別な何かがあるわけでもないのに、むやみとふるえがついた。
谷底の深い闇から、なんだかわからないものが、今にも這いあがってきそうな気すらした。
「なんだよ。ここ。お堂のまわりなんか歩けねぇよ」
あやうく死にかけた竜児は、しだいに腹が立ってきたようだ。口汚く、あれこれ罵りだす。
「まあ、伝承なんて、こんなもんじゃないの? 観光客が歩きまわらないように柵くらい、つけといてほしいけどさ。もう離れにもどろう。疲れたよ」
純夜がなだめると、ようやく罵るのをやめた。
純夜たちはひきかえし、離れにむかって帰っていった。
暗い道をとぼとぼ歩いている途中で、急に懐中電灯がパチパチと点滅した。
「うわッ、最悪。やっぱ、おれ、ついてないのかなぁ? 電池切れるまでに帰れるかな。おい、純夜。走ろうぜ」
「えっ? ちょっと待てって。急に走るなよ」
竜児が走りだすので、懐中電灯の明かりが遠くなる。急速に闇が体にまといついてきた。方向もわからなくなる。
怖い。置き去りにされると思ったとき、たまらなく怖くなった。
あわてて竜児のあとを追いかけた純夜は、木の根か何かにつまずいて、みごとにころぶ。
こんなときホラー映画なら、誰かの手が純夜の足首をつかみ、森のなかにひきずりこんでいくんだろうな、なんて妄想が浮かんで、なおさら一人でいることが恐ろしくなる。
(あっ、光が——)
ふわふわと漂う人魂のように、木の間に見えかくれし、遠ざかっていく懐中電灯の小さな光が、ふうっと、いよいよ暗く薄れていく。
やがて、消えた。
完全なる闇だ。何も見えない。濃紺の星のない空のもと、樹木や山並みが黒やダークグレーの濃淡で、ぼんやりとした輪郭を形づくっている。それが、すべて。
とにかく、さっき光が消えた方角が離れの場所だ。
純夜は気をとりなおし、ゆっくり立ちあがった。
お百度詣りの伝説はウソっぱちだったし、何も怖いことなんてない。座敷わらしも出てこないし、詩織さんは雪女みたいな美人だが、ふつうの人間だ。
純夜は懐中電灯が消えたと思うほうへと、そろそろ進んでいった。森のなかで迷っていないか、迷うんじゃないかという思いが不安をさそう。
夜の静寂が、かわいた土をふむ純夜のかすかな足音を、やけに強調する。
(自分の足音が怖いって、末期だろ)
純夜が内心、自嘲していると、前方で闇のかたまりが動いた気がした。
さっきの強がりはなんだったのかというほど、バカみたいに心臓がちぢみあがる。
立ちすくんでいると、ガサガサと音がした。
何かが近づいてくるのか?
野生動物?
それとも……?
急に突風がふきつけてきた。木々の葉がすれて、ザワザワと大きくざわめく。
緊張の糸がほどけ、純夜は長い息を吐いた。
なんだ。風で木がゆれてただけか……。
その瞬間ーー
「わッ!」
とつぜん、木のかげから黒いかたまりがとびだしてきて、純夜の目の前で大声をあげた。わあッと純夜が叫び声をあげると、影は笑った。その声、竜児だ。
「なんだよ、もう! おどろかせるなよ!」
「おまえが来ないから迷ってるんじゃないかと思ってさ。ひきかえしてやったんだぜ?」
「そりゃ、どうも!」
しかし、ゲンコツで小突きあっていると落ちついてきた。
こいうとこは、ほんと、いいヤツなんだよな……。
ならんで歩いていくと、すぐに離れが見えた。ずいぶん近いところで恐怖にふるえていたのだ。そう思うと、純夜は笑いたくなった。
「さあ、もう寝ようぜ。明日も詩織さんにサービスしなくちゃ」
竜児の心は美女のもとへ飛んでいる。
純夜は、ため息をついた。
「おまえさ。美野里とつきあってるんだろ? そういうの、もうやめたら?」
「そういうのって、なんだよ?」
「二股だよ。円華のときだって……」
竜児はうるさそうに、つっぱねた。
「結婚するまでは自由恋愛さ」
「でも、円華がああなったのは……」
「そういうの、なしなし。それとも、おまえ、円華のこと好きだったのか?」
純夜は答えられなかった。
二人はだまりこんで、離れの雨戸をあけた。
建物のなかは外より、さらに暗い。何も見わけがつかない。
しかし、すうすうと寝息が聞こえてきた。
すでに美野里は眠っているらしい。
純夜と竜児は手さぐりで布団へもぐりこんだ。
*
どのくらい眠っていただろうか。
夜中に純夜は目がさめた。
なぜ、自分が起きてしまったのか、よくわからない。疲れていたから朝まで熟睡すると思っていたのに。
変だな……。
寝ぼけた頭で考えながら、純夜はもう一度、目をとじた。そのまま寝入りかけていたが、ハッと気づいて目をあける。さっき、目をとじる前に妙なものが見えた。目をあけると、それはやっぱり、そこにあった。
(なんで、布団が?)
純夜の布団のとなりに、もう一組み、布団が敷かれているのだ。
布団はお堂へ行く前に、美野里が敷いてくれた。美野里と竜児が二つならべたほう。純夜は一つだけのほう。
でも、今、闇になれた視界には、たしかにもう一組みの布団がある。
もしかして、純夜たちがお堂へ行っているうちに、美野里が敷いたのだろうか? なんのために? 純夜たちが帰ってきたときに、おどろかせるつもりで?
わけがわからず、ぼんやり布団を見つめていた。
すると、外のほうから音が聞こえた。
サクサクサク……。
また風だろうか?
木の枝がゆれる音か?
サササ……サク……サク……。
純夜は耳をすました。神経が異様にとぎすまされる。そして、気づいた。
いや、違う。風が木の葉をゆらす音ではない。
あれは土のくずれる音——
(足音……?)
野生動物のようだ。やはり、このあたりは、いろいろな動物がいるらしい。狐か狸、それともハクビシンのような外来種だろうか?
まあ、熊や猪でなければいいよと、純夜は思った。
目をとじて眠りにかかる。
ウトウトしかけたとき、また音がした。
ザクッ——
今度は大きい。
純夜の眠気はふっとんだ。
思わず、とびおきる。
布団のなかで半身を起こし、外のようすをうかがった。
ザクザクザク——
その音は続いていた。
まちがいない。誰かが、この離れのまわりを歩いている。動物のようではなかった。なぜなら、それは意図的に離れの建物を周回していたから。
一周。二周。三周。それでも、いっこうにやめる気配がない。
ザザザザ。ザザザ……ザクッ、ザクザク。
しだいに足音のペースが速くなる。
いったい、誰がなんのために夜中に、こんなことをしているのか?
純夜はただ恐ろしく、布団のなかで硬直していた。
しばらく息をひそめていると、さすがにこの物音で竜児も起きてきた。
キョロキョロとあたりを見まわし、半身を起こした純夜に気づき、近よってくる。
「なんだよ。あれ?」
ささやき声でたずねてくるので、
「知らないよ」
純夜も小声で返した。
「さっきから、ずっとなんだ」
ザクザク。ザザザ。
ザザザザ——
足音は続く。
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