黄鶴楼の別れ

阿部善

本文

「故人西の方黄鶴楼を辞し」

 唐代中国の「詩仙」と呼ばれた詩人、李白が長江の辺にある黄鶴楼にて旧友であった孟浩然との別れを惜しんで詠んだ詩だ。電車も車も無く、移動手段と言えば徒歩と、精々馬か舟くらいしか無かった時代。電話もネットも無く、連絡手段と言えば口頭と、狼煙と確実に届く保障の無い手紙くらいしか無かった時代。「別れ」と言うのは非常に重かった。一度別れてしまえば再び出会う事は、まず無いと言っても良かった。実際、黄鶴楼での別れの後、二人は二度と再会する事は無かったと言う。

 しかし、今は違う。遠くへ引っ越した友人とも、新幹線や飛行機に乗って飛んで行けば容易に再会できる。実際に会えなくとも、ネット上、例えばフェイスブックやツイッター等で、常に繋がっていられる。だから現在は「別れ」と言うのは一時的なものに過ぎないのだ。

 私は今、李白が彼の詩を詠んだその「黄鶴楼」の名を冠した中華料理店に来ている。この「黄鶴楼」と言う店、不味い、と言うまででは無いにせよ、とても美味しいかと言えば、そうでは無い。しかし、ボリューム満点の中華料理をリーズナブルな価格で食べる事ができる。それ故に人気の中華料理店となっていて、連日客足の絶えない店となっている。

 私がこの店に来た理由は、私が二年間所属した吹奏楽部の送別会だ。卒業式を終えた三月の上旬。大学受験を終えた先輩方を、在校部員総出で送り出そう、と言う趣旨である。店の座敷席で、在校部員の方が多い為どうしても例外が出てしまうが、概ね私達在校部員、それに卒業部員がそれぞれ一列ずつ、向かい合って長テーブルを囲うような形だ。私の向かいに座ったのは、幸か不幸か、私が片想いを抱く、川田悠平先輩だった。

 私と悠平先輩は同じ中学校の出身だけれども、はっきり言うと先輩と後輩、以外の何物でも無く、中学の頃は互いに面識は無く、一言も話した事が無かった。それが一転したのは、高校に入学して吹奏楽部に入った事だ。

 私は楽器に関しては全くの初心者であったが、楽器なんてやった事ないけど何とかなるだろう、と舐めた態度で吹奏楽部に入部した。その結果、楽器が何も演奏できずに部内で孤立してしまっていた。そんな私を除け者にせず、一からトランペットの吹き方を付きっきりで優しく教えてくれたのが悠平先輩だった。彼のお陰で、私はトランペットをきちんと吹く事ができるようになった。この事を機に、私は次第に彼に惹かれていき、片想いを抱くようになっていった。勿論、彼が所謂「イケメン」である事も大きかったけれども。

 向かい合っている私は、つい俯いた格好をしてしまう。恥ずかしくて、恥ずかしくて彼と向き合っていられない。俯きながらじっと、料理が運び込まれるのを待っていた。吹奏楽部として一斉に同じメニューを注文している為、全員が同じ唐揚げ定食となっている。アンケートの結果、唐揚げが嫌いな部員はいなかったからそうなったらしい。

「なあ、結奈」

 私の名前を呼ぶ甘い声がした。この声は、周囲の部員がワイワイガヤガヤ騒いでいる中でもはっきりと判別がつく。悠平先輩の声だ。私は顔を上げる。とても恥ずかしい。好き、と言う想いが、爆発しそうになってしまう。

「何で下を向いているんだ?」

 悠平先輩に、俯いている事に気付かれてしまった。これはとても恥ずかしい。

「いや、いや…。川田先輩、何でも、何でも無いですよ!」

 私は苦し紛れに言って誤魔化す。

「変だな。結奈、お前、顔が赤くなっているぞ」

 指摘されたくない事を指摘されてしまった。けれども、ここは何としてでも平気な振りをして切り抜けたい。「好き」と言う感情を、絶対に表に出したくないのだ。

「暖房が効きすぎていて、暑いから…」

 私は苦笑いして苦しい言い訳をした。悠平先輩は、私を見て不思議そうな顔をしていた。

「その、分厚いジャケットのせいじゃないか?」

 悠平先輩は言う。即興で考えた言い訳だから、全く本心では無いが、明確に暑い、と言う意思を示さなければ私が彼に対して照れている事に気付かれてしまう。だから私はジャケットを脱いで脇に置く。

「はあ、すっきりした、すっきりしたあ」

 私はわざとらしい演技で誤魔化した。片想いは、胸に秘めておきたい。告白しても、私の事を好きになってくれるとは限らないし、振られたり、彼に好きな人が別にいたりした場合のショックが大きいからだ。勿論、向こう側から告白してくれば、大喜びで「実は好きだった」と告白し返すつもりでいるのだけれども。

 唐揚げ定食が運び込まれてきた。唐揚げ六個に、サラダ。米飯と、溶き卵中華スープ。中華料理店の定食として、大凡オーソドックスなものである。

「いただきます」

 部員皆の声が一斉に鳴り響いた。別にこのタイミングで言おう、としていた訳では無いのに、不思議な事に。これが阿吽の呼吸という奴か。皆が定食を食べ始める。食べている最中、悠平先輩は言う。

「俺、オーストリアに留学するんだ。来週の月曜に、日本を出る」

 悠平先輩はさらっと、大事な事を言った。ただ、別に初耳、と言う訳では無く、別に驚きやしない。彼と一緒に吹奏楽部にいた時、音楽の勉強をもっとしたいから、オーストリアに留学したい、と盛んに言っていた事はよく覚えている。ただ、実際に留学する、と知ったのは初めてだ。彼が吹奏楽部を引退してから今日に至るまで、素直に向き合えずにいたが故、彼と全く会わず、話さなかった。一方でフェイスブックとツイッターでは繋がっていたけれども、先輩は私なんかとは違い、真面目な人だ。そんなものは休止して、勉強に専念していた。

「おめでとう、川田先輩。夢が叶いましたね」

 私は言う。彼自身の決めた道だから、精一杯応援してやりたい、そう思ったのだ。

「ありがとう、結奈。その言葉、確と受け止めたよ」

 悠平先輩は言う。

「でも、先輩が海外に行ってしまうと、何だか寂しくなりますね」

「大丈夫。ツイッターとフェイスブックも、今日から再開する予定だ。離れていても、いつでも繋がっているから、安心して」

 そう、離れていても繋がっている。何故ならインターネットがあり、いつでもどこでも遠方の人と、言葉を交わし、写真を送り、恰も一緒にいるような感覚が味わえる。李白や孟浩然の時代とは全く事情が異なる。ここでの「別れ」は、永遠の別れを意味しない。

「そうですよね。それなら、安心です」

 こう言って私は微笑む。悠平先輩の方もお返しのように微笑んだ。屈託の無い爽やかな笑顔。その笑顔を見ていると益々、益々好き、付き合いたいと言う気持ちが増して、増して仕方が無い。私はこの気持ちを必死に押し殺す。

 全員が食事を食べ終わると、頃合いを見て部長が言う。

「じゃあ、一次会はここで解散、で」

 部長の言葉に従って、吹奏楽部の部員達は座席を発ち、ぞろぞろと座敷席から降りて靴を履く。私も席を発って、脱いだジャケットを着て座敷席から降りる。部長が「代金は私が払うからみんな外に出ていて」と言った。部長の言葉に従い、私達部員は皆外へ出て行き、入口前の、駐車場の所で屯って待機する。待機している間は皆、他の部員達とペチャクチャ喋っている。間もなくして、部長が店から出てくる。

「皆さん、お静かに」

 部長が言った。取り敢えず皆、黙る。部長は続けて言う。

「皆さん、お疲れ様です。卒業生の皆さん、楽しんで頂けたでしょうか。一先ず、ここで一次会は解散となります。一次会のみに出席される方はお帰りになり、二次会に行かれる方は、集まってください」

 私は一次会のみの出席なので、ここで帰る事になる。悠平先輩もどうやら一次会のみのようで、二人共、ここでお別れだ。

「じゃあ川田先輩、オーストリアでのご活躍を、祈ります」

 私は悠平先輩に別れを告げる。

「ああ。結奈も勉強と部活、頑張れよ」

 悠平先輩は告げる。私は自分の家へと帰って行く。徒歩十五分と、近いのか近くないのかよく分からない距離に、私の家はある。

「ただいま」

 家に着き、戸を開けて言う。

「お帰り」

 父親と、弟の声がした。私の家は、母親が外で働き夫と子を養い、父親が専業主夫として家事を行い私や弟の面倒を見る、と言う、ちょっと変わった家庭であるから、大抵父親は家にいる。私はリビングルームに入る。弟がソファに座りゲームをしていて、父親はキッチン周りの掃除をしていた。一先ず、荷物を置いておく。

「結奈、送別会はどうだった?」

 父親が聞く。

「楽しかったよ」

 取り敢えず、適当に言っておく。

「先輩達と、良い思い出を作れた?」

 父親はもう一言聞いてきた。

「うん。作れたよ」

 私は言う。

「手洗い、うがいしっかりしなよ」

「分かっているって」

 私は父親の言葉に従って、洗面台に行って手を洗い、うがいをする。それをし終えると一旦リビングルームに戻り、荷物を持って二階の、私の、勉強机とベッドのある部屋へ行く。私は荷物を床に置く。ベッドには抱き枕。私は抱き枕に抱き付く。悠平先輩と抱き合う事を想像して、妄想に耽る。

「行っちゃうの、行っちゃうの…」

 つい、声を出してしまった。もし、悠平先輩が、オーストリアで恋人が出来たら…。そう考えると悲しくなる。やっぱり、恥ずかしがらずに告白しておいた方が良かったかな。気が向けば、ネットでいつでも告白できる。気が変わった。振られても良い。違う好きな人がいたって良い。こっちから告白しよう。今は、いつでもどこでも繋がれる時代だから、SNSで、実は好きだった、と、大胆に言うのもありなのかも知れない。まあ、頃合いを見て―


 翌週の月曜日、吹奏楽部。楽器の練習をしていたが、後輩の早川という女子が、練習をサボってスマートフォンを弄っていた。私は彼女に注意をする。

「早川、練習サボってスマホやっちゃ駄目でしょ」

 早川は何か大変そうな顔をしている。そして言う。

「田口先輩、大変なニュースが!」

「何。どれどれ…」

 私は早川のスマートフォンを覗いた。そこには、目を疑うニュースが。

「東関東自動車道でタンクローリーと高速バスの衝突事故。学生ら十五人死亡、三十名重軽傷」

 見るも無残な写真が掲載されていた。黒焦げになった高速バス。寧ろ重軽傷の三十名は何故生きていたんだ?と思ってしまうレベルだ。タンクローリーのタンクは頑丈だからか、穴が開いて少し焦げた程度で、そちら側の運転士は無事だったらしい。恐らく、高速バス側がタンクローリーにぶつかり石油が漏れ、エンジンに引火してこの惨事を起こしたのだろう。

「ごめん、この記事を、もっと見せて」

 私は早川にお願いして、スクロールして記事の全文を見せて貰った。そうしたら、衝撃的な言葉が、そこにはあった。

「この事故で、オーストリアへの留学を控えていた埼玉県の高校三年生、川田悠平さん(十八歳)ら十五名が死亡、三十名が重軽傷を負い」

「せ、先輩…。嘘でしょ…」

 これ以外の、これ以上の、何も言葉が出ない。辛いし、惨すぎる。まさか、そのまさか…。思わず涙が出た。周囲の目線、そんな事は気にせずに泣いて、泣いて、泣き崩れた。嗚呼、神様、私の命と引き換えに、彼が生き返るなら私の命を捧げます。どうか彼を生き返らして。もう何もかも悲しくて、虚しくて、心が苦しい。「黄鶴楼」での別れが、まさか永遠の別れになるだなんて、思ってもいなかった。永遠の別れだと分かっていたら、せめて最後の最後に、愛の気持ちを伝えたと言うのに。正直になれない私が愚かだった。先輩、先輩、嗚呼、嗚呼…

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