『四月、たとえ世界が終わったとしても。』

 僕らの世界は退廃的な八畳で収束していて、これ以上敷衍するつもりもなかった。たとえ明日、世界が滅亡するとしても最後の一日だって、特別なことはしない。


 これは僕と後輩の共通認識でいつだったか、世界滅亡前夜についての議論が起こったときも三秒で満場一致、いつも通りの生活を続ける、という案が閣議決定された。


 たった二人の議会なのだから多数決をすればどちらかが勝つか、あるいは引き分けという選択肢しかない。無駄な争いを減らすことができる僕らの関係はいたって平和で怠惰だった。


 後輩と出会って、二度目の春が来た。桜並木の川端は珍しく人の通りが少なく、桜花爛漫の元を踊るように下っていく後輩の姿が心象にエモーションを注いだ。


「どうですか、先輩っ、綺麗でしょう?」「ああ、綺麗だな」「……うーん、主語が足りない! 五〇点です~!」「辛辣だなあ。君だって主語を消しているじゃないか」「わざとですよ、先輩を試したいんです。……ねえ、先輩っ! 何が綺麗なんですか?」


 率直な答弁に対し、後輩の頬が赤みを帯びて、緩んだ。下手な虚飾をするくらいだったら、真正面から、真っ直ぐに気持ちを応えてしまえばいいし、今の僕にはそれができた。


 自分の気持ちを冴えた目で見つめて、僕は昨日へと振り向いたままだった首を前に向きなおした。今日と、そして明日。その先へ僕の未来を視る眼は日に日に遠視になっていて、恋とか愛とか、そういった単語で収まりきらないような想い、というレンズがすぐ目の前で燦々と照り輝く後輩の、繊細な肢体を投影するのだ。断続的に、彼女を、僕の視覚に焼き付けるのだ。人はそれを恋と呼び、後輩はその現象を愛と呼んだ。愛と呼んだときの彼女の顔は真っ赫赫で今にも蕩けてミネストローネになってしまいそうだった。当然その晩、僕は彼女を隅々まで啜って愛撫した。彼女の汗の味で余計シナプスが刺激されたのを思い出す。


「花見をしたいですが人混みは疲れちゃうんですよね」「さっきの川端なんかちょうどよかったんじゃないかな?」「座る場所がありませんでしたし。それにまだちょっと肌寒いので」「ほう、肌寒いことを名目に僕をぎゅーと抱きしめて離れない算段か。策士だね」「先輩の手綱を握れるのは元カノさんじゃなくてこのわたしなので」


 キリッとした目線の応酬を受けた。そういえば昔僕の彼女だった女は心機一転とかいう理由で海外を回っているらしく、たまに国際郵便を僕の部屋に寄越してきていた。アメリカのベガスでストリッパーをやっているとか、なんとか。そのことを耳にした後輩がその日のうちに踊り子を模した服をネットで注文し後日コス・プレイしつつまぐわったのは記憶に新しかった。


 結局僕らは春の景観を眺めながら家路についた。右手と左手がパズルのピースのように手を繋いでいて、空いた僕の手にはスーパーのレジ袋が提げられている。中には餃子の具材が入っていた。いつだったか居酒屋で食した牛ひき肉の餃子を作るために買った。


 部屋の外で正午を知らせるサイレンが鳴っていた。部屋のテレビを付ければお昼の情報番組が始まったところだった。BGMにしながら、二人並んでキッチンに立つ。


「そういえば餃子って普通、豚ひき肉じゃありません?」「そういえばそうだよな。でも牛の方がなんか、高級感ない?」「豚とか鳥に比べれば希少に見えなくもないかも、ですね……? あ、でも牛丼だって牛肉じゃないですか」「あれはご飯に対して載っている牛が少ないじゃん。薄く切って積むことであたかも牛をたらふく食べているように錯覚させているんだよ」「でも牛は牛ですし、餃子だって一緒だと思いますよ? あと焼肉にすれば牛も豚も鳥もそこそこの値段になります」「ふむ……。なあ、後輩」「なんです、先輩」「今夜、焼肉はどうかな?」「……一応、動機を伺っておきましょう」耳打ちした。短い返答。「……寝かせてあげませんから」


 決まりだった。


 後輩とは既に同棲をしていた。半同棲ではない。一年後、就職したらすぐにでも結婚の届け出を出してしまおうと思っているが、そのことはまだ彼女には明かしていなかった。


 生半可な覚悟でブリキの指輪を、左手の薬指に嵌めてやる気はない。ハメるけど。


 わざわざ食卓を囲むのも億劫だったので厨房にて焼いた餃子を頬張りながら、エプロン姿の後輩に腕を回す。さりげなく、布地の上から柔く指を立てて擦る。隣り合った距離を焦らすように、ゆっくりと詰め寄せていく。僕は背後から後輩の頬に唇を当てた。彼女の吐息はとうに正しいリズムを続けていなかった。


「なあ、後輩。――食器、洗わないの?」「家事は共同作業、じゃないんですかぁ……?」「そりゃそうだ。二人の間で交わしたルールだしね。で、食器、洗わないの?」「先輩は洗いたいんですか? ……家事の方が大事なんですか?」


 すとん、とエプロンが自由落下する。冬が溶けて、薄くなった後輩の春服にそっと指を這わす。亀の歩み寄りも、ゆっくりと。しっとりとした眦が僕の目線よりもわずかにした屁と伸びていた。ふ、ふ、と短いスパンで継続する後輩の呼吸。それに呼応したくて、僕は彼女の唇を奪って、舌を歯の表面に沿わせて、硬い門の施錠を解いていく。甘ったるい唾液を巣食う。そうして、僕らは何度でも繋がろうとする。


 後輩の笑う膝を抱えて、無抵抗の身体を腕のうちに収める。お姫様抱っこをするとき、彼女は決まって僕に見えないように顔を逸らすのだった。ただし、隠しきれていないその可憐な恥じらいはいつだって、僕の中にある甘美な嗜虐をゾクゾクと逆撫でするのだった。


「せ、んぱい……、」


 ベッドにおろされた瞬間、彼女は僕の首に両腕を回して、不意に手前へと引っ張ってきた。油断しきっていたため、体勢を崩してあたかも後輩を押し倒しているようになる。僕の中の、年中発情期な獣は今にも檻の中から飛び出して、……こちらも年中発情期な女の子を汚しつくそうとしている。この文面だと自制する必要は一切ないし、僕も自制する気はない。今すぐにだって、凹と凸を重ねて完全に無欠な僕らに昇華したい。


 けれど、もっと、限界まで、頭がおかしくなるまで溜めて溜めて、脳髄の端から端まで降伏と快楽で満たしてから、お互いの敏感になりすぎた雄と雌を慰め合いたい。


 失神と覚醒を繰り返して、記憶が吹っ飛ぶまで、お互いの身体に愛を刻みたい。


「……先輩、ふふ、わざと焦らしているんですよね、ぇ」「君に嘘や隠し事は通じないな」「だって、貴方のことを十全に満たせる女って私くらいしかいませんから」「随分と強気だな」「で、先輩にとっての私はどうなんですか?」「言わなくても分かるんだろ?」「言われたら、私おかしくなっちゃって、陽が落ちるまで先輩の隅々を貪りつくしちゃうかも」「それは困るな。ほら、夜だってたっぷりあるんだし」「いくらあっても足りませんよ、私は」


 愛すべき後輩は目線を伏して、影を含んだ笑みを漏らした。


「先輩が足りちゃうんだったら、それでもいいですけどー。そしたら私、足りない分をどこかで補わなきゃいけないんですよねー。どこにいけばいいんでしょうねー」「……あの、後輩さん?」


 首の後ろにまで回された細腕が強く僕の身体を引き、あるいは彼女のほっそりとした腹部を僕の口に近づけた。絹の肌触りがじわじわと僕を刺激する。どうやら僕の恋人になった女の子は我慢しきれないらしい。


 腹部のなだらかな曲線の果てに垣間見える茂みから漂う芳香が僕の内に秘めた猛虎を興奮させて仕方がなかった。


 頃合いだ。


「ねえ、先輩。わたしのこと、どれくらい好きですか?」

「少なくとも、世界が滅亡する日に君と朝遅く起きて、衣と肌を擦れあわせて、いつの間にか汗を掻きながら愛し合って、そうして、無難にお昼を一緒に作って、その弾みでだらだらと交わりながら午睡と覚醒を繰り返しながら夜を超えたいくらいには」


 好きだ。


 次の瞬間、快楽を愛という都合のいい記号に置き換えて。


 彼女が心の底から一緒にいたいと願った僕と、僕が心の底から一緒にいたいと願った彼女が、濡れそぼった蜜の器を猛々しいすり鉢でかき混ぜる共同作業を開始した。


 

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不純な。 音無 蓮 Ren Otonashi @000

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