きみのため息の花束を

青柳朔

きみのため息の花束を


「ネブラみたいにドジでとんまなやつは誰も嫁にもらってなんてくれないよ!」


 とてもひどい言葉だと言えるそれに、わたしはへらりと笑って応えた。

 だってその通りだった。いつだって、賢いアルクスの言うことに間違いはない。

 わたしは働き者のルイーナや美人のアラーネアのようにはなれない。容姿は十人並で、何をやっても皆より遅くて、いつも人をイライラさせてしまう。

 反論がまったくないことにアルクスは怒ったようで、じろりとわたしを睨みつけた。しかしそのあと、大人に叱られたときのように目を伏せる。

 変なアルクス。彼がこんな顔をするのはとても珍しい。

「……仕方ないから、俺がもらってやる」

 アルクスは唇を尖らせ、足元に咲く花を見下ろしながら何かを呟いた。ぼそぼそとしていて、わたしは上手く聞き取れなかった。

「なぁに? なんて言ったの?」

 首をこてんと傾げて聞き返すと、アルクスは顔を上げてキッと睨みつけるようにわたしを見る。

「仕方ないから! 俺がおまえを嫁にもらってやるって言ってるんだよ!」

 空耳だろうか、とわたしは瞬きをする。空耳なんてありえないほど大きな声だったから、そんなはずがないのだけど。

 けれどにわかには信じられない言葉だった。

 だってここは、村はずれのトネリコの樹の下だ。

「……いいの? アルクス。誓いの樹の下で言ったことは絶対に守らなくちゃいけないのよ? 破るとひどいめにあうって大人たちがいつも言ってるじゃない」

 破ってはいけない約束をするとき。心に決めた誓いをするとき。

 村人はこのトネリコの樹の下で誓いを立てる。

 それはわたしたちより小さな子ですら知っていることだ。アルクスが知らないわけがない。

「いいんだよ別に。守ればいいんだろ」

 守ればいい、なんて簡単に言う。

 だってそれは、こんなドジでとんまなわたしをお嫁さんにするということだ。

「いいの? 本当に本当にいいの?」

 今ならまだ、やっぱり無理ですと泣きついても神様だって見逃してくれるかもしれない。わたしたちは子どもで、大人のようにしっかりはしていないから。ううん、しっかりしていないのはわたしだけで、アルクスは大人みたいにしっかり者なんだけど。

 けれど彼はときどき、売り言葉に買い言葉で考えもせずに言葉を吐き出してしまうから。あとからそんなつもりじゃなかったんだと落ち込んでいるのを、わたしだけは知っているから。

「いいんだって! おまえは素直に頷いておけよ!」

 繰り返し確認するわたしに、アルクスは怒りながらそう言った。

 意地悪で口が悪いアルクス。賢いアルクス。わたしはよく彼を怒らせて、苛立たせてばかりいるけれど、彼は本当はやさしいから最後までわたしに付き合ってくれる。

 やさしいアルクス。わたしは彼のことが大好きだった。

「うん、わたしアルクスのお嫁さんになる!」


 十歳の春。わたしたちは確かにそう誓ったはずだったのだ。




 ふわふわ、ゆらゆら。

 ゆらゆら、ふわふわ。


 花瓶にいけられた小さな白い花は、わたしの吐息のたびに不安げに揺れている。

 華やかさには心許なく、可憐さには物足りない。主役にはなれないこの小さな花がわたしはいっとう好きだった。まるでわたしだ、と気づいた時から、人生の相棒のように感じるほど。

 この季節の日の出は遅い。目が覚めてもまだ空は昏く、朝食の準備を終えてテーブルの上に飾られた花を見つめていると窓から朝日が差し込んでくる。

 太陽が顔を出すと、いつもわたしは「おはよう」と窓の向こうへ挨拶をするのだと言ったら、アルクスは変な顔をして「ネブラってやっぱり変なやつ」と言っていた。そんな少し変わり者のわたしに根気強く付き合ってくれるのは、口が悪くても面倒見のいいアルクスくらいだ。

 この片田舎の村の人々は誰もが働き者だ。山間にぽつんと出来た村に娯楽と呼べるようなものはなく、村人は朝早くから起きて一日を始める。

 女は子育てや機織り、男は家畜の世話をしたり狩りへ行ったりで忙しい。子どもたちは小さな学校へ行って、そのあとで親の仕事を手伝って大きくなっていくのがこの村の日常だ。

 日常のはずだった、けれど。

「……アルクスは、今年も帰ってこないのかな……」

 つん、と花を指先でつつきながらぽつりと呟く。

 幼馴染のアルクスは、わたしと同い年。今年で十九歳になる。もうとっくの昔に学校には通わなくなったし、まだまだ一人前とは呼べないかもしれないけれど、どうにか自立して生活している。

 しかしアルクスは、十三歳のときにこの村を出た。優秀な彼に、もっと大きな街の学校に通って勉強するべきだと声がかかったのだ。アルクスはこの小さな世界を飛び出して、学校の寮に住みながら長いことしっかりと勉強していたらしい。

 いつか必ず、アルクスはこの村に帰ってくるのだと、わたしは思っていた。


「ルイーナもついに結婚か。めでたいなぁ」

 洗濯物を干していると、村のどこかからそんな声が聞こえてくる。

 働き者のルイーナは、間もなく結婚する。彼女の花嫁姿はさぞうつくしいだろう。

 小さな村には子どもが少ない。他の村のと交流がないわけではないけれど、この村の子どもたちは、たいてい幼馴染ともいえる近い年頃の誰かと結ばれる。

 ルイーナの相手は少し年上で、わたしたちの面倒をよく見てくれた人だ。

 美人のアラーネアは去年同い年の幼馴染と結婚した。美男美女だと隣の村でもたいへん評判だったらしい。

『ネブラみたいにドジでとんまなやつは誰も嫁にもらってなんてくれないよ!』

 幼い頃アルクスがそう言ったように、わたしのもとに求婚者がやってくることはなかった。美人でも働き者でもないわたしなんかをお嫁さんにしても邪魔者が増えるだけ。みんなはよく分かっている。

「よぉネブラ」

 なかなか減らない洗濯物を干し続けているわたしのもとに、一人の青年がやってくる。ラウルスだ。

 小さくため息を吐いた。わたしは、この彼が少し苦手だった。

「アルクス、まだ帰ってこないのか?」

 ラウルスはいつもこうして答えにくいことを聞いてくるのだ。アルクスが帰ってくるかどうかなんて、わたしが知るはずもない。アルクスのご両親にでも聞けばいいのに、わたしが困った顔をするのを面白がっているのだ。

「街は遠いもの。なかなか帰ってこれないのはアルクスのせいじゃないわ」

「どうだか。おまえ、忘れられたんじゃねぇの?」

 そんなはずがない。賢いアルクスが何かを忘れるなんて、ありえない。

 その何かが遠い日の約束であっても、遠い故郷の幼馴染であってもだ。

「街には綺麗な人がたくさんいるもんなぁ、きっとこんな田舎じゃ満足出来ないからアルクスは帰ってこないんだよ」

 にやにやと笑いながらラウルスは言う。

 二つ年上の彼はいつだって意地悪で、わたしが不安になることばかりだ。

 そう、どんなに鈍感なわたしでも、不安になることくらいある。

 ねぇアルクス、どうして帰ってこないの。もう何年も里帰りすらしていない。ねぇ、元気でいるの? 病気をしたりしていない?

 ねぇアルクス。わたしは馬鹿だから、このままじゃあなたの顔も声も忘れちゃうわ。

「……でも、約束したもの」

 自分に言い聞かせるように呟く。けれどその声に被さるようなラウルスの大きな声が、まるでわたしの心を見透かすみたいだった。

「子どもの頃の約束なんざ覚えているわけないだろ」

「トネリコの樹の下で約束したのよ、だからアルクスは絶対破ったりしないわ」

 それでも怖くて、わたしは早口でラウルスの言葉を否定する。

 アルクスは賢いから。何かを忘れるなんて、そんなことあるはずがない。まして、トネリコの樹の下の約束を、忘れてしまえるはずがないのだ。

「……馬鹿だなぁ、ネブラは」

 いつまで経っても子どもなんだから、とラウルスはため息を吐き出す。

「そんな迷信を信じているのは、君くらいなものだよ」




 一人きりの家の中は冷たくて寂しい。

 わたしの両親は、わたしが物心ついたときにはいなかった。父は生まれる前に事故でなくなり、母はわたしを生んだあと身体を壊してわたしが一歳になる前に儚くなったのだという。

 この小さな家で、わたしはずっとおばあちゃんに育てられた。そのおばあちゃんも、昨年眠るように息を引き取った。

 それ以来、わたしは一人だ。

 暗がりの中で目を閉じる。今日は月明かりが眩しいほどで、わたしはカーテンから漏れるそのかすかな光すら煩わしく感じた。

 アルクス。ねぇ、アルクス。

 手紙を書きたくても、こんな辺鄙な村から華やかな街へ届ける手段はない。ううん、そんなことより、もう何年も文字なんて書いていないからきっとうんと下手になっている。

 読み書きは学校で教わるけれど、忙しい毎日に追われていると何かを読むことも書くこともなくなる。

 それでも、この村では生きていける。きっと街では笑い者になってしまうのだろう。


「……アルクスが帰ってくる?」

 翌朝、わたしのもとへやってきたルイーナはにこにことうれしそうにそんな報告をした。

 思わず刺繍していた針が止まる。指を刺さなくて良かった。これはルイーナの大切なウェディングドレスだから、万が一でも失敗は許されないし、汚すなんてもってのほかだ。

「結婚式のことを知らせたら、来てくれるって返事がきたの。よかったわねネブラ! アルクスに会えるのは久しぶりでしょう?」

 ルイーナは本当に親切な人で、わたしとアルクスが仲が良かったからとわざわざ知らせに来てくれたのだ。

 トネリコの樹の下の約束は、それこそ先日ラウルスに言ったのがはじめてで、彼が言いふらしていなければルイーナは知らないはずだ。ラウルスも、馬鹿馬鹿しいと笑った話を触れ回るようなことはしないだろう。

 昔から、わたしを特別気にかけてくれるのはアルクスで。だからわたしも、彼の背中をくっついて歩いた。

「ええ……ええ、本当に、久しぶりだわ……」

 けれどそんなことよりも、アルクスが帰ってくる。それが何より驚きだった。

 驚くなんておかしいかもしれない。だってわたしは、信じていたはずだ。アルクスはいつか帰ってくる。帰ってきて、きっとわたしをお嫁さんにしてくれる。

 アルクスは今までわたしに手紙をくれることもなかった。帰ってくるという知らせなんてなかった。

 ルイーナが羨ましい。羨ましくてお腹の中でぐるぐると黒い何かが渦をまいているみたいだった。失敗してしまった、とても人が食べられるような代物ではないスープみたいに、どろどろな何か。

 彼女はアルクスに手紙を出したのだ。出せたのだ。そして、彼から返信を受けとったのだ。

 わたしにはできなかった。あれこれと理由をつけてやらなかった。だってわたしは、彼の住んでいる街の名前くらいしか知らないんだもの。どうやって手紙を届ければいいの?

「ネブラは本当に刺繍が上手ね。綺麗だわ」

「ありがとう……でもわたし、遅いから」

 刺繍は丁寧に丁寧にと心がけているので、ついつい時間がかかる。ルイーナは綺麗だと褒めてくれるけれど、仕事が遅いのでは話にならない。刺繍などは冬の間の重要な手仕事のひとつだから、数多くできるほうが喜ばれるのだ。

「そうね、早くしてくれないと村の女の人たち全員にまわらないわ! もっと急いでくれる?」

 突然響いた鋭い声にびくりと肩を震わせる。

 顔を上げると、アラーネアが仁王立ちでうちの玄関に立っていた。

「アラーネア、そんな言い方はないわ。もう半分以上の人には刺してもらったんだもの、そんなに急ぐ必要はないのよ」

「ルイーナはいつもそうやってネブラを甘やかすわね。アルクスと一緒! 仕事の合間にやるんだもの、急いだほうがいいに決まっているじゃない」

 ルイーナが窘めるように言っても、気の強いアラーネアはきっぱりと言い返す。その姿にわたしは怯えるどころかすごいな、といつも思っている。わたしには無理だ。言い返す言葉を考えているうちに、きっと相手は呆れて去っていく。

「次はアタシの番なんだから、早くしてよね!」

 そう言い残してアラーネアは去って行った。あんな物言いでも、美人だからたいていの人は許してしまう。幼い頃はよく男の子を言い負かしていたけれど、大人は美人のアラーネアの味方だった。

「まったく、アラーネアったら。あの子、刺繍が苦手だからあんなこと言ったのよ。ネブラが綺麗に刺したらそれだけ下手なところって目立つじゃない?」

「そ、そんなことないよ……」

 こそこそとわたしに耳打ちするルイーナに、困ったようにわたしは笑みを零した。

 アラーネアの言っていることは正しいのだ。いくら大切なドレスだからといって、人一倍時間のかかるわたしがより時間をかけるわけにはいかない。

 花嫁がしあわせになりますように。

 そう祈りを込めて、村の女の人たち全員で刺繍をする。全員にしてもらわなければ縁起が悪い。

「ネブラは本当にやさしいわね」

「そうかな」

 ふわりと微笑むルイーナに、わたしは曖昧に笑って答える。

 ネブラはやさしいっていうより優柔不断だよ。頭の中でいつだかにアルクスに言われたことを思い出した。なにひとつ自分で決められないんだ、ネブラは。

「そうよ。アルクスのことだってね、ネブラは怒ってもいいと思う。あんなに仲が良かったのに、街に行った途端にさっぱり連絡ないなんてひどいじゃない」

 自分のことのように怒ってくれるルイーナのほうがよほどやさしい人だと思う。

 丁寧に、丁寧に。意識が他へ飛んでいきそうになるたびにわたしは心の中でそう繰り返して、刺繍を刺す。

「……アルクスのことだから、きっと理由があるんだよ」

 賢いアルクスは間違ったりしない。わたしみたいに馬鹿じゃないから、彼の行動は常に正しいはずだ。




 その日はびっくりするほど空が高く晴れ渡っていた。

 青空のもと、やって来た一人の青年にわたしは困惑する。

「アルクス! 立派になったなぁ!」

「随分と背が伸びたんじゃない?」

 わたしの知るアルクスは、いつもちょっぴり不機嫌そうで、同年代の男の子より少し背が低くて、それを気にして毎日牛乳をたくさん飲んでいた。そういう子だった。

 村人に取り囲まれているその人は、まるで別人だ。

 わずかに笑みを浮かべてあれこれと質問攻めにする人たちと話している。背が高い男の人は、わたしの知らない人だ。

「ネブラ!」

 輪の中から名前を呼ばれる。ルイーナだった。

「ほら、あなたもアルクスに会いたかったんでしょう?」

 話したいことがたくさんあるでしょう? とまっすぐにこちらを見るルイーナに、わたしは返事ができなかった。締め付けられるように苦しい胸を押さえ、あ、と口を開く。乾いた息が零れるばかりで、声にはならない。

 男の人が、わたしを見た。

 途端に、その人はむすりと顔を顰める。なぜかその瞬間にわたしは恥ずかしくてたまらなくなって、震える足を必死で動かしてその場を去った。自分がこんなに速く走れたなんて知らなかった。


 その人は、アルクスと同じ色の目をしていた。

 その人は、アルクスと同じ表情を浮かべていた。


 けれどアルクスは、わたしの中のアルクスは、もっと幼い少年で。彼がこの村を発ったあの日から成長していなかった。だって、あの日以降の彼をわたしは知らなかった。

 どんな勉強をして、どんな風に成長して、今どんなことを考えているのか。想像もできない。

 想像したこともなかった。

 息を切らして家に駆け込んだ。いつもより乱暴に玄関を閉めて、そのまま背を預ける。

 ずるずるとその場にしゃがみこんで、わたしは小さく息を吐いた。

 怖い。

 アルクスが怖い。

 どうして怖いと思うのかわからない。けれど怖くて仕方なくて、気づけばわたしの足は逃げ出していた。

 どんなに意地悪をされても、どんなにひどいことを言われても、アルクスを怖いと思ったことなんてなかったのに。

 どうして、という自問すら声にならない。ため息ばかりが零れてしまう。

 元気にしていた? 病気とかしていなかった? 友達はできた? アルクスに会ったら聞こうと思っていたことは山ほどあったはずなのに、そのどれもが泡みたいに消えてしまう。

 しばらくそのまま膝を抱えて目を瞑る。

 コンコン、と玄関が鳴った。

 その音に驚いてわたしは顔をあげる。

「ネブラ、いる?」

 知らない人の声だった。

 知らない、男の人の声。

 玄関越しに、その人がこちらからの返答を待っているのがわかった。

 返事をして玄関を開けなくちゃと思うのに、わたしは立ち上がることさえ出来ずにいた。

 アルクスだろうか。

 いや、アルクスに違いないのだ。

 わたしが声もわからない男の人で、わたしの名前もわたしの家も知っている。そんな人、他に心当たりがない。

 アルクスが来てくれた。あの賑わう輪の中から出て、わたしのところへ来てくれた。

 それが胸にじんわりと沁みるほどうれしいのに、身体は動かない。うれしさと同時に、未だに怖いと感じる心があるのも確かだった。

「……ネブラ? いないの?」

 再度問いかけてくる声に、返事をしそうになる。

 けれど声は喉に張り付いて、わたしはそっと玄関に触れた。この薄い扉の向こうに、アルクスがいる。

 さくり、と草を踏む音がした。

 不在だと思って、アルクスが去っていく音だ。残念に思いながら少しほっとしている。まだアルクスと面と向かって話すような勇気はない。

 こつん、と玄関に額をくっつける。

 臆病者のネブラ。馬鹿なネブラ。本当は会いたかったくせに。会いたくて会いたくてたまらなかったくせに。

「……やっぱり居留守か」

 去ったはずの声が背後から聞こえて、わたしは振り返った。そこにあるのは小さな窓だ。レースのカーテンがあるだけで、覗き込めば家の中が見える。

 そう、幼馴染で、何度もこの家に来たことのあるアルクスがそれを知らないはずがなかった。

「あ、アルクス……」

 不機嫌そうな目がわたしをとらえる。

 怯えて震えるわたしに向かってため息を吐き出して、アルクスはまたゆっくりと玄関へとまわった。

 鍵もかけていない扉は、外側から簡単に開けられてしまう。

 背の高い男の人が、わたしを見下ろしていた。逆光で顔がよく見えない。

「ほんと、おまえは変わらないな」

 呆れたように呟く声に、わたしは俯いた。

 顔がよく見えなくても、それでもこの距離で向き合えば、わたしにだって嫌でもわかる。わかってしまう。この人はアルクスだ。

「……アルクスが、変わりすぎなんだわ」

 ぼそりと呟いたわたしの声はアルクスの耳にしっかり届いていたようで、彼は肩を竦めた。

「そうでもないよ」

「そんなことない。背だってびっくりするほど高くなっているし、声もうんと低くなってるし、全然知らない、人みたい……」

「だから逃げたのか」

 鋭くなった声に、びくりと肩が震える。

「に、逃げたわけじゃ」

 嘘。逃げた。逃げたんだと、自分でもわかっている。

「じゃあなんでさっき話しかけてこなかったんだよ」

 アルクスは変わっていないところもあった。相変わらず意地悪だ。聞かれたくないことを容赦なく聞いてくる。違うところがたくさんあるのに、それと同じくらい昔のままのところがあるからわたしは困惑するばかりだった。

「……知らない人みたいで、怖かったんだもの」

「今も?」

「今もちょっぴり怖いわ。だって、アルクス怒ってる」

「怒ってない」

「怒ってるみたいにしか見えない」

 負けじと言い返すと、アルクスは言葉に詰まって眉を寄せた。困っているときの顔だ。

 どうしていいのかわからなくて、言葉を探して、探して探して――あんまり考え過ぎちゃうものだから、どれが答えかわからなくなっている。アルクスはときどきそういうことがあった。

 だからいつも、わたしなりに助け舟を出してあげるのだ。

「……あのね、あの、アルクスの好きな木苺のパイを焼いてあるの。おばあちゃんみたいに上手くは出来なかったけど、でもきっと美味しくは出来たと思うの」

 アルクスの袖を引いて、わたしは彼の顔を見上げた。見上げなければいけないほど、背が高くなったんだなと実感する。

「……食べてくれる?」

 もう木苺のパイなんて好きじゃないかしら。でも、わたしの知るアルクスはこれがいっとう好きだった。だから朝から準備していたのだ。アルクスがこの家に来るかどうかなんて考えもせずに、もしも来たら、そのときはごちそうしようと思って。

「……喉が乾いた」

 小さく呟かれたそれが、彼なりの返事なのだとわたしには伝わる。

「うん、今お茶を淹れるね。お砂糖はいれる?」

「ひとつ」

「それも変わってないんだね」

 ふふ、と笑みを零すわたしを照れ隠しにじとりと見て、アルクスは勝手知ったる我が家のように椅子に座った。

 小さな頃は、わたしの席に着いておばあちゃんがパイを切ってくれるのを待っていた。木苺のパイのときだけは、アルクスはいつも以上におりこうさんにしていたのだ。だって、わたしに意地悪を言って泣かせたりしたら大好きなパイが食べられなくなるかもしれないから。

「はい、どうぞ」

 少し大きめに切ったパイと、お砂糖をひとつだけいれた紅茶を差し出す。

 アルクスは何も言わずに食べ始めた。何も言わない、ということはまずいというわけではないみたい。彼のことだから、美味しくなかったら一口目で遠慮なくフォークを置いている。

 ぱくぱくと、あっという間にパイを平らげて、紅茶を飲む。大人になったのだからもうちょっと大きく切ってあげてもよかったかもしれない。

「……ネブラのばあちゃんのより、ちょっと甘い」

 感想と言えば、それだけだ。美味しかったとお世辞を言うわけでもなく、褒めてくれることもなく。ただ思ったことを一言だけ。

 アルクスらしい、とわたしは笑う。

「何これ。かすみ草だけ飾ってんの?」

 紅茶をもう一口飲んでいたアルクスが、テーブルに飾られた花を見てそう言った。

「そうだよ」

「……女ってもっと他の派手な花が好きなのかと思ってた」

「他の花も綺麗だと思うけど、かすみ草はわたしに似てるから特別に好きなの」

 ポットの中が空になってしまった。わたしは立ち上がってお湯をもう一度沸かす。アルクスは不思議そうに花を見て首を傾げた。

「似てる? どこが?」

 アルクスの目にはかすみ草とわたしは似ているように見えないらしい。どんな花なら似ていると言ってくれるんだろう。少なくとも、ルイーナやアラーネアに似合いそうな花と同じではないということだけはわかる。

「生まれてからずっと主役になれず、いつも脇でひっそりしているところ」

 絶対に、主役にはなれない。わたしは輪の中心に立てるような人じゃない。

 咲いたことにすら気づいてもらえない程度の、そんなちっぽけな花だ。

「……ネブラは相変わらず馬鹿だな」

 怒ったようなアルクスの声に、わたしは彼を見た。

 怒っているのだろうか、悲しんでいるのだろうか。今のアルクスは、ちょっとよくわからない顔をしている。

「誰だって脇役になるために生まれてくるんじゃない。そんなの、花だって同じだろ」

 その声はわたしを叱りつけているようで、それなのにちっとも怖くなかった。アルクスが泣きそうな顔をしているからだろうか。きっと彼は、認めたりしないだろうけれど、子どもが泣き始める直前の、ぎゅっと堪えるような顔をしていた。

「だいじょうぶ? アルクス」

 そろそろと手を伸ばして、アルクスの頬に触れる。思っていたよりもやわらかい。

「なんで俺の心配してんだよ」

 触れたのは一瞬で、すぐにアルクスに手を掴まれた。大きくなった手の中に、わたしの手はすっぽりと隠れてしまう。

「だって、辛そうだから」

「おまえのせいだよ、馬鹿」

 苦しそうにアルクスは呟いて、一度だけぎゅっとわたしの手を強く握りしめた。


 アルクスはそのあと、たまに怒っているような表情を浮かべながらもう一切れパイを食べて、そして帰っていった。

 そう、彼には彼の両親が住む家があるのだから、あまりわたしの家に長居するわけにもいかない。わたしは残りのパイを包んでお土産にとアルクスに渡した。アルクスのお母さんも木苺のパイは好きだったはずだ。

 途端に家の中が寒くなる。

 冷めてしまった紅茶ではとてもあたたまらない。




 花嫁姿のルイーナは綺麗だった。

 刺繍の施されたドレスは華やかで、髪を彩る花は可憐で、けれどルイーナの笑顔よりうつくしいものはなかった。

 わたしも祝い事の時にしか着ないとっておきのワンピースを着て、花嫁と花婿に花びらの雨を降らせる。他の皆とはタイミングがズレてしまうけれど、この場でそんなことを気にする人はいなかった。

 アルクスは他の誰よりも洗練された服を着ていた。花婿より素敵になってしまったらいけないのに、と思いながらわたしはたまに彼を見るくらいで自分から話しかけることはできなかった。

 あの日から、アルクスは昔のようにわたしのもとを訪ねてはたまに意地悪を言っていた。けれどわたしは、昔のように彼の背を追いかけることはできなかった。

 アルクスが怖いと感じた、わたしの胸に灯った感情はまだ消えていないらしい。時折たまらなく怖くなって、身体が震えた。

「おめでとう、ルイーナ。とっても綺麗よ」

 そばにやってきたルイーナに、わたしは祝いの言葉を述べる。ルイーナは本当に綺麗だった。まさしく、今日の主役は彼女の他にいない。いいや、結婚が決まってからというもの、ルイーナは村の中でずっと華やかな主役だった。

「ありがとう! きっと次はネブラの番ね」

 他意のないルイーナの笑顔に、わたしは困ったように微笑み返す。ただでさえ少ない同年代。わたしの年頃の女の子で、もう結婚していない子はいなかった。

 だから、わたしが結婚できるのであれば、次はどう足掻いてもわたしだ。

 でもね、ルイーナ。

 わたしはあなたの持つブーケのかすみ草なの。大輪の花をよりうつくしく魅せるための、ちっぼけな脇役なの。

 どんなに背伸びをしたって、かすみ草は薔薇にはなれないわ。


 村の結婚式は徐々に賑やかな酒盛りになる。その前にたいてい女性たちは抜け出していて、花嫁を取り囲んでこの日だけに許されたとっておきの甘いものを食べるのだ。

 既婚者ばかりのこの場も、わたしにはあまり居心地のいいものではなかった。甘いお菓子は惜しいけれど、わたしは家に帰ることにした。

 間もなく日が暮れる。夕飯の支度をしないと、食べるものがない。

 ふわりと吹き抜ける風は、少し冷たい。

「ネブラ」

 家の前にアルクスがいた。

 わたしは思わず目を擦ってもう一度見る。やっぱりアルクスだ。

「アルクス、どうしたの? 皆とお酒を飲んでいるんじゃないの?」

「酔っ払いに絡まれるのが嫌だから逃げてきた」

「ああ……」

 わたしと似たようなものだ。変なところでわたしとアルクスは似ている。ふふ、と笑って、彼が後ろ手に何か持っていることに気がついた。

「アルクス、何を持ってるの?」

「……やるよ」

 それは、花束だった。

 かすみ草しかない、かすみ草でいっぱいの、花束だった。

 少し乱暴に、花束を押しつけられる。小さな白い花は大袈裟に揺れて、わたしの頬をくすぐった。

「かすみ草だって、それだけあれば立派な花束になるんだよ」

 ふんわりとした、かすみ草の花束。

 けれどそれは、紛れもなく花束で、粗末なものなんかではなくて、ちっぽけなものなどでもなくて、堂々と咲き誇る小さな花たちに、わたしは胸が苦しくなった。

 誰も脇役なんかじゃないと、そう伝えてくる。アルクスが、伝えてくれる。

 ぽたり、と涙が落ちた。

「わ、わたし」

 震える声で言葉を紡ぐ。涙の滲んだ視界ではアルクスの表情はわからなかった。

「ほんとは、気づいてた。気づいてたの。アルクスは、きっと、もうこの村に帰ってこないって。だから、わたしみたいな子は、ルイーナやアラーネアみたいな花嫁さんにはなれないんだって。アルクスがいないと、ダメなんだって」

「……ほんとに、相変わらず馬鹿だなネブラは」

 ほんのりやさしい、けれど怯えるようなアルクスの声がして、頬に大きな手が触れる。ペンだこのある指が頬を撫で、涙のあとをなぞるようにして拭った。

「トネリコの樹の下の誓いは、破ったらいけないんだろ?」

 覚えていた。

 アルクスの言葉に、わたしがまっすぐに思ったのはそれだった。アルクスは覚えていた。忘れていなかった。忘れたふりもしなかった。

「そうだけど、でも、そんなものは迷信だって。信じているのは子どもくらいだって、言うんだもの」

「誰が」

「ら、ラウルス」

 その名前を出した途端にアルクスは眉を寄せた。怒っているような顔に、わたしはちょっぴり怖くなる。

「あんな奴の言うことと俺のこと、どっちを信じるの」

「アルクスに決まってるわ! でも、街には綺麗な人も可愛い人も、頭のいい人もいるでしょう? わたしなんかよりずっと、ずっとアルクスに似合う人がいるでしょう? だからわたしと約束したこと、後悔したんじゃないの?」

「してない」

 即答だった。

 わたしの言葉に被せるように、少し怒ったような声がはっきりとわたしの不安を否定する。

「……してないよ」

 ゆっくりと重ねられた言葉は、大事なものを包み込むような響きがあって、わたしはアルクスを見上げた。零れた涙はそのたびにアルクスの指が攫ってしまう。わたしは泣いていたことさえ忘れてしまいそうだ。

「むしろネブラのほうが忘れたんじゃないかなって思ってた。何年も会ってない俺なんかのこと」

「わたしがアルクスのことを忘れるわけないわ」

 一日だって忘れたことはなかった。

 毎朝目覚める度に、アルクスは元気にしているかなって考えていた。そして昇る朝日に向かって、どうかアルクスに悪いことがおきませんようにって祈っていた。

「……うん、知ってる。だから本当は、少し怖かった」

「怖い?」

「おまえは、昔っからまっすぐで無邪気で、俺の言うことを丸呑みにするから。だから、ちょっと怖い。俺は、おまえほど純粋ではいられなくなったから」

 頬に触れていた手が離れていく。

 微笑むアルクスの顔は、すごく大人びていて、わたしはじっとその顔を見つめた。わたしの知らないアルクスだった。

「怖いの? アルクスが、わたしのことを?」

「そうだよ」

「わたしもよ。わたしも、たまに、ちょっぴりだけど、アルクスが怖いときがあるの。不思議。おんなじね」

 おかしくなって笑みを零すと、アルクスははぁ、とため息を吐き出した。

「……そういうとこだよ」

 小さく呟かれた言葉の意味がわからなくて、わたしは首を傾げる。

「……ネブラ」

「なぁに?」

 呼び声に合わせて、アルクスを見上げる。彼はこちらを見ていなかった。なにか探し物があるみたいに、視線をせわしなく動かしている。

「おまえも、街にこないか」

 アルクスの口から出た言葉は、わたしがまったく予想していないものだった。

 空耳だろうか、と思う。だから、ゆっくりと聞き返した。

「……街に?」

 アルクスは「そうだよ」と口早に答えた。そしてするすると理由を話し出す。

「おまえさ、正直ここの暮らしに向いてないよ。何から何まで自分でやらなきゃいけなくて、働きっぱなしで。おまえはきっと、もっとのんびりできるほうがいいよ」

「……街の方が、忙しそうな気がするけど、違うの?」

 話に聞く街の人々はそれはそれは毎日忙しくしているらしい。きっと村とは流れる時間の速さが違うんだよ、と街へ行ったことのある人たちは皆言っていた。

「そりゃ、忙しなく生きている人もいるけど。でも街なら、必要なものは買えば済むし、村の仕事を手伝う必要もない。……俺の住んでるところは広くないけど、二人でならどうにか暮らせるし」

 それはつまり、アルクスと一緒に暮らすということだろうか。確かに街で暮らすのにまったく慣れていないわたし一人で暮らすよりも、その方が安心かもしれない。

 でも、けれど。

「えっと、その、まだ結婚もしていないのに一緒に暮らすのはいけないんじゃないの?」

 恋人同士であっても、将来を誓い合った仲であっても、村ではそんな人たち見たことがない。大人たちだって、きっと許してくれないだろう。

「どうせいつかは一緒に暮らすんだから、予行練習みたいなもんだろ。神様だって見逃してくれるよ」

「そ、そうかな……」

 アルクスの言う通り、何事にも練習は必要だ。特にわたしみたいなどんくさい子は、人より練習しないと人並みにはなれない。

「……街には、そういう人たちもけっこういるよ」

 そうなのか、とわたしは少し安心すると同時に怖くもなる。街はまるで知らない世界みたいだ。その街に慣れたから、アルクスのことも怖いと感じるようになったんだろうか。

 でも、アルクスと一緒なら。

 家の中は、冷たくなくなるかしら。寂しくなくなるかしら。ひとりきりでアルクスの帰りを待っていても、寒くないかしら。

「……アルクスのお嫁さんになるなら、街での暮らしになれないとダメよね」

「……まぁ、いつかはここに戻って教師でもやろうかなって思うけど。しばらくはまだ勉強したいことがあるし」

 そんなことを考えていたんだ、と思いながら、わたしは少しだけ未来を想像してみる。村に残るわたし、街へ行くわたし。きっとどちらも今までのようには過ごせない。

「村に残ったら、また会えなくなっちゃうよね」

「残りたいなら残ってもいい。……会いに来れるように努力はする」

 アルクスはやんわりとわたしに二つの選択肢を提示する。どちらも平等に。

 こういうやさしいところが、わたしはとても好きだった。正解を押しつけられない。わたしの中でゆっくりと答えが定まるのを待ってくれる。

 かすみ草の花束が夕風に揺れた。まるで励まされているような気分になって、わたしは微笑む。

「……ねぇアルクス。わたしのこと、ちゃんとお嫁さんにしてね」

 夕日に照らされたアルクスは赤い顔をしていた。それは夕日のせいなのか、それとも別の何かのせいか。わたしにはわからない。

「だって、予行練習って理由がないと、きっと神様に叱られちゃうわ」

 わたしはドジでとんまな子だったけれど、神様に叱られるようなことはしたことがない。悪いことはしちゃいけないよ、というおばあちゃんの教えをただただ真面目に守ってきたような子どもだ。

「トネリコの樹の下でもう一度誓おうか?」

 冗談めかして笑うアルクスに、わたしは首を横に振った。


 いいの、もう約束はいらないの。

 だってそばにアルクスがいてくれるなら、わたしはもう脇役にならなくていいんだもの。



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きみのため息の花束を 青柳朔 @hajime-ao

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