アイリスの旋律
夏鴉
アイリスの旋律
蒸気都市、デグラーン。百年程前に蒸気王と呼ばれる発明家によって生み出された蒸気機関により巨大に育った都市の、華やかなる街並みよりずっと奥。薄暗く、猥雑な変人窟と呼ばれる地区には、一つの酒場があった。
喧騒に塗れ、小さな諍いの絶えない混沌とした酒場のカウンターで、ケイシーは一人酒を煽っていた。乱れた頭髪に薄汚れたシャツやズボン。丸められた背。どこからどう見てもその日暮らしの労働者といった風体。誰もが彼のことを意識の片隅にも上らせない。しかし、ケイシーの目だけは酷く血走り、誰にもそうと悟られぬように忙しなく周囲を見回していた。危機に震える小動物にも似た挙動。よくよく見れば、彼の身体がいやに強張っていることにも気付けるだろう。もっとも、この場にそんな人間は存在しないのだが。
存在しない筈である。ケイシーは酒を飲む。彼の心中はこの酒場よりも余程混沌としていた。焦燥。恐怖。ささやかな安寧。四方に向いた感情が混ざり合い、彼の身体を引き裂こうとでもしているようであった。正常な判断が出来ていない。ケイシーは理解していたが、もう止められなかった。
「ちょいと失礼」
そんな彼の隣の椅子は唐突に引かれた。心臓の縮み上がるような感覚。ぎょろりとした目が横へ滑る。男がいた。ウイスキーの入ったグラスを片手に持った、この国では珍しい黒髪を結った男だった。
「この時間は混んでいけねえな」
やれやれと、男は何でもない風にグラスを傾ける。ケイシーの鼓動は否が応でも早まっていく。この男はなんだ。何でもない、ただの客か。
それとも、自分のかけがえのないものを狙う略奪者か。
「なあ、兄ちゃん」
ケイシーの心中も他所に、男は気安く声を掛けてくる。
「あんた、新顔だな」
「だったら、何だって言うんだ」
「ここはな、吹き溜まりなのさ。どこへも行けなくなった奴が最後に流れ着く場所。こんな所まで流れ着く奴なんて滅多にいねえ」
「…………」
男の目がケイシーを向く。存外に鋭い目に、ケイシーは息を呑む。今までの全てが暴かれてしまいそうな、鋭利な瞳だった。
「ここでは探るって行為は禁止されててね、誰も何も聞きやしねえよ」
少し皺の刻まれた男の顔が、僅か緩んだ。
「ただ、何だろうなあ、兄ちゃん見ててふと、思い立ってね。まあ、お節介をしたくなったのさ」
ぐい、とグラスが傾けられる。男の喉に、ウイスキーは皆流れ込んでいった。
「ここはなあ、無法地帯だぜ」
ケイシーは不審に思いながら頷いた。だから、ケイシーはここに辿りついた。
「だから、何したって許される。でもな、それは、何されたって、文句は言えねえってことなんだよ。ここじゃあな」
からり。男の手の中で、グラスの氷が小さく鳴る。
「兄ちゃん。あんた、逃げてきたんだろう」
「…………」
「答えなくて良いさ。俺の独り言だからな。だがなあ、気を付けな、兄ちゃん。逃げてきたんなら、あんたには追手がいる筈だ。その追手がヤバい奴なら、ここにいるあんたを捕まえる為に、何だってするぜ」
ひやりとした手に、背を撫でられたような。
そんな感覚に、ケイシーは突き落とされた。
「なあ兄ちゃん。これは本当に余計な一言かもしれねえけどよ、兄ちゃん、戻れるんなら、戻った方がいいと思うぜ。そうすりゃ、ひょっとしたら少しくらいは救われたような心地になれる日が来るかもしれねえ。なんもかも、失っちまう前にな」
「黙ってくれ」
堪えられなかった。ケイシーは荒々しく自分のグラスをカウンターに叩き付けた。
「あんたに、あんたに俺の何が分かるって言うんだ。救われることなんて、もう一生ないんだ、俺は、もう」
溢れそうになる激情を飲み込んで、ケイシーは立ち上がる。
「あんたが、悪い奴じゃないのは分かった。だが、あんたのそれは完全な余計なお世話って奴だ」
「……そうかい、悪いことをしたな」
男は、案外すんなりと謝罪の言葉をケイシーに投げ掛けた。
「邪魔したな。俺はもう行く」
「上手くやんなよ、兄ちゃん」
乱暴に背を叩かれながら、ケイシーは酒場を後にした。夜の闇と咽るような蒸気に包まれて酒気は逃げていく。ふと空恐ろしさを感じてケイシーは慌てて懐を探った。すぐに探り当てたかさりと乾いた感触に、ほうと今度は安堵の息が零れる。誰の目にも触れぬように、指の腹でそれを緩く撫でる。
それは一枚の、丸められた紙。巻物と呼んでも差し支えない程に長細いそれには幾つもの穴、黒点が穿たれている。
これこそが、ケイシーにとってのかけがえのないものであり、決して誰にも渡してはならないものだった。
他ならぬ、愛したアイリスの為に。
・・・・・
アイリスは、優れたピアニストだった。
生まれながらにして英才教育を受けて、正しくその才能を開花させた、神に愛された天才だった。彼女の奏でるピアノは実に情緒豊かで、物語を読み上げるかの如く響き渡った。彼女の奏でるピアノを聞いた人々は彼女の奏でる曲のままに感情を発露させた。楽しい曲ならば自然と笑顔になり、悲しい曲ならば一様に涙を流した。アイリスは初めから定められていたかのように、世界中で愛されるピアニストになった。
ケイシーとアイリスが出会ったのは、奇跡でしかなかった。
偶然にもアイリスの手からハンドバッグを奪ったスリを、これまた偶然にもケイシーが捕まえてバッグを取り返したのだ。ささやかな不運に見舞われたアイリスは、目の前で不運から救ってくれたケイシーをどういう訳かいたく気に入ったらしい。ケイシーはお礼にとカフェに連れていかれ、そして彼もまた、天才ピアニストと謳われながらその実、稚気の残る彼女に惹かれて行った。運命的な出会い以外の何物でもないだろう。そうでもなければ、錆びれた工場で働くばかりのケイシーが彼女に見初められることなんてなかった筈だ。
そんな二人は、しかし、順調に距離を縮めていき、半年もすれば、二人で暮らすようになっていた。その日の生活費を稼ぐのがやっとなケイシーは、アイリスに半ば養われていた。その分、ケイシーは彼女に尽くした。少しでも、彼女の支えになろうとした。アイリスは、そんな献身的なケイシーに益々愛を注いでいった。
二人の小さな住まいには彼女の為のピアノが置かれた。
アイリスは時間が出来ればそこで小さなリサイタルを開いた。ケイシー一人の為の、ささやかなリサイタル。真珠の粒のように美しく、繊細な音色を、ケイシーは彼女自身と同じくらいに愛して止まなかった。
アイリスは世界中で天才と持て囃された。
しかし、ある時から、彼女の活躍には陰りが生じるようになった。
人々の生活を支える蒸気機関は、研究と開発の果てに音楽を奏でることを覚えてしまった。
幾つものパイプと鍵盤、そして蒸気を排出する為の煙突によって構成された歪な装置はしかし、穴の穿たれた長大な紙、
ただの一つのミスもなく。
如何な超絶技巧をも完璧に奏で切る。
装置の物珍しさも手伝って、自動演奏装置は爆発的な人気を博した。多くの人では演奏出来ぬ楽譜が作られ、そして奏でられた。複雑怪奇な、技巧に満ちた楽曲に人々は驚嘆の拍手を送った。
そして、人間の演奏家は、少しずつ追いやられていった。
アイリスもまた、例外ではなかった。
人々は、情緒を揺り動かされるより、多くの音符に打ちのめされることを選んでしまったのだ。
それでもアイリスは変わらなかった。数は減ったが、仕事となれば人々の琴線を震わせ、美しい音色を惜しみなく響かせた。そして、以前よりも多くの時間をケイシーへ奉げるリサイタルへ費やした。ケイシーもまた、愛した彼女の音色に励まされながら必死に働いた。ケイシーは歪な装置を憎んではいたが、それでも幸福だった。
アイリスが病に倒れるまでは。
蒸気機関は、石炭を燃やし、水を沸かした蒸気を糧に駆動する。
蒸気都市の空気は、石炭の燃える煙と排出される蒸気でいつも濁っていた。
――灰胸病。
それは、蒸気機関によって汚染された空気によって引き起こされる、不治の病だった。
・・・・・
「アイリス、君は今までどこに行っていたんだ!」
「ごめんなさい、でも、どうしてもやりたいことがあったの」
「やりたいこと……? ああ、座ってくれ、君は無茶をしてはいけないんだから」
「大丈夫、大丈夫よ、ケイシー。今日は気分が良かったから」
「そうか……」
「ね、ケイシー。勝手に外に出たのは謝るわ。でも、それだけ、やりたかったことなの。貴方に、贈り物をしたくって」
「贈り物?」
「ひょっとしたら、貴方は怒るかもしれない。でも、それでも、わたしはこれを貴方に託したかったの。ね、受け取って」
「ケイシー、これは、まさか……そんな……」
「今なら、まだ弾ける。だから、作ったの。もしも、わたしがいなくなっても貴方が寂しくないように」
「これは、しかし、君とは違うじゃないか……」
「そうね。でも、なにもないより、ずっと良いと思わない?」
「アイリス……」
「ケイシー……ねえ、お願い、これを、わたしだと思って大切にして。わたしがいなくなっても」
・・・・・
楽譜は、一から作る他にも製造方法があった。
それは、人間の演奏から出力すること。
自動演奏装置が人気を博してから、そうした技術もどんどん発展していった。著名な演奏家に依頼して、その演奏の複製を生み出す。そうしたことが流行していた。
ケイシーの目を盗み、アイリスが自らの演奏を楽譜に刻んだのは、彼女が死ぬ三ヶ月前のことだった。ケイシーの記憶に残るアイリスの最期の姿は、とても穏やかで、満ち足りていた。大きな喪失を抱えた、ケイシー自身とは裏腹に。
そして、ケイシーには、アイリスの旋律の刻まれた楽譜だけが遺された。
アイリスの楽譜は、どこから漏れたのか、気付けば世間から注目を集めるようになっていった。
天才ピアニストの最期の演奏。
誰もが欲しがった。
聞きたがった。
自動演奏装置に読み込ませる瞬間を待ち望んでいた。
ケイシーは恐怖を覚えた。
決して、自動演奏装置にアイリスの旋律を奏でさせてはならない。
自分以外の誰かに、楽譜を奪われてはならない。
ケイシーがそうした決意を固める頃には、かつてアイリスの演奏を聞いていた人間たちが、関係者の皮を被ってケイシーの住まいをしきりに訪れるようになっていた。誰もが丁重な言葉で、彼女の楽譜をケイシーから奪おうとした。ケイシーの周りには、最早敵しかいなかった。
逃亡。
ケイシーがその選択肢を取るまでに、そう時間は掛からなかった。
・・・・・
所詮は蒸気都市。
如何に発展していようが、その広さには限りがある。
無法地帯、変人窟の片隅で、ケイシーはとうとう追い詰められた。猥雑な街の中にポツンと取り残された、かつてランドマークだったのであろう歪で細い塔。息を荒げながらケイシーは略奪者を睨み付ける。
それは、一等熱心に――時に狂信的とでも言える熱心さで――アイリスの楽譜を欲しがっていた男だった。
「どうして、貴方はそれを頑なに譲ってくださらないのですか。私は、何も永遠に楽譜を奪おうとはしていません。ただ一度、それを自動演奏装置に掛けて、彼女の旋律にもう一度心震わせたいのです。彼女には多くのファンがいた。彼らもきっと、喜んでくれる。ただ、それだけなのです。だのに、どうして貴方はそう頑なに拒み、逃げるのか」
「お前たちが酷い間違いに囚われているからだ」
ケイシーは声を荒げる。
「とんだ間違いだ……なんて愚かで、馬鹿な考えだ……」
「間違い?」
「お前は、自動演奏装置の演奏を聞いたことはあるか」
「ええ、勿論。素晴らしい技術です、あれは」
「ああ、やはり、そうか、大馬鹿者じゃあないか」
ケイシーはヒステリックに頭を振る。
「あんな物、アイリスの演奏を奏でることは決して出来ない」
「他ならぬ彼女が遺してくれたのですよ? 奏でる為に必要な楽譜は貴方の懐にある」
「その考えが愚かだと言っているんだ!」
ケイシーは慟哭した。
「意思のない機械が、蒸気が、無機物に穿たれた穴がどんなに美しくピアノを奏でたって、そこに彼女の魂は一欠片もありはしないじゃないか!」
頭を掻き毟る。
「同じ音を辿ろうと、癖を真似ようと、彼女の心はそこにない。だって、彼女はもうこの世にいないのだから! アイリスの旋律は、アイリスにしか奏でられない! その彼女がいない今、もう、アイリスの旋律は永遠に喪われてしまったんだ!」
ケイシーの目を、滂沱の涙が濡らした。
「あの懐かしい旋律は、もう戻ってこない……だのにどいつもこいつも馬鹿の一つ覚えのようにこれを欲しがる……。これは、私にとってはアイリスの贈ってくれた、たった一つのかけがえのない宝物なだけなのに……」
アイリス。
そう、愛しい彼女の名を呼ぼうとしたケイシーの声は、銃声に掻き消された。
「馬鹿なのは、あんたのほうだよ。昔の思想に囚われて、ここまで面倒掛けやがって」
乱暴にケイシーの身体が蹴られ、動かなくなった彼の懐から楽譜が転げ出る。不躾な手が、掴み取る。
「これは金になるんだから。労働者一人の死なんざとは比べ物にならないくらいの金を生むんだよ」
下卑た声が、遠ざかっていく。
ケイシーはもう、動かない。
・・・・・
世界的な天才ピアニストの死後にどこからともなく発見された楽譜は、世界中の人々に注目された。
多くの期待を受けながら、楽譜は装置に吸い込まれ、装置は刻まれた通りに旋律を再生させる。
誰もが感嘆の息を零したが、しかし、すぐに首を捻ってしまった。
――これは、本当にあのアイリスの旋律なのか?
――こんな、こんな平坦な旋律だったか?
期待外れだ、と、結局自動演奏装置の奏でるアイリスの旋律はすぐに飽きられてしまった。
価値を失った楽譜は、薄汚れた倉庫の片隅で埃を被っている。
恐らくは、永遠に。
アイリスの旋律 夏鴉 @natsucrow_820
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