第21話 天罰
教室の前まで戻ると、まだ講習は続いていた。だが時間を見ると、もうすぐ次の休み時間になるはずだ。
そもそも人生に近道があるのかどうか。遠回りでも避けて通れないのが受験勉強というものなのかもしれない。
稀釈していない猛毒ジュースはあっという間に飲み干してしまった。空になった紙パックを握り潰しながら、それじゃあねと手を振って小田と別れた。
上機嫌で笑いながら私は、そのまま女子トイレへ向かう。
† † †
ジュースの紙パックをゴミ箱に捨て、誰もいないことをいつも通りに確認し、今回は一番手前の個室に入って鍵をかけると、例によってチェック柄のプリーツスカートのポケットからタバコとグリーンのライターを取り出した。
夏の風が運ぶ森の空気も美味しかったけど、タバコにはタバコで別のクセになるような何かがあるような気がする。煙を肺に入れていない私はニコチン中毒ではないけど、「吸う」という行為自体に依存性があるのかもしれない。
お祝い事など、気分の良い時に食べる料理は普段よりも美味しく感じるように、心が軽い時のタバコもまたいつもより二割り増しくらいで味わい深い。
私だって、受験勉強の大切さが分からないわけじゃない。
親が「勉強しろ」とレモンより口を酸っぱくして言うのも、私の将来を心配してくれてのことだというのも勿論分かっている。
講習は一つサボってしまったけれども、気分転換の散歩をした意義は充分にあったように思える。
未来を少しでも明るく照らすために、勉強はやれるだけやってみればいい。もし疲れた時は、タバコをふかして、黄色い爆弾を仕掛けるなり『毒』を流すなりして、再び勇気を呼び起こせばいい。
タバコの煙と一緒に私の憂鬱も換気扇が吸い上げてくれる。
貧乏性というべきか几帳面というべきか、いつもの通りしっかり根本まで吸ってから、オレンジ色っぽい吸い殻は和式便器の水がたまっている所へ。水に捨てる場合はどこかに押しつけて火を消す必要が無い。毎回毎回、トイレでタバコを吸うたびに実感する長所だ。
水を流すためレバーを動かす。
「あれ?」
思わず声に出して呟いてしまった。もう一度レバーを動かしてみる。
やはり水は出ない。不発だ。
――どういうこと?
何回も何回もレバーを動かす。エアーを噛んだような、気の抜けた音がするだけで、肝心の水は流れない。
無敵のはずの水洗トイレ、どうしたというのか。よもやのピンチに陥った。
と一瞬思ったが、すぐに原因が思い当たった。
「あっ……貯水槽清掃中は断水になるんだ……」
他校の友達と話した時も、業者が作業している最中は一時的ではあるけど断水になる、と言っていた。今更思い出しても遅かったが。
長期間ではないとはいえ断水になるからこそ、学校に来る人数が少なく影響が小さい夏休み中に貯水槽清掃は行われるらしい。学校に来た時に玄関で見かけた貼り紙は、内容はよく確認していなかったけど、恐らくこの断水の告知だったのだ。
さっき、パンチパーマ中年作業員はどう言っていただろうか。最初の塩素散布から、三〇分放置して、もう一度塩素を散布してから、更に三〇分放置して、それからやっと貯水槽に水を入れる、という話だったはず。つまり、やたらと待機時間のかかる消毒作業が終わるまでは、水はお預けということだ。
「あーあ。困ったな」
困ったと言いつつ、思わず笑みがこぼれてしまった。
貯水槽清掃が終了して水道が復旧するまで、トイレの個室から出られなくなった。
文字通りせっちん詰めだ。
そう思うと、換気扇がフル回転していても空気がよどんで蒸し暑さが増してきたような感覚がせり上がってきた。
もし吸い殻を流さずに個室から出たとしても、運が良ければ先生には見つからないだろうし、仮に見つかったとしても私が犯人だと特定される可能性は低いだろう。でも日頃だってタバコを流した後もニオイが消えるのを待ってから個室から出るように、少しでも不利な証拠は残したくなかった。講習を一つサボってはしまったけど、親や先生の前では、なるべく良い子のフリをしておきたい。
さっき小田に「悪いことはできないね」などと軽く言ったけど、まさか自分にあてはまってしまうとは。
「はっはははは……」
粋な天罰に、思わず声を出して笑ってしまった。
顔や声で笑うと、つられて心も笑うという言葉を聞いたことがあるが、私もなんとなく更に闊達自在で楽しい気分になった。
不治の病の梶井なんとかという作家とは違って、私には心配すべき将来がある。時代が違うから価値観も違うと言ってしまえばそれまでだが、先が見えない将来があるということ自体、充分に幸せなことなのかもしれない。
屋上の貯水槽こそが、私にとっては、クリームイエローのちょっとした時限爆弾だったみたいだ。
黄色い爆弾と貯水槽 kanegon @1234aiueo
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