第20話 爽やかな味
パンチパーマ作業員は、槽内からバケツを受け取り、代わりに噴霧器を中に入れた。さほど作業の支障にはならないと分かっているので、私は質問をぶつける。
「今のやつで塩素消毒をしたら、貯水槽清掃は終わり、なんですよね?」
私の予想に反して、タンク上の作業員は陽射しに目を細めながら首を横に振った。
「この塩素を一回、ざっと槽内に散布して、三〇分放置して、それからまたもう一回散布するんですよ。そしてまた更に三〇分放置して、充分に滅菌ができたことを確認してから、貯水槽に再び水を貯める。そういう決まりになっているから、待ち時間が面倒くさいですね」
「へえー」
「へえー……」
意図せず、小田と私のへえーが唱和した。そうこうしている間に、タンク内の道具を出してから、潜入作業を行っていた小柄な作業員が外に出てきた。顔面には、水滴が多数浮いていた。
「よーし、お疲れ。とりあえず三〇分休憩だ」
どうやらこの後は、三〇分は特に動きも無く、ただ時間が経過するのを待つだけらしい。
さすがにこれ以上は貯水槽清掃を見学してはいられない。三〇分も待っていたら、次の講習が始まってしまう。さすがに二つ連続でサボってしまっては、講習料金ももったいないし、勉強の遅れも気になる。
今の気分は、非常に満ち足りている。初めて屋上に足を踏み入れて。貯水槽に毒を投入するというテロ行為をして……いや、する寸前まで行って。滅多に見学する機会は無いであろう貯水槽清掃の様子を解説付きで見て。色々と楽しい経験ができたので、講習を一つサボって屋上に来た時間は、無駄ではなかった。
私は「おじゃましましたー」と作業員に挨拶してから、水色の扉を開けて校舎内に戻ることにした。二人の作業員も軽く会釈してくれた。小田ももう屋上に満足したのか。あるいはこれ以上の長居を諦めたのか。私の後に続いた。
眩しいくらいに明るい屋上から校舎に入ったので、蛍光灯に照らされている階段すらも少し薄暗く感じる。白いリノリウムのステップも、薄いグレーのような感じを受ける。
私が右手に持っているのは、ストローを刺したきり、行き場を無くした紙パック入りジュースだ。結局、貯水槽に投入するのは未遂に終わってしまった。テロ実行のためにわざわざ一階まで降りるという肉体労働をして買ったのに、無駄に疲れて喉が渇いただけだった。自分が飲むためのジュースを買おうかどうか逡巡し、最終的には保留したけど、今となってはこのテロ用のジュースを飲んでしまっても構わない。
さっきは猛スピードで駆け下った階段を今はのんびり歩きながら、ストローをくわえて一口吸う。
甘みよりも酸味が舌を刺激した。既に少しぬるくなっていたが、すっぱさが心地よく体に染み込むので気にならなかった。
「あ、西川。俺にもジュース一口飲ませてくれよ。ずっと屋上にいたら、喉渇いちゃったよ」
追いついてきた小田が、私に向かって手を差し出した。さほど高価でもないジュースをケチるつもりもないし、今まではほとんど言葉を交わしたこともなかった小田との間には、短時間のうちに悪だくみの共犯意識というか戦友同士のような偽悪的な感情が芽生えていたので、私はジュースを手渡した。
小田は私と肩を並べて、爆弾ジュースを一口飲んで「うめぇ~」とヤギのように一言だけ呟いた。
埃っぽい階段を降りながら、ジュースを返してもらった私はわざとらしいくらいに大袈裟に嘆息した。
「あーあ。せっかく貯水槽に『毒』を入れてみんなを殺すはずだったのにねー。まさか今日がよりによって一年に一回の貯水槽清掃の日に当たっていたとは。残念だったねー、小田。三六五分の一の確率が大当たりだよ」
私の足取りはなんとなく軽かった。校舎五フロア分一気上り下りをした疲労も、ジュースで糖分補給したせいもあってか、もう回復している。茶化すように言った私の言葉をうけて、小田は腕組みをしながら歩いていた。どこか脱力したような、膝の力が抜けてしまっているような歩みだった。
「……そうか。貯水槽清掃のために業者が来るから、屋上の鍵も、貯水槽の蓋の所に付いていた南京錠も事前に開けてあったのか……」
ツンツンヘアのように唇を尖らせた小田である。視聴覚教室も使わない時は鍵がかかっていたし、屋上の扉も貯水槽の蓋も日頃はきちんと施錠されているのだろう。
音楽室では相変わらず吹奏楽部の練習が続いていた。モーツァルトやベートーヴェンの肖像が見守る中、音符の津波で青春の炎を燃やし続けているようだ。
校舎内は籠もった蒸し暑さは相変わらずだが、直射日光は窓から差し込むだけなので、屋上とは違って日焼けの心配は少なそうだ。日焼けのし過ぎで国籍不明になるという心配が少ないことが、私みたいに部活に所属していない者のメリットのはずだ。
「悪いことはできないねー、小田」
「……そうかもな。屋上に行けるなんて、めったにチャンスが無いからなあ。あーあ。惜しかったな……せっかく貯水槽に毒を入れるところまでは上手く行ったのに。最後の最後の詰めで、水を抜かれて失敗に終わっちゃったよなぁ……」
貯水槽の水を全部入れ替えて蛇口からオレンジジュース、というのは永遠に叶わぬ夢、荒唐無稽な子供の妄想でしかないのか。ジュースは蛇口を捻れば出てくるものではなく、自動販売機でコインを投入してボタンを押すという決まりきった方程式の解でしかないのか。
ストローをくわえ、ちびちびと一〇〇パーセント果汁を飲む。あっさりとした小田と間接キスは、柑橘系のすっぱい爽やかな味だった。
「ところで小田って国語得意なの? 梶井なんとかって難しい小説知ってるんでしょ?」
「梶井基次郎が好きなのは、単に俺の好みだよ。国語はまあまあ得意なつもりだけど、理系が苦手で、頑張ってもっと勉強しないと全然ダメだよ。得意とか苦手とか以前の問題として、毎日暑いしさ、勉強なんてウザくてやってられないって感じ」
受験英語の単語を覚え、数学の小難しい公式や歴史の年号を必死に丸暗記することは、人生の近道ではない気がする。
「でも貯水槽に『毒』を流すなんて、面白かった。小田、よくそんなこと考えついたよね。テロリストの素質あるよ」
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