「不死身の男」答え

読んで頂き有難う御座いました。


目星は付きましたでしょうか。


私の筆力不足、知識不足で、下記を見て「なんだ」と拍子抜けされる方もおられるかもしれません。


こういうの好きでなんです。

また、研鑽致しまして、チャレンジできるといいなと思っています。


その時はまた、おつきあいください。



『第一の男』

栗林忠道

大日本帝国陸軍 陸軍大将 1945年3月26日 硫黄島にて戦死

陸大次席 海外に赴任経験もあり、国際情勢に明るく、身分を越えて気さくに接する温かい人柄であり、「予は常に諸子の先頭にあり」と勇ましく戦う勇猛な将であった。また、まめに妻子に電文を送り、長男へ送ったイラスト入りの手紙は有名であるように情愛の深いよき家庭人でもあった。

太平洋戦争きっての名将と呼ばれる。

辞世の句

「国の為 重き務めを果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」



『第二の男』

平清盛

武家初の太政大臣 1181年3月20日 熱病にて病死

日栄貿易に力を入れ国を富ませ、斬新な水上の社、厳島神社を設計した。悪どく大胆な政治手腕とともに、下々に優しく、また敵にも情けをかけたなど寛容でおおらかな人柄を伝えるエピソードも伝わる。有名な「平氏にあらずんば、、」という台詞は、義弟の平時忠が言ったという。

死に際して、妻、時子に遺言を求められ

「今生の望、一事ものこる処なし」

と告げ

「やがて討手を遣わし、頼朝の首をば刎ねて、我が墓前に懸かるべし。それぞ孝養にてあらんずる」

と言ったと伝わる。


『第三の男』

榎本武揚

幕臣 海軍中将 1908年10月26日 病死

昌平坂学問所にてジョン万次郎に洋学を学ぶ。海軍伝習所を卒業後、オランダに留学。後、海軍副総裁就任。戊辰戦争では幕臣を率い蝦夷地五稜郭を占拠し、蝦夷共和国の総裁に就任する。政府軍に降伏後、投獄。黒田清隆たちの助命嘆願により出獄後は政府で大臣など要職を歴任する。

「和魂洋才の聡明で広い人柄」と称される。投獄中には獄中の少年たちに学問を教えた。

五稜郭では日本で初めての選挙を行い総裁に就任した。また負傷兵を湯の川温泉にて、温泉療養させ、自らもしばしば足を運んだという。

鉄隕石で刀を四振り作らせ、二振りを大正天皇に献上した。

〒は榎本の手によるデザイン。

酒好きで、当時珍しかったハイネケンビールを輸入し、その空き瓶が五稜郭から出土しているなど、新進気鋭な洒落た人柄が伝わる。

辞世の句

「隅田川 誰を主と言問はば 鍋焼きうどん おでん熱燗」



『第四の男』

北大路魯山人

芸術家 1995年 病死

父は生まれる前に割腹自殺、母は魯山人をおいて家出、その後預けられた先も次々に不幸にみまわれ、養家を転々とする不遇な生育歴が、傲岸不遜と言われる魯山人の人格形成に甚大な影響を及ぼしたとされる。その代わりのように、研ぎ澄まされた独特な美的センスを早くから見せ、当代一流の芸術家へと彼を押し上げた。

ホームドラマのセリフにも泣く程に家庭の暖かさに飢えて居たが、六度の結婚は全て破綻し、男児は夭折、女児を溺愛したが長じて裏切られ、孤高の芸術家としてその人生を終えた。



『ベースになっている男』

織田三郎信長

天下人 戦国大名 1582年 6月21日(旧暦2日) 本能寺の変にて横死


家臣

A 最古参の家臣 豊臣秀吉

B 茶頭の家臣   明智十兵衛光秀

C 近習の家臣  堀久太郎秀政

D 小姓の家臣  長谷川竹 (藤五郎秀一)



ありがとうございました(麒麟屋拝

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不死身の男 麒麟屋絢丸 @ikumalkirinya

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