第2話 父の死

 キヨシが、“人の死“に直面したのは二十二歳の春のことである。その始まりは、「チチキトク スグカエレ」という電報。入社して日の浅い製薬会社で、新入社員教育を受けているさなかであった。

 独身寮に届いた急報を俄には信じられず、彼は郷里の兄に電話を掛ける。そして、電話口で、「冗談でしょう、嘘でしょう!」と数回も繰り返した。しばらくは事実を受け容れることができなかったのである。

 しかし、父はその日の午前十時頃に脳出血で倒れ、その後も意識がないという。キヨシは、翌朝、地下鉄で新大阪駅に向かい、開業して数年も経っていない新幹線に飛び乗った。


 信州の生家には兄弟姉妹が集まっていた。その数は十一人。戦前の「産めよ、増やせよ」の時代であったからさほど珍しいことではなかったが、それでも布団に横たわった父を取り囲む兄弟姉妹の数は多かった。枕元で代わる代わるに声を掛けたり、乾いた唇を綿棒で濡らしたりしてはみたものの、父の反応はまったくない。そうこうするうちに一夜が明け、朝を迎えた。


 彼は、「大切な入社教育を休んではいられない」という思いに駆られて、大阪に向かう。意識のない父の傍にいても何もできない……という無力感も手伝っていた。しかし、独身寮に辿りついた夕方に、“いよいよ臨終が近い“という報せが届き、彼は、翌朝、再び新幹線に飛び乗った。


 生家に着いたのは、午後の三時過ぎ。その一時間ほど後に、隣町から医師が往診にやってきた。キヨシが薬学の出身で、製薬会社に入ったことを聞きつけると、「もう幾らも持たないが、強心剤を打ちましょうか?」と問い掛けてくる。

 キヨシは、病気について何の知識もなかったが、黙って医師に頷いた。往診鞄から注射器を取り出し、薬液のアンプルをカットしながら、医師は言葉を重ねた。


「君は、薬学を学んできたようだから言うんだが、お父さんの死亡時刻を正確に押さえておいてくれないか。そして、後で私に電話で連絡してくれんかね」

 小声で言う医師に「ハイ」と返事をして、彼はそそくさと立ち去る医師の後ろ姿を、兄や姉と共に見送った。


 父が逝ったのは、その夜の午後十一時三十五分。五月も残り少ない深夜のことであった。激しくなったり弱まったりしていた息遣いが完全に止まった。それを確かめると、彼は医師に正確に伝えようと、柱時計の針を脳裏にしっかり焼き付けた。


 兄が、伸びた父の髭を剃り死化粧を施して、奥座敷に安置した。それらが済むと、兄弟姉妹は疲れ切って寝息を立て始める。キヨシは何時までも寝付かれずに、布団をそっと抜け出した。そして奥座敷の父の亡骸なきがらに添い寝をしながら、顔の白布を取り払った。

 倒れてから四日後に亡くなった父は健康なときと変わらないほど健やかで、顔は艶やかでさえあった。その父の額を撫でながら「大変だったね、もう安心してお袋のところにいっていいよ。一番下の僕が一人前になったんだから、もう何も心配は要らない……」と何度も語り掛ける。


 六十四歳で昇天した父は、若くして二度も妻に先立たれている。最初の妻は女児と男児を二人残して夭折ようせつ、その後にキヨシの母が嫁いで九人の子を産んでいる。

 その二番目の妻も、彼が三歳になった春に虫垂炎をこじらせて命を落とした。そのとき、父はまだ四十の半ばであったが、もう二度と妻は持たない、再婚はしないと心に誓った。そして、異母兄弟を別け隔てなく育てるために二人の妻の写真をすべて焼き捨てたという。男やもめの生活は一人でも大義なのに、十一人もの子を男手ひとつで育てるのは大変なことである。もちろん、年長の姉や長男の嫁の手を借りることはできたであろう。しかし、貧しい一家の生計を立てながらの子育て、それは心身ともに想像を絶する苦難があったに違いない。


 その父が、いま隣りで静かに眠っている。気持ちよさそうに、そして安らかに。その亡骸から、とてつもなく重い仕事をやり遂げてホッとした……という安堵感が伝わってくる。

 そんな思いにひたりながら、キヨシは冷たくなってゆく父に夜が明けるまで寄り添っていた。

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