第5話 自宅で迎える穏やかな死

 数年前に、キヨシとあまり歳が離れていない兄が肝臓がんで他界した。キヨシには七人の兄と三人の姉がいたが、その中でも一番心が通い合う兄であったかも知れない。その兄は、地元の工業高校を卒業後に上京。次兄が経営するクリーニング店で働きながら夜間の大学に通った。大学を卒業した後は電線やケーブルを作る会社に就職したが、すぐに会社が倒産。それからは好きな車の整備士を目指して、荒川区にある小さな整備工場に勤めた。


 その工場に隣接した旧い佐藤家が、兄が生涯を過ごす棲家となった。佐藤家は、母と息子に娘の三人暮らし。父を第二次大戦で失った戦没者の遺族で、自動車の整備工場のほかに米屋を営んでいた。

 兄は、車の修理や整備に朝早くから夜遅くまで真っ黒になって働いた。その真面目な人柄や働きぶりは、佐藤家の未亡人やその娘が認めるところとなり、兄は次第に工場の中心的な存在になっていく。


 ところが、整備工場の社長、佐藤家の長男が大きな問題を抱えていた。彼は、重度のギャンブル依存症で、休日になると競馬競輪、競艇へと走った。そして、有り金を全部使い果たすと高利貸しに飛び込み、見境もなく借金を重ねる。整備工場には多くの客が出入りしていたので、収入は決して少なくはなかった。しかし、その収入を遥かに超える借金が日増しに膨らんでいく。


 母子家庭で長男がギャンブル依存症となれば将来は暗くて心細い。未亡人と娘は、日が経つにつれて誠実で働き者の兄に相談したり頼ったりすることが増えてきた。佐藤家の娘と兄は、ほぼ同じ年回りで、互いに好意を抱くようにもなっていた。しかし、このままでは整備工場は借金のカタに取られ、その次には米屋の店舗と住家までも失いかねない。


 そこで、未亡人は兄たちに提案を持ちかける。兄が佐藤家の養子として娘と結婚、米屋を整備工場と切り離して、娘夫婦に相続させる。そうすれば工場は失っても、米屋だけは残るという算段である。


 その提案を受け入れた兄は、佐藤家の婿に入り、米屋を継ぐことになった。それまで働いていた整備工場はほどなくして倒産、工場の跡地も借金のカタに取り上げられてしまった。それでも長男のギャンブル依存症は治らず、佐藤家には借金の請求書が送られてくる。


 兄は、見覚えもない請求書に驚き、未亡人、結婚後は義母となった女主人に問い質した。そうすると、「息子に首を吊って死ぬって泣きつかれたら仕方がないでしょ。私だって、判を押したくはないわよ」と、にべも無い返事。「そんな、馬鹿な!」と憤慨しても、口に出すことはできない。養子の身としては、黙って引き下がるほかはなかった。

 その長男は、どこに住んでいるのかさえも定かではなかった。しかし、借金は増えることはあっても減ることはない。兄夫婦には三人の子供が生まれたが、兄は出口の見えない借金地獄に苦しみながら、家業の米屋や様々な副業で食いつなぐ。


 佐藤家の泥沼に嵌ったような生活は、未亡人が脳卒中で倒れるまで続いた。卒中後の未亡人は後遺症がひどく、寝たきり状態が長く続く。意識も「あるかないか」という状態だったので、兄夫妻は禁治産者の申立てをして、彼女が借金の保証人にはなれないように手を打った。



 その兄と、信州の生家で一緒に暮らした頃に印象的な思い出がある。恐らく兄が高校生で、キヨシは小学校の三年か四年生ぐらい。兄は誕生日のお祝いに友だちを数人、家に招いた。しかし、父子家庭の長男に嫁いで数年経つ兄嫁が、渋々料理を作ってテーブルに並べる。その料理を囲んで、得意気に振る舞う兄の姿が脳裏に焼き付いている。


 キヨシはそのとき、「兄の真似は到底できない、誕生祝いをして欲しいなどと口にすることさえ叶わない」と幼心に強く思った。長兄が結婚したのは、キヨシが小学校に入学する前の年。それまで一緒にいた兄や姉たちは高校を卒業すると東京に出て行く。長兄の夫婦には子供が一人、二人と生まれてくる。瞬く間に“住み慣れた我が家”が長兄夫婦の家に変わってしまい、自分の居場所がなくなってゆく。


 幼い子供は自分が愛されているか否かに極めて敏感である。口に出さなくても、大人の表情や身ぶりからそれを察知する。キヨシの場合も、(そのときには理解できなかったが)兄嫁に嫌われていることを毎日針で刺されるように感じていた。そのような家庭環境であるにもかかわらず、誕生日を祝う会を盛大に開いて、楽しげに振る舞う兄の姿が羨ましく、眩しくさえ映ったのである。


 キヨシが成人してからも、兄との付き合いは変わりなく続いた。大学生の頃には養子に入った佐藤家によく遊びに行ったし、キヨシが結婚した後も家族連れで家に泊めてもらった。

 また、兄から「腰が痛い」と相談されたときには、キヨシの親しい医師を紹介。診察の結果、痛みの原因は家業の米運びにあることが判明、腰に負担が掛からないように工夫することが解決策になった。


 兄の家は、寝たきりの義母の介護に十年余り煩わされたが、その義母も他界。三人の子供たちも自立して、しばらく離れていた長男夫婦もすぐ近くに戻ってきた。キヨシも四国から東京に転勤となり、都内のマンションに移住。兄とは冠婚葬祭などがある度に顔を合わせ、ほかの兄弟と共に家族ぐるみの付き合いが続いていた。


 そんなある日、兄からキヨシに電話が掛かってきた。体調が悪いので、近くの開業医を受診したところ、アルコール中毒との診断。「晩酌に缶ビールを一本、それも350ML缶を一本飲む程度でアルコール中毒になるであろうか?」というのが兄の質問である。

 キヨシは、そんなことはあり得ない、診察した医師の誤診だよと一笑に付した。そして、少量の酒はむしろ健康に良いくらいで、まったく飲まない人より飲む人の方が長生きをする。むろん少量の酒だけどね・・・という話をして電話を切った。


 それから半年ほど経った夜に、また兄から電話が入った。かかりつけの医師は、その後もアルコール中毒だと断言するし、最近は下肢のこむら返りが頻発して、痙攣が起こると転げまわるほど痛いと言う。

 キヨシは、「アルコール中毒は考えられないし、こむら返りは専門医に掛からなければ何とも・・・」と話して受話器を置いた。その数分後に、今度は兄からFAXが入った。その日、彼が受診した開業医から手渡された臨床検査の報告書である。


 その検査値を見て、キヨシは驚いた。十種類余りある肝機能検査のすべてが異常値を示し、その程度も軽いものではない。キヨシは即座に受話器を執って、兄に電話を入れる。「これはアルコール中毒ではなくて、もっと重い病気だよ。すぐに大きな病院を受診すること、明日にでも行くように」と。


 数日後、兄は近くの都立病院を受診した。診察に当った医師は、紹介状を見て「ここはアル中患者を診るような病院ではないんだがねぇ・・・」と嫌味を言いながら渋々と診療を進める。しかし、二週間後の再診時には打って変わって『C型肝炎』の診断が下された。また、頻発するこむら返りは糖尿病が原因であることが判明。血糖値の管理が治療に結びつくとして、教育を兼ねた入院で治療することになった。


 兄が何故、C型肝炎に罹患したのか、その原因は不明であった。手術や輸血を受けたことはないので、恐らく歯科での治療時に感染したのではないかと兄は話している。この病気は実に厄介で、肝炎はやがて肝硬変に悪化して、その先は肝がんに進行していく。


 兄の場合も、やはり肝硬変から肝がんを発症する経過をたどった。都立病院を退院してから二、三年後に、兄は肝がんの治療で大学病院、千駄木に住んでいた義兄と同じ病院に入院する。そこで肝臓にできた腫瘍を、ラジオ波で焼切る治療―ラジオ波焼灼しょうしゃく療法―を受けることになった。


 肝硬変が肝がんに進行して、新たな治療法を主治医から告げられたとき、やはり兄は電話を掛けてきた。その話を聞いたとき、キヨシはやはり「教科書どおりか・・・」と、格別に驚きはしなかった。

 兄に乞われるまま、これから受ける治療を分かりやすく説明する。ラジオ波という高周波で腫瘍だけを選択的に焼き切る。具体的には超音波で腫瘍の位置や大きさを確認しながら、細い針を腫瘍内に刺し込む。その針先に電流を流して、発生する60℃の熱で腫瘍を焼き切る治療。もちろん、痛みがないように鎮痛薬の投与や局所麻酔をしてのことである。


 兄が納得するまで話した後で、キヨシは「検査入院とやることは同じだから、お見舞いにはいかないよ」と、こともなげに言い切る。兄の不安が和らぐようにと気遣い、大した治療ではないことを何度も強調して電話を切った。

 そして、一週間後に掛かってきた電話でも、「多分、腫瘍はまたできると思うよ。でも、その都度焼き切ってしまえばいいから、まだ何年も元気に生きられるよ」と、兄を励ました。


 そのような治療を繰り返しながら、兄は仕事に打ち込み、休日には家族揃っての行楽やドライブ旅行にも出掛けていた。しかし、C型肝炎の診断がついてから七、八年後に避けられない終焉がやってくる。


 それは三月中旬の、まだ寒い日のことであった。そのときの兄の電話は、普段と違って沈んだ声である。訊くと、いまは大学病院に入院していて、そこから電話をしているという。入院の理由は、何時もと同じ肝臓にまたできた腫瘍の治療。しかし、四度目になる今回は、腫瘍ができた場所が悪い、門脈というところに腫瘍ができて、焼き切ることが難しい。しかし、処置しないと生きられないので、門脈の拡張術をやることになりそうだ・・・というのである。


 キヨシは、電話では埒があかないと、その翌日、大学病院に兄を見舞った。そして、医師から言われたことを丁寧に聞き出して、兄の病状を把握した。

 門脈というのは、腸で吸収された栄養を肝臓に運び込む太い血管である。デンプンやタンパク質が胃や腸で消化されると、門脈経由で肝臓に入り、その人の体に合ったタンパクやグリコーゲンなどに作り変えられる。その太い門脈が腫瘍などで詰まった場合には、胃腸で消化された栄養は行き場を失う。脂肪だけは別の経路で取り込まれるが、いくら食べても栄養が摂れない状態に陥ってしまう。

 そこで若い主治医は、腫瘍で閉塞しそうな門脈を拡張する手術を行おうとしていた。しかし、それは大出血などの危険を伴うので、施行できるか検討をしているという。


 門脈の拡張術を施行するか否かは、月末の診療カンファランスで決定するという。その話を聞いて、「拡張術ができれば元気が出てくるし、新しい治療法の可能性も見つかるよ」と兄を励まして、キヨシは重苦しい病床を離れた。


 それから十日ほど経った四月の上旬、再びキヨシは大学病院に兄を見舞った。そしてカンファランスの結果は? と訊いたが、兄は弱々しく首を横に振った。やはり、リスクが大き過ぎて門脈の拡張術はできない。となると、後は消極的な治療法、制癌剤の投与で延命を図るしか方法は残されていない・・・。


 キヨシの浮かない表情を見て、病床の兄は「これから、どうなるのかな?」と低い声で訊ねた。

「ウーム、そろそろ覚悟をしておいた方が・・・」

 キヨシは声をひそめて、そう答えるしかなかった。


 四月の下旬に、キヨシは再び兄の病床を見舞った。わずかのあいだに兄は衰弱して、死期が迫っていることが感じ取れる。四十半ばになる兄の長女が病床にぴったり寄り添って、父の看病をしていた。


 彼女の話から、キヨシは、兄が肝がんの薬物治療を固く拒んでいることを知らされる。数日前に、点滴の後に気分が悪くなった兄は、制癌剤を投与されたことに腹を立てた。そして、長男をベッドに呼び寄せ、何故、制癌剤の投与を医師に許可したのかと強くなじったという。制癌剤に限らず、ブドウ糖の点滴やビタミン類の注射も嫌って、一時も早く家に帰りたい、頑張って食べるから病院から出してくれ・・・と訴える。


 その強い希望を叶えてやりたいと、兄の一番下の娘が動いた。彼女は、介護の仕事に就いていて、在宅医療の進め方や、必要なベッドのレンタルなどに詳しかった。それらの準備がやっと整い、その日は大学病院を退院して、自宅に戻る日時が決まったところだという。


 兄が眠っているあいだに多くのことを聞かされたキヨシは、幼い子供たちが家で待っているから・・・と腰を上げた長女をベッドサイドで見送る。その際に、彼女が枕元で呼び掛けると、兄は目を覚ました。


 病室には、キヨシと兄の二人だけになった。キヨシは、衰弱しきった兄をしばらく黙って見つめていた。その兄が、「俺、死ぬのかなぁ」とかすれた声でぽつりと呟く。キヨシは、その兄の問いには答えなかった。そして、「家に帰ろう。家に帰って、ゆっくりしたらいい。ゆっくりと・・・」と何度も繰り返した。


 大学病院の医師やナースは、終末期を迎えた兄が退院することに強く反対したという。しかし、その反対を振り切って、兄の家族は退院を決行する。そして、在宅療養に切り替えた三日目に、兄は家族に見守られて息を引き取った。

 まだ幼い孫たちが、「ジイジ、ジイジ!」と枕元で呼び掛ける。それらの声に静かに微笑んで、兄は永遠の眠りについた。

                                  <了>


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モミジのごとく 香取 淳 @jun-katori

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