第4話  恐怖に慄く「がん死」

 それは、キヨシが五十一歳の秋のことであった。東京の千駄木に住んでいた彼の義兄が亡くなった。その義兄は十歳あまり歳が離れた姉の夫で、生粋の江戸っ子である。彼はブラシ職人、糊やペンキを塗る刷毛はけやブラシを作るのを生業なりわいとしていた。

 彼が姉と結婚した頃は昔ながらの刷毛やブラシ―木製の柄に豚の毛などを挟み込んだもの―を作っていた。しかし、それらは単価が安いうえ、数多く売れるものでもなかったので、彼は新しい分野に目を付けた。家電や車などに表示する商品名や社名などのプレートを磨く『工業用のブラシ』である。その新たなビジネスは、高度成長時代の波に乗って目覚ましい勢いで伸びていった。


 我が国では1950年代の後半に、「もはや戦後ではない」という言葉と共に、『三種の神器』が登場する。白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の三つである。次いで、60年代の半ばになると高度成長時代に突入、今度はカラーテレビ、クーラー、カーの三つを持つことが国民的な夢になった。

 経済成長が目覚ましかった時代には、家電や耐久消費財は飛ぶように売れた。それらの製品には必ず商品名や社名が付けられるが、そのネームプレートは企業にとって極めて重要なものとなる。いつ何時もピカピカに光り輝いている必要があった。

そこに目をつけた義兄は、ネームプレートを製造する会社に出入りして、さまざまなプレートに対応できる工業用のブラシを次々に創り出した。その新しい仕事は競争相手がほとんどなく、使い勝手が良いと評価されるとコンスタントに見返り注文が来る。しかも、納入価格はほぼ言い値でまかり通った。


 時流に乗った事業は日増しに拡大し、義兄は結婚当初のアパート暮らしから一戸建に住み替え、さらには五階建てのビルのオーナーにまでなった。

 義兄のめざましい成功は、生業の刷毛・ブラシ作りを、時代のニーズに対応したものに切り替えたに過ぎないかも知れない。しかし、彼は世の中の動きに敏感で、先を読む力に優れていた。さらに誰にも好かれる性格で、商才にも長けていた。

そのような義兄であるが、子供のころは大の勉強嫌いで、小中学校はすべて劣等生で通したという。しかし、キヨシは義兄に会う度に、「この人は本当に頭がいい人だ・・・」という感慨をいつも抱いた。


 義兄は上背が高くがっしりした体つきで、顔も見るからに強そうである。したがって、人から言いがかりをつけられたとか、ケンカを売られたということは聞いたことがない。むしろ、不動産屋等との折衝では相手を威圧して、思うが儘の条件で取引するような力があった。そのようにして、都内に一戸建てを購入したり、買い換えた土地にビルを建てたりしている。さらには、「私もビルやアパートが欲しい・・・」という兄弟のために、掘り出し物件を紹介したりもしている。


 強面の一面を持つ義兄ではあるが、話が商売のことになると、愛想が良くて人懐っこい表情にとって変わる。己の無知無学をむしろ武器にして、相手の懐に抵抗なく飛び込んでゆく。その折に話す言葉はベランメー調で、「ひ」がうまく発音できずに「し」になるが、本人は一向に気にしない。

「宵越しの金は持たぬ」という典型的な江戸っ子気質で、夕方の五時に仕事を切り上げると、そこから先は遊びに徹する。自宅に大勢の仲間を集めて宴会を開く、あるいは盛り場に繰り出して飲み歩く。麻雀の卓を囲むときもある。

とにかく賑やかなことが大好きで、金回りがいいことも手伝って、仕事の関係者や親類縁者が毎晩、彼の家に集まってきた。


 いつも明るく元気で、ときには豪快にさえ見える義兄ではあるが、実は大変な小心者で臆病であった。特に、狭いところに閉じ込められるのがとことん苦手で、電車や新幹線、ましてや飛行機には絶対に乗らない。一度も乗ったことがないのである。

 さらに、面倒な書類や文書が大嫌いで、運転免許の取得も学科試験が障壁になった。学科試験のテキストを一目見ただけで、「俺には無理だ、受かる訳ねぇだろう」と諦めてしまう。そのため、彼は車の運転免許は持っていない。仕事も遊びも、常に運転手付きの自家用車かタクシーを使い廻す。いつでも乗り降りができ、好きなところに気が向くままに行ける車以外には決して乗ろうとはしなかった。


 食に対する偏りも極端で、野菜、とりわけ生野菜は一切口にしない。焼肉屋でもステーキハウスでも、レタスや青菜類は目の前から退けてしまう。そして、「そんなものはウサギの餌だよ」と決めつけて、肉だけを頬張っている。姉によれば、自宅にいるときも朝からステーキを食べることが多いという。そして、「人間はよぉ、肉を食わなきゃ、力は出ねぇぞ」と豪語していた。


 その飛ぶ鳥を落とすような勢いがあった義兄が、還暦を迎えてすぐに『腎がん』に侵された。キヨシはそのとき、転勤で四国の高松に住んでいた。姉からの電話を受け、義兄の病名を知ったが、最初に病院を受診させることが大変であったという。食欲不振や倦怠感が激しく、仕事も手に着かないので、嫌がる夫を説き伏せて近くの大学病院に連れて行った。外来を受診したが、その場ですぐに入院を言い渡され、診察や検査の結果は腎がん。

 キヨシは姉から『腎がん』と聞いたとき、「助からないな」と直感した。腎がんは自覚症状が乏しく、がんが発見されたときには末期であることが多いからである。


 義兄の場合も腎がんが見つかった時はすでに末期で、死は時間の問題であった。しかし、臆病で小心、自分の思うようにならない世界が大嫌いな義兄に、がんを告知することは誰の目にも無理があった。もし、告知をしたら義兄はどれほど取り乱してしまうか、そして何を仕出かすか、想像することもできない。


 入院してしばらく経ったとき、義兄は手術でがんに侵された片方の腎臓を摘出することになった。姑息的な手術であるが、腎がんの場合は全身に転移があっても治療成績がよくなるというデータに基づいていた。しかし、その手術を、義兄が受け入れることは大変であった。医師とナースに家族も加わって、手術を受けなければ命が危ない、手術をすれば助かる・・・と何度も説得して、ようやく同意に漕ぎつけた。


 しかし、術後も病状は改善することはなく、徐々に進行してゆく。制癌剤の投与時や病状が悪いときには入院、病状が比較的よくなると自宅で療養・・・という状況がしばらく続いた。時折、姉から経過についての電話が入ったが、義兄はキヨシにひどく会いたがっていると言う。しかし、キヨシは忙しいことを口実に、見舞いには行かなかった。

 仕事で忙しいことには間違いなかったが、不治の病、助かる見込みがない義兄に、キヨシは見え透いた嘘をつくことがたまらなく厭だった。義兄を病院に見舞い、二人だけになったとき、「なあ、俺の病気はいったい何なんだよォ」、さらに「この注射は何の薬だ?」と訊かれたときには、どう答えたらいいものか・・・。


 キヨシ自身は、がんをはじめ不治の病であっても「患者には真実を伝える、真実を知った上で、残された人生を精一杯に、大切に生きるべきだ」と思っている。したがって、病床で義兄に訊かれたときには真実を話して仕舞いはしないかと心配した。

 ――いや、多分自分は嘘をつく、嘘をつくだろうが、その嘘はすぐに義兄にばれてしまう・・・。

 そういう確信に近い思いが強かったのである。


 結局、義兄は自宅とすぐ近くの大学病院を何度も行き来しながら衰弱していった。容体が悪化して大学病院に戻されるときは、ひどく嫌がり、家族をとことん困らせたという。そのような闘病生活が一年以上も続いた。しかし、義兄は死を迎える日まで、自分が腎がんであることを知ることはなかった。


 初秋のある日、キヨシは義兄の訃報を高松で受け取った。取り急ぎ喪服をスーツケースに詰め込み、妻と共に空港に向かった。羽田に着いてからおよそ一時間、千駄木にある細長いビルの階段を駆け上がる。一階から三階までは貸店舗や賃貸住宅、四階より上が義兄の住居である。その四階の玄関から居間を通り、奥の座敷に入る。そこに義兄の白い棺が安置されていた。


 キヨシは、棺に横たわった義兄と対面して驚愕した。その死顔は、不安と恐怖、苦痛と苦悩に満ちていた。得体の知れない何かに捕えられ、無理やり地の底に引きずり込まれる恐怖と苦しみに、大きく歪んだ唇から、「おーい、誰か助けてくれ!」という叫びが聞こえてくるようである。

 その生涯忘れることのできない義兄の死顔は、何度見直しても和らぐことはなく、火葬場の焼却炉の奥に消えていった。

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